高橋空山
高橋空山記念館
Kuzan Takahashi Museum
このホームページにご来訪の皆様、
またホームページ管理者の皆様、
このたびは高橋空山に興味を持っていただいてどうもありがとうございます。
祖父高橋空山の芸術を皆さまにお届けすることができることを嬉しく思います。
高橋空山は当時まだ子供であった私の目から見ても文化を、
そして何より「道」ということを感じさせる人でした。
高橋空山の芸術が皆さまの心に何かをお届けすることができたなら幸いに思います。
白鳥静香 (作家、歌人)
高橋空山居士の生涯
高橋空山(本名・北雄)は明治三十三年十二月十五日、北海道小樽色内町に生れました。
幼少の頃より高橋家の家訓である皇室尊崇の念と文武両道を父君より厳しく教えられ、七つの頃から、父君より新陰流の剣術と柔道を学び、特に大学生の頃は、柔道に励みました。
剣については、新陰流十二代正統、柳生厳長先生より柳生新陰流を、また直心影流十五世山田和徳斎先生より直心影流の剣法を学びました。これらの流派はいずれも、起源は陰流という剣の流れに属するものです。
昭和二年北海道帝国大学農学部園芸学科(※1)を卒業し、その後は、宮城県公園主事となって松島公園の建設を行いました。その時、松島瑞巌寺の高僧である盤龍老子の元で禅と普化尺八(※2)を学びました。
日中戦争の際は、中国に渡り、南京の大民会首席顧問(※3)として、日本と中国の友好ために力を注ぎました。高橋空山は中国の古典に精通し、中国の人の心情を熟知していたため、中国の要人には尊敬され、多くの中国人に慕われました。
しかし、満州や中国に駐在していた日本軍は、中国人に対して強圧的な政策を強行していたため、自身の日中友好の理想とは相いれず、「業」半ばにして帰国しました。
帰国後は東京の本郷三丁目にある「曹洞宗諏訪山吉祥寺」の中に鈴法道場を設け、多くの弟子たちに剣や禅、書道を教えました。毎週土曜日の午後、吉祥寺の山門を入って直ぐ右手の幼稚園の講堂が道場となりました。
「鈴法道場」の名は、普化宗の祖、普化禅師が街頭で鈴を振りながら法を説いたという故事によるものです。
鈴法道場に入門した弟子は、年令や社会的地位の如何を問わず、十二時前に道場に行き、まずお茶の用意をします。常にお茶が切れぬように買いととのえておき、一時頃には湯が沸くように準備します。
弟子にとっては、先生が来られてから出すお茶の入れ方、お茶を捧げ持って歩く姿勢、茶碗のおき方など、立ち居振る舞いのすべてがすでに剣の修行の過程でした。いつ斬りつけられても、瞬時にしてこれに応じる構えができていなければ、武士の作法ではありません。茶を出すこと、茶を飲むことをふくむ全ての動作が、武の道にかなっていなければならなかったのです。
その後、高橋空山は小金井にて「鈴法庵」を結ばれ、諸道の更なる深奥を極めるために研鑽に励まれつつ、国の前途を託すべき有為の人材育成に尽力されました。(※4)
第 33 代内閣総理大臣・林銑十郎(※5)の禅の師でもあり、近衛文麿元首相にも禅を指導されました。
また1961年に日本音楽会の代表として欧州に渡り、ラジオやテレビ、演奏会などを通して尺八を紹介しました。高橋空山の尺八は、欧州の音楽家や学者達を驚かせ、東洋から来た瞑想音楽は彼らを魅了しました。以降、ヨーロッパの音楽家達は尺八に強い関心を示すようになりました。
1972年には、ミュンヘのオリンピックに因んだ「世界の文化と芸術展」に東洋音楽の代表として選ばれ、テレビを通してヨーロッパ各国へ「虚空」「虚霊」の2曲が放映されています。
また、文豪中里介山と親交があり、代表作「大菩薩峠」では、虚無僧空山としても登場しています。(※6)
神奈川県秦野市に居を移した後も、求道者に対する教導は続き、禅、書、尺八、剣術を学ぶため、多くの門弟が高橋空山の元を訪れました。現在でも、秦野市は尺八の聖地として語られています。
昭和六十一年十一月十七日、神奈川県秦野市の地に逝去されました。享年八十五歳。
冨士霊園にある墓誌は次のように生涯が刻まれています。
墓誌
高橋北雄(号空山)
昭和六十一年十一月十七日寂 享年八十五歳
鈴法庵空山真淳大居士
小樽ニ生レ幼少ヨリ文武礼楽ヲ学ブ北大ヲ質卒スルヤ剣禅笛(尺八)古流ノ正統ヲ求メテ新陰流ト普化宗ノ名人正師ヲ訪ネ刻苦研鑽ソノ奥義ヲ究ム禅ハ松島瑞厳寺ノ名僧盤龍老師ノ室ニ参ジ修行三十余年ソノ印可ヲ受ク駒込ニ鈴法道場ヲ設ケ剣禅一味以テ多クノ門弟ヲ養フ書ハ大師流ヲ学ビ奥伝ニ達ス更ニ世界ノ宗教哲学音楽等ニ精通シ之ガ一貫ノ道ヲ唱導ス人ト為リ謹厳剛直ニシテ名利ヲ潔シトセズ人ニ教フルコト峻厳ニシテ温情アリ鳴呼其ノ業績タレカ之ヲ仰ガザラン
門弟謹記
※ 写真左:神奈川県秦野市の道場にて 写真右:LPレコード「竹の響き」より
※1北海道帝国大学では水泳部を創設されました。また、北海道大学三大寮歌の一つである「春雨に濡る」(大正十二年度寮歌)の作詞は、高橋空山(北雄)によるものです。
※2普化尺八は、虚無僧尺八ともいわれます。江戸時代には、尺八は法器として普化宗に属する虚無僧のみが演奏するものとされていましたが、明治時代以降には、普化宗が廃止されたことにより虚無僧以外の者も演奏するようになりました。
※3陸軍少将待遇で日本の文化を伝える役割を担いました。
※4当時の東京大学剣道部が道場破りを行った際、高橋空山に悉く倒され、その後、多くの学生が門下生として修業に励まれました。
※5多磨霊園にある林銑十郎元首相の墓碑に刻まれた文字は、高橋空山の筆によるものです。 また、林銑十郎元首相の弟である白上佑吉(鳥取県元知事、富山県元知事)の三男・白上英三(一空軒)も高橋空山の弟子であり「高橋空山居士の世界」(壮神社)を出版しました。
※6映画「大菩薩峠」では、鈴慕奏吹として参加されています。
1.禅の世界
高橋空山は宮城県松島の端巌寺の松原盤龍老師に参じましたが、この端禅寺は東北を代表する名刹であり、禅宗寺院の中でも特に厳しい専門僧堂でした。諸国の優秀な禅僧や修行者が集まる修行場の中で、老師は常々「求道心の強きこと、高橋空山のごとくでなければならない」と訓戒されていました。
この松原盤龍老師について高橋空山は次のように記しています。
“禅師の亡くなるまで、三十余年の間、教えを受け、晩年には、「修行成就」の印可をいただいた。「空山」という居士号は禅師から与えられたものであった。昭和二年、北海道帝国大学を出て、間もなかった私は、恩師から「お前は世間というものを知らないから虚無僧になって世の風に吹かれよ」との命を受け、深編笠で、東京の町々を歩いた。”
昭和15年頃の鈴法道場では、剣と書の稽古の後、禅が行われました。門弟全員が道場にて座禅を組みます。そこから十メートルほど廊下を隔てた場所に四畳半の和室があり、高橋空山はその部屋の中央に座していました。
弟子たちは高橋空山から与えられた「公案(※)」を考え、回答が出せたものから、先生の元に「見解(けんげ:公案の回答のこと)」を披露します。入門したばかりの門弟は、坐を解いて立ち上がろうとする瞬間とか、廊下の途中まで歩いたところで、チリンチリンと先生の鳴らす鈴の音を聞くことになります。これは「お前の念頭にある見解は正しくないからもう一度、更に深く考えて来い」という意味です。弟子がやっとのことで入室して、いざこれから口を開こうとした瞬間に鈴の音を聞くこともありました。
※)「無門関」や「碧巌録」等禅門を代表する古典に収録されている禅宗の難解な問題のこと。“「無」とはなにか?”や“「何故、達磨大師はインドから中国に行かれたのですか?」との質問に対して「庭前の柏樹子だ」といった答えの意味とは何か?”などがあります。
2.音楽の世界
鈴法道場の「鈴法」とは普化尺八の曲名に由来します。
普化宗は尺八を吹く仏教の一派であり、その開祖は普化という僧侶であると言われています。しかし、普化禅師が尺八を吹いて禅の道を修められたことはなく、禅師は鈴を振り、「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打つ・・・」の偈(げ)を唱えていました。後に、尺八を吹く僧侶の中で、尺八を吹くことによって、精神が座禅以上に統一されることを自覚した人々が、修禅の中心として尺八を吹くことを主眼としたのが普化禅であり普化宗となったと言われています。その普化尺八の代表曲の一つが「鈴法」でした。
「普化宗史、その尺八奏法の楽理」(高橋空山著)では楽と禅の関係について以下のように述べられています。
“尺八では、胸よりも深い腹から息を出すので、大地の底から出るような深い幽玄な音を出すことができる。しかも、息づかいの大小、強弱、緩急や音色の変化によって織りなされる表現法は、おのずから積分表情をなし、古代ペルシアのじゅうたんを見るより美しく、複雑である。そして何より強調すべきことは、これらが深遠な禅の哲理により裏打ちされているのである。
すべて東洋では、結論ばかり述べてあって、しかも、抽象、統一されている。仏教では、「一音成仏」を唱え、夕闇の大自然に融けてゆく寺の鐘なども、これを暗示したものであるが、「天地と同根、万物と一体」を主張する禅意の端的な具現である。
筑紫筝(つくしごと)の最も終わりの極意に「一糸の曲」という曲がある。これは筝を立て掛けて置いて「中声一鳴、神人和楽」と唱えて、一超音(ハ長調のㇾ音に近い音)を弾くだけのことである。この音を弾くと、ズンとした一種の霊感といったものを感ずる。
これらは、尺八においても同じだが、此の音を真に深く吹き当てることは難しい。禅定にはいるつもりで、精神をしずめてからかからなければ、この微分的な音を探り当てることはできない。それは、そのまま「一音成仏」のあらわれである。
京都明暗時の開祖、虚竹禅師が托鉢に出ていた時に、途中で、色々な禅問答をしかけられると、手に持っている尺八を「吹一吹」して、何も言わずに、これを答えとして、去っていったと伝えられる境地にも通ずる。この深い禅の心境より出た一音が基調となり、これが分化して、古伝三曲となり、更に、二十六曲に分化して一大体系をなしている。曲目が音楽的体系をなすことは世界でもめずらしい。“
昭和34年10月号の「芸術新潮」において当時の東京芸術大学野村良雄教授は高橋空山について、次のような文章を書いています。
“本当の禅的音楽とはどういうものであろうか。禅的絵画はよく知られているのに禅的音楽がほとんど全く知られていないらしいことは驚くべきことである。本来の禅宗での音楽そのものは、わたくしの知る限りでは普化宗の尺八である。空山先生の尺八には完全に心服すものである。日本文化の伝統に単純で清らかで高い霊性があることを信じてきたのであるが、音楽にも必ずそれがあると考える。”
3.書の世界
高橋空山は青森に在住し、本間清山先生に師事して書を学びました。本間先生は一回しか教えず、それができないと厳しく叱り、先に進まなかったと言われます。しかし、既に剣の道に達していた高橋空山は師に学ぶや否や同門の先輩より遥かに短い期間で書の深奥の域に達することができました。
“最も基本ともいうべき「筆法」が正しくできていなければ、いかに何千、何万の字を書いても真の書の道を進むことはできない。”高橋空山の書の道は剣の道そのものであったといえます。
昭和15年頃の鈴法道場では、四時頃に剣の稽古が終わると次に書が教えられました。弟子は一人ずつ道場の中央に進み先生の前に座って一礼します。筆の先にたっぷり墨を含ませて紙の上に腕雄伸ばして構えると、高橋空山の右腕が弟子の筆を持つ少し上の部分を向こう側から握られます。それはお手本を真似て書く一般的な書道とは全く異なったものであり、剣を持って相対する剣の道と同じであったと言われています。
4.剣の世界
高橋空山の求道の原点は武の道と言われています。剣については新陰流二十代正統柳生巌長より柳生新陰流を、また直心流十五代山田一徳斎より直心影流の剣術を学びました。
昭和15年ころの、鈴法道場は本郷駒込、諏訪山吉祥寺のなかにある幼稚園の講堂にありました。園内には広い板張りの一室があって、そこで剣の他に禅、書を指導されていました。
当時の鈴法道場では、土曜日の一時になると稽古が始まります。鈴法道場では剣道の稽古のように面、籠手、胴といった防具は一切付けず、木剣、真剣、撓(しない)で稽古が行われました。
入門者はまず、「一刀両断」の件を学びます。これは剣を垂直に頭の上に立てて構え、そのまま真っすぐ相手の眉間の真ん中に向かって力いっぱい振り下ろすというものです。しかも、相手の眉間に触れる瞬間にピタリと止めなければなりません。一般の剣道では「上段の構え」は剣先を後ろまで振りかぶりますが、垂直に構えて直線的にさっと切り下す方が、距離が短く、早く相手の眉間の真ん中に到達するのです。
一人稽古を習熟すると、次に二人で向かい合って同時に振り下ろす稽古をします。この場合、より真ん中で、より早い方の剣だけが相手に当り、もう一方は相手の剣によって左右のいずれかに流されてしまいます。相手が自分より稽古を積んでいる場合、何回やっても自分の剣は左右に流され、相手の剣だけが自分の眉間の真ん中に入ってしまうのです。
木剣の場合、同時に真っすぐ振り下ろすと両者の剣は激しく中空でぶつかり、そこで止まります。それは木剣の先端に幅があるからです。しかし、真剣の場合、微妙な差でもより真っすぐな剣の方が相手の剣を左右に流してしまいます。この微妙な差は撓(しない)や木剣ではわかりません。この真実を知るために、古の剣人は真剣勝負を行ったのでしょう。“己の剣は相手に及ばなかった。”という真理を知ったとき、己の生命はこの世からなくなります。この生死の極限に立った修行こそ、剣の前提というべきものでした。
古来より、「剣禅一致」という言葉がありますが、沢庵和尚が柳生宗矩に示された書には以下のような教えがあります。
“剣の道でいうならば、生れてはじめて剣を持った当時は何も分からず、何も意識しないので、身にも心にもとどまることがなく、素直に剣を振ることができる。しかし、だんだん色々なことを教えられたり覚えたりするにしたがって、様々なことが心にとどまりはじめ、ことのほか自由な動作が出来なくなってしまうのである。しかし、このとらわれの境地を何十年も苦心して極め抜いていくと、身の構えも、太刀の取ようも「無心」にできるようになり、何も知らなかったときのような自由な心になるのである。そうなったときには手や足の隅々まで心がいきわたり、たとえ意識していないでも、手のいるときは手の用をかなえ、足のいるときは足の用をかなえ、目のいるときには目の用をかなえることができる。このように、何ものにもとらわれない心の状態になっていれば、いついかなることが、いつおこっても、ビクともしない「不動の智」が発揮される。一つ一つのことを常時以上にしながら、しかも、その一つ一つに心が留まらないことを、諸道の名人という。よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ”
著書
・普化宗史―その尺八奏法の楽理 (1979年) 高橋 空山 (著) 普化宗史刊行会(写真左)
・禅と文化 (昭和13年)著者:井上哲次郎、宇井伯壽、鈴木大拙監修 井上哲次郎、齋藤清衛、高橋空山、鈴木大拙、赤星水竹居、中野楚渓、逸見梅榮、宇井伯壽執筆 和田利彦編 春陽堂書店 (写真中央)
・叢書 禅と日本文化 第六巻 禅と武道(1997年) 禅と武士道=横尾賢宗/禅と武士道=高橋空山/禅と武士道=古川哲史/禅と武道=大森曹玄/剣道と仏教=結城令聞/剣道の発達と宗教=大森曹玄/禅と剣道=鈴木大拙/弓と禅=E・ヘリゲル(稲富・上田訳)/弓と禅=中西政次/的〔まと〕=須原耕雲/禅と合気道の哲学=鎌田茂雄/針谷夕雲=有馬頼義/鉄舟の禅=大森曹玄 ぺりかん社