資料館

1.阿弥陀三尊像 

鈴法庵茶室に安置されていた像




2.普化禅師木造

明治4(1871)年、普化宗は廃宗となり鈴法寺も廃寺となりましたが、鈴法寺境内にあった薬師堂は東福寺に、本堂の扁額は師岡妙光院に、位牌や仏像仏具は東禅寺に、普化禅師木造は鈴法庵にそれぞれ納められました。




3.鈴法 

鈴法庵に掲げられていた書 




4.釈尊 

画:高橋空山 




5.春雨に濡る(大正十二年北海道帝国大学恵迪寮寮歌)


四 (抜粋)

ただ、ここで思い起すのは、父が尺八の師であった青梅鈴法寺の高橋空山が、ふと門附(かどづけ)に来て吹いた「竹調べ」が、ついにわが父をして短笛たんてきというものに、浮身をやつすほどのあこがれを持たしめてしまったことです。

 ここにヅグリという手があって、これはなかなかやかましい。これがうまく出来なければ虚無僧こむそうではない……といったのはそれ。自分は虚無僧になるつもりはない、父も虚無僧にするつもりで教え込んだのではないが、この手が妙味で、ここが難所という時は、意地でもそれをこなそうと勉めた覚えはある。

「錦風波(きんぷうは)」の吹き方は、日本海の荒海のように豪壮で、淡泊で、しかもその中に、切々たる哀情が豊かに籠こもっている。そうしてどこにか、落城の折の、法螺(ほら)の音を聞くような、悲痛の思いが人の腸はらわたを断つ……山形の臥竜軒派では、これをこう吹いて……

 それにつけても思い起す、父が尺八というものに対する、あこがれと、理解の程度の、尋常一様でなかったことを。

 高橋空山師と計って、附近の虚空院鈴法寺の衰えたるをおこさんとして果さなかった。あの寺は関東の虚無僧寺の触頭(ふれがしら)、活惣派の本山。下総(しもうさ)の一月寺、京都の明暗寺と相並んで、普化宗門の由緒ある寺。あれをあのままにしておくのは惜しいと、病床にある父が、幾たびその感慨を洩らしたか知れない。自分が孝子ならば、その高橋空山という父の師なる人を探し当てて、そうして父の遺志をついで、あの寺を再興するようなことにでもならば、追善供養として、これに越すものはなかろうに……

 父はまたよく言った、人間の心霊を吹き得る楽器として、尺八ほどのものは無く、人間の心霊を吹き現わし得る楽器として、尺八ほどのものは無いと――父といえども、世界の楽器の総てを知りつくしたわけではなかろうが、以てそのあこがれの程度を想い知ることができる。

「竹調べ」から「鉢返し」――「鉢返し」から「盤渉(ばんしき)」

 世界もちょうど――平調(ひょうじょう)から盤渉(ばんしき)にめぐるの時――心ありや、心なしや、この音色。