特集記事

 猫にも暑さ払によかろうと思って、焼酎を振舞った。 すると、先ず目玉が、ドンョリ赤味走つて、少し安からぬ顔付をし、腰がフラつき、体を椅子や机の脚に、ブツけてはよろける。 まもなく坐って、肩をユラユラさせながら、盛んに手をなめては、顔をこすり、頗る満ち足りた様をし、はては面白げに、フザけようとするが、手足 がドタドタして思うようにならん。つかまえて踊らせようとするが、踊らない。飲み足らんのかも知れん。併し余り呑んで、グロッキーになつてもらっても困る。やがて、睡くなったと見えて、「ヨロケヨロケ蒲団の積んである上に昇って行く。フーッと、一息ついて、さも気持よさそうに、手足を長々と伸して、ねてしまった。時々何か夢みるらしく、ニャオニャオやってる。暫くたつと、起上って背を円め、次に手を伸し、ヒゲを逆立てて、大きな欠伸を一つしたかと思うと、あわてくさつて一サンに水腕の所に来て、ハグハグ呑んでる。酔いざめの水だ。うまそうに水を、あら方のみ乾してから顔を上げ、一振いプルッとやり、手で口元を撫でつけると、後は悠々として夜気にふれるべく、外に出て行った。その落着いた退しい後姿は、いかにも大物の歩み方だ。

矛盾律

 さて、言うまでもなく、人と猫とは違う。しかし、酒がとりもつ縁で、全く同じ真似をする。
 フェオベルが、モンパッサンに「この世には、全く同じ二つの砂、二匹の虫、二つの手、二つの鼻などと云うものはない....燃える焔や、野の木立を書く時、それらが外の焔や木立と似てない物になるまで、よく見つめよう。こうすると、初めて真新しいものが書ける」と云ってる。とうなると同じ物も、よく見ると異る事になる。 また「逝くのは、かくの如きか、昼夜をおかす」と我らの聖が、川に向つて意義を与えてる。かく同じ川の流も絶えず変って行って、然も元の水ではなく、異って行く。そこに世の果敢なさ、物の哀れさなどを、身に泌みて思い知るだろう。
 しかし、川そのものを、時の流の上から、こう考えずに、所の上から横に考えて見ると、川でないもの、即ち堤や、その上の揚柳、後の灰色の尖塔、それを取りまく茶畑、遥かな葡萄色の山々、これらのものは、云うまでもなく、凡て川ではない、川とは違う。かく所を横に 「川」と「川でないもの」とに区切ること、これを論理 ではA+非Aと書き、論理の基をなす一つの型として、「違いの定め」 Principum contradictionis; Satz des widerspruchs と云っている。(今までは矛盾律と云ったが 矛盾とは食違う事で訳語としては、どうかと思う。)
 しかしである。この川と川でないものとを、更にもつと小間かに分けると、分子・原子にまで行き着き、それらは凡て水素に戻せるとすれば、凡てが同じだという事になる。しかし、更に分けて行くと、電子・陽子・中性 子・中間子・光子と云う異る素粒子になる。この訳合から云えば、マレンコフの被り物と、彼の頭ともまた、楽粒子から成立つ事になる。だから被り物も彼の頭も、同じものであり、上下の梯子などはない。湖の如く平かだ。(しかし価のあるのは、被り物ではなく、その下にあるものだ)
 また、慈しみ深い母の涙も、ほんの僅かな水に塩と有機物とを交ぜたものと同じだ。(しかし、母の涙は真球よりも尊いだろう)
 こうして見ると、とにもかくにも、表べは違うようでも、うち割って見ると、中味は皆な同じだと云う事になる。つまり横に並べて、異中同、差別即平等、偏中正だ。(この辺り、資本主義者も共産主義者も、とつくと良く考えて欲しい)
 ところで、仏の教に、多即一、真空妙有などと云つて二つの違うものがつまりは同じだと云う。これはいったいどう考えたらいいのか。多即一とは2 = 1と云うと、こんなのは数学上から成立たんではないかと、早吞み込みする人が、ないとも限らん。多即一と云うのは、 そんな訳柄の事ではない。前の例で云えば1/2×1/2=1のことだ。つまり1/2×1=1これを広く云えば1/n×n=1となり1/n=KとすればKn = 1つまりK×多=1のことだ。このKと云う係数、仲立は必ず要るのであり、この仲立なくしては、この式が成立たないのである。数学者でもあったシャカが、分数を知らなかつたとは、云い切れんのである。
 この遣り方だと、真空妙有も 真空=仲立×妙有となる。つまり、有を空するのが仲立。即ち真空=〇とす れば〇=〇×有。もし有を空する働がないと、どこまで行っても、真空は真空であり、妙有は妙有であつて、各々バラバラであり、イコールにはならん。
 譬えば、真空管の中が空気だったら、それは真空管として使い物にならん。また空気を〇にする仲立がないと真空管は出来上らん。これを逆さに云うと、真空管をブチ毀すとの仲立がないと、真空の所に空気が入らん。
 所が、この仲立の事を、否定と云う言葉で、言表している人がある。更にこの否定をマイナスで表す人がある。すると、真空妙有は、0 =-有、となり、譬えば、 0=-2だとする事になる。これは明かに間違だ。
 また真空とは、否定の否定だから肯定の妙有になると説く人がある。しかし真空が否定の否定だとすると、0 =-(-有)つまり有を第三象限に追いやったに過ぎない。譬えば 0 =-(-2) だとする事になる。これまた明かに間違だ。(初等代数においては位相を考えに入れないので、こんな事になる。第一象限を第三象限に直せば数だけは同じだが、位相が違う。百円アルと百円ナクハナイとは心理的に異る、アルの方は積極的、ナクハナイの方は消極的な言方となる)
 さて、無門関の第一則に、こんなのがある。ある僧が趙州に存ねた。「犬にも仏性がありますか」すると趙州は「無」と云っている。「でも、涅槃経に凡ての生き物には、仏性があると出てますが、犬にはないのですか」と、やり込めた積り。すると趙州は「業のせいさ」と、ステンと肩すかしを食わせてる。ところが、外の僧が同じ事を尋ねると、今度は「有」と、澄して答えてる。それで「でも、仏性と云う尊いものが、なぜ犬の如き小きたない代物の皮袋の中に、突つ入いったのですか」すると「知つてて、わざとやつてるまでさ」

 これは、何んの事か、趙州は口から出まかせの、デタラメを云つてるか、ふざけてるのか、ウソを云つてるのか、サッパリ解らん、論理から云えば誤りだとなる。
 「犬にも仏性があるか」と尋ねた、その仏性とは、さてどんなものか。シャカは凡てが仏だと云ってるが、これは、この世(宇宙、自然)が仏だとの事。この世 (宇宙 自然)は、一つの完きものであり、全てだと云う如き、 その属性が即ちこの世の性であり、仏性である。この世が仏であり、その属性が仏性なのだから、この世の一部である犬も仏の一部をなし、仏性の一端を持つてる事は間違ない事である。そんな明かな事を、この僧はなぜ疑ったのだろう。それは犬が片足あげてシーツとやったり、入ってはいかんと云う花園を、整床にしたり、衣を着てお経を読んだりしないのを、目の前に見てるので、 どうも・・・となつたのかも知れん。
 ところが、この問に向つて、趙州はアッサリ「無」と 答えたのだから、いかにもシャカを認めず、打消した如き言振りだ。それで僧は愈々解らなくなった訳だ。それに外の僧が同じ事を尋ねると「有」といってる。ある時は無、ある時は有だ。こうなると、こんどは、これを読む人の頭の中が、モヤモヤして来る事になる。
 併し、振返って良く考えて見ると、我々は此んな言振りを、常々やってるのに気が付くだろう。譬えば「オイ売行きはどうだい」と税務係が、花屋に声をかけたとする。花屋はきつと「ないね」と、ソッポを向くだろう。 それが若し恋人だったら「アル」と胸を張るだろう。売行きは同じなのだが、言振りが違う。売行きは、全くないのではない。少ししかないの事であり、また少しはあるの心だ。少ししかないは、∞ から○の向きに、つまりない方に向いて考え、これを言表したのであり、少しはあるは、○から∞の方に、つまりある方に向つて考え、これを言葉にしたのである。考向きによつて、こんなに違う事になっちまった訳だ。が中味は同じだ。
 趙州の云つた有無も、これと同じで、全くないと云う空〇の場合ではない。彼は虚無主義者ではない。少しかないの心持である。そうでないと、シャカの流れを汲んだとは、云えなくなる。有と答えたのも、少しは有るの気持だ。そうでないと、親を地につけて、ワン公を 拜ろがまんと、いけなくなる。だから、この場合の有無は、表べは違うが、中味は同じもの。  尚、無の字源は、豊かなものが、次々と欠けて行きつつある其の有様を表してる(だから存在論でなく現象論)。有は肉を得つつある有様。共に在否を表すのでなく、なしつつある働を表してる。(尚、韗家における純粋の有無の意は、ここに挙げたものとは違ってる。)
 次に僧が「どうして犬にだけ仏性がないか」と尋ねたのに向つて、趙州は「業のせいさ」と答えてるが、犬には少ししか仏性がない、それは生れつきの(a Pri ori)もの。即ち薬によると云ったのだ。
 それから、もう一人の僧が、やはり同じく犬に仏性があるかと問い、それに有と答えたことに就いては既に申した通り。そうすると、僧が「なぜ犬のような賤しい物にも仏性があるか」と、また問直してる。これには「知ってて、わざとやってるまでさ」と趙州が云つてる。それについては、犬が花園の中に入って、ノーノ―と寝そべつてるのを、ジッと見詰めて見給へ。奴さんは、きっと首や尻尾をたれ、目を俯せて、シオシオとして出てくるだろう。彼は悪い事をしたのを知ってる。「知つてて、わざとやってるまでだ」と云った趙州の言葉を、その時、味えるだろう。これは、犬が少しは仏性を持合せてる証しでもある。

尚、異るの語は、「事成る」から起り、一つのものが事々に分れ行く事、即ち分けると云う心の働によって、物事が分れて行く事から来てる。またとれと似た言葉に違うと云うのがある。チガウは路交うから来たと云う。初め分れてたものが、交つて合い、再び分れて行くことで、異中同をよく言表してる。この合せる事によつて同が、生れて来るのである。だから一から多へ分れて行くのが異るで、多から一へと合さつて行くのが、違うである。
 とにかく、今までの矛盾律では、ただ横にA+非Aだとしてるが、これを良く考え合せると「横に違ったものとして並んでるものも、中味は合じものがある」と、直さねばならん。常々は違う (路交う)、異る(事々成る) の意をよく呑込んで居て使えばそれで良いと、云う事になる。そうでないと科学や宗教の事を考えたり、しゃべったりする時に差支る。
 併し、月とスッポンとでは、質は同じでも大さなどが違うじゃないかと云うかもしれん。然り、我々はミソもクソも一つにしてるのではない。異中同、差別中平等、 偏中正を云つてるのである。違う所があつていい。ただ違うと見えるものも全く違ってて、何の関りもないとうのでなく、その底に同じものが流れてると云うのである。
 小人は、とかく同じになろうとし、即ちミソもクソも一つにしようとし、傾つてて中和しない。米蘇ともに、この事を、よく知るべきであると思う。(終)

 私は、ほんの暫くの間ではあったが、南京に居たことがある。そこに着いて、少したつと、何んと云う事なしにムヤミやたらと国へ帰りたくなった。囲りの有様や暮し方などが、今までと、余りにかけ離れ、違い過ぎたせいだつたかも知れない。ところが、どうしても落着いて、しなければならない仕事を背負ってた。しかし帰りたい。その遺るせない気持で、ある夕暮に、ただ一人で ボンヤリと、庭の片隅を見つめていた。
 すると、底の草が、大写しになつて少しづつジリジリとレンズを絞る時のように、眼な交に入つて来た。そして今までは、さう気にも止めてなかった所の、この緑の有りふれた草が、驚くべき事には、国のものと全く「同じ」である事を叫んでる。これは丸で何んか見つけものでも、した時のように思われた。猶も限を移すと、ウスツ黒い土も同じだ。見上ると、青磁色の空も同じだ。さう気が付いた時、何かしらスーツとした涼しいものが、身内に入って来たように覚えた。
 それで、長いこと心を閉してた黒いものが、イキなりケシとんじまつて、野分の後の静かな日和といったよう な心持になり、ホッと落着をすつかり取戻した。この事は、それから後、長い年月が立つのに、未だに忘れられないで居る。


同一律


 しかしである。そこは、何んと云つても、南京であって日本ではない。「所」と云うものが違つてる。また、 国で家の庭をみた時とは「時」と云うのも異る。即ち時と所とが違ってる。ただ「同」じなのは、草や土や空だけ。しかも、これらの物だけだ。

この「同じ」と云うことを、論理では、広くA=Aと言表してる。そして、この同じだと云う言表しを、一つの型と睨み、一つの定め事として、名づけて「同じだと定め」
Pricipium identitatis; Prinzip der Identitätと云ってる。
 ところが、科学の上から細かに分けてこれを考えて行くと、とうなるだろう。植物形態学からは、草丈や生え方、また植物生理学からは草色、また植物育成学からは草の育ち方、また造園学からは草の生やし所、また雑草学からは草の類などが、細かに見れば我国のとホンの少しではあるが違つてる事に、気づくだろう。また黒土といつても、土壌学から云えば違つてるし、気象学から見れば大陸の乾き切つた空の涅度やまた温度の夜昼の違いの烈しさ、埃の為に緑気が少し濃い事などが、我国のと異る事に気付くだろう。
 こう小間かに見て行くと、空も土も草も、皆悉く違つてる事になる。そうして見ると、何から何まで、すつかり異るのであつて、やはり、そとは何んと云っても、遙々と海を越えて来た異つ国なのである。ところが、南京に居た時は、ここまで深くは突込んで、考え辿らなかつた。もし、そうしてあつたら、或は心があんなに、安らかに、ならなかったかも知れない。
 で、こう小間かに分けて考えて行くと、凡そ世の中には、同じだと云うものが、スッかり姿を消してしまつて、ないことになつちまう。これは何んだかイヤに頼りなく危つかしい傾つた考のようにも、思えて来る。 ととろが、もっと細かに分けて行くと、分子・原子となる。(この原子に当るものをブッダは極微といつてる) そして凡ての原子も、水素に戻すことが出来るようになり、凡ては同じものとなつちまう。そうなると、ここにまた同じと云うことが表れてきた事になる。
 ところが、 もっと小間かに分けて行くと、陽子・中性子・中間子・ 光子・電子などと云う素粒子になつて、また異るものが 見い出されて来る。こうやって、同じものと異るものとが、代る代る幾度も幾度も繰返して顔を出してる。だからこれらは、互に裏表をなしてるとも云えるだろう。
 また例え、心の内だけで「柳は緑、花は紅」とか「一 は一だ」とか思浮べたとしても、初めの一を思浮べた時と、後の一を思浮べた時とでは、その間がホンの僅かな間合であつても、既に時の流れ、過ぎ去るものが、二つの一の間に挟まってる。だから全く同じ時と同じ所とを占めてないから、全くの一つものではなくなる。初めの一と後の一とは、かくの如く時が違がつてるばかりでなく、またその占めてる場の様も異ってくる。と云うのは、初め一と思浮べた頭の中の場、細胞が、次の一と思浮べるまでの間に既に細胞の内の液の流れによつて、もうとつくに変つちまう。だから前に一と思浮べたものとは、全く同じ様をなしてるとは云えない。そのしるしに、初め一と考え、次に一と考えて見ると、既に初の一は有明の月の如く、その光が仄かになつてるのでも、との事がよく解るだろう。
 しかし、初めに一と考える刺戟は、時の流れに舟を浮かべて置いたようなものだと、思うかも知れない。これも、よく考えて見れば解る通り、舟も長く一つ所に繋いでおくと傷む。即ち変って行く。これは時が短くても同じだ。この短い時の積り積ったのが、つまり長い時となるからだ。凡ての物事は、かく移り変って行き、異つた姿となって行く。「世は常なし」と、古のバラモン達が考え、また「この身は泡の如く、久しく立ち得ず」(維 摩経方便品)としたこと、また「よろづのものは流れ去る」とギリシャでいつたこと、また近くは物理学で、凡ての物事は変って行くとした見方など、これらの事柄が、ここ成立つて、まことだとされるに至るのである。  
 また、縦と横と深さとに関る事柄について、詳しく究めて行く所のユークリッド幾何学では、時と所と云う事を拔きにして考えてるので、A=Aと云うような事が、成立つのであるが、これが一度、生きた世の中の物事を、つかまえようとする時になると、この時と所と云うものが入って来るので、異ると云う事が、前に云つたように生れてくる。だから、前々から申す通り、凡そ物事は、裏から小間かに云うと異るのであつて、全く同じだと云うものはない事になり、表から大間かに云えば、同じだとの事があることになる。
 ところがオナジという言葉の起りは「己ナ似」だされてる。これは基をなすものに、極めて多くの所が、似てるとの事。そうして見ると、この言葉の持ち味といつたものが、今までに述べて来た事柄を、よく含んでて、 それを言表すのに誠に適しい言葉の成立ちだと思う。
 尚、南京の時のように、私の家の庭と南京の庭とを、よく比べて見て、そこで初めて同じだ・異るなどの事が考え得られたが、これはまた、私の家の庭を振り返つて見た事でもある。そうして見ると、この比べる事と振り返つて見る事とは、同じだとか異るとか云う場合に、ど うしても要るところの手立である。
 それから、同じと云う言葉に、よく似たものとして 「ヒトシィ」と云うのがある。これは「一ト如イ」との事で一つになるに甚だ近い事。よく二た子のように同じだと云う。その同じだとの事よりも、更にモッと同じ所が多い事である。これが、更にモツとモツと多くなつた場合が、次に述べる「一つになること」である。
 全くの同じ、まるまる同じだとの事を、成立たせるには、同じ時に、同じ所に、同じ物を置く外はない。つまり、これと一つに繋がり溶け込んで行く外はない。これをブッダは「一つになる」と云ってる。
 それには先づ手初めとして、A=Aと云う時、初めのAに向つて後のAが、振り返つて比べられたが、この振り返つて比べる事を止めにし、ただ初めのAだけとなり、これを持ち続ける。だが、このAは、既にAでない所のあらゆる物事と、ハッキリ初めに分け隔だてされてる。この垣根をイサギよく、取つ払らつちまう。つまり物事を分けると云う事を、ボイとうつちやる事。だいたい、この分けると云う曲せ者が、異るとか違うとか、やれ同じの等しいと云う所の子供を、生んでるのである。 この基をなすのを放り投げればいい訳だ。禅で放下著と云つてるのも、ここの事。即ち分ける・分けないとか、 囚れる囚れない等のことまで、ブン投げるととだ。「分別知を棄てて、ただひたすらに神仏に賴み參らせよ」と 白髪頭を振り振り喉を潤して痛ましくも老いたる教え人らが、今も高い所から叫んでるのも、ここだと思う。いつまでもいつまでもプラカラとそれこそ死ぬまで同じく二人で、ピクニックばかりしてたんでは、少しも埒が明かん。 やっぱり、そこはメヲトと云う一つものにならんと、いかんように、この同じだとの極みを、即ち一つになる事を、知らぬといかんだろう。なんでも物事は、トコトンまでやって見て、その極みまで行かんと、底を究めたとは云わん。
 碧岩録の六八則に、とんな事が出てる。ある時、慧寂と云う人が、慧然と云うよく似た名の人に向つて、「あんたの名は?」と尋ねると、驚いた事には慧然は「慧寂です」と、事もあろうに相手の名を称えた。「それで慧寂はそれは私の名だ」と咎めると、今度は慧然が合槌を打つが如く「そして私の名は慧然です」と、てんと取り澄 し張合つて答えてる。との話合は、いったいどう解いたら良いのだろうか。これはウツかりすると名を偽ったと云って訴えられるかも知れん。或は人をカラかってる、バカにしてると云うわけで怒られるかも知らん。言うまでもなく、そんな事ではない。それは前に申した通り、慧然は慧寂と一つに成りきって、一枚になってるのだから、それを知らせる為に、相手の名を称えたのであって、これは一向に差支えない事だ。次に己が名を称えたのは、相手の慧寂が一枚悟りに止まって居ず、すぐに 一枚の裏である所の異りを示して「それは私の名だ」と 云ったのだから、己れも真っ当らに己が名を称えて、との一枚の裏である所の異りを、示したのである。つまりこの話合は同中異、一即多、平等即差別、正中偏を表してるのである。
 しかし、これは考の上だけ、頭の内だけの事で、それはつまらん考の遊びに過ぎないと云う人が、あるかも知れん。しかし、よく気の合った友達仲間が、互に心がビツたりと一つに成る事がないだろうか。その時、お互の体と云うものや、その間の隔と云つたようなものが、 肺の気泡の如く、少しも空気によって隔てられてる事が気にならず1つに成つて働いてる如くに思う事がないだろうか。
 お互の肌と云う堅い細胞の垣根を越して ― 細胞液が細胞膜を透して出入りするように一つに溶け合う事がないだろうか。そして、この「和して同じない」ところの和を、人々は服んでるのではないか。民主々義とか共産主義とか、資本主義とか社会主義とかいつても、ここまで来ようとして、冷たかつたり熱つたかつたりして、 この一つに成る味に思い焦れ、苦しみやつれてる姿なのではないだろうか。これを得て居た所のシャカの如く楽しく、イエスの如く慈しみに満ちては、あくまで暮したくないもんだと、願い祈る人があるだろうか。もしあれば、それは、あの箒の柄に乗つて秘かに飛び歩くサタンだろう。
 右の如く「同じだとの定め」は、表から見れば同じであるが、これを裏から見れば異る事になり、更にとの同じさが進むと、等しいになり、もつと進むと一つになると云うように、改め直すべきだと思う。常々は己ナ似(おなじ)、一ト如イ(ひとしい)、一ツと云う言葉の起りを、よく呑み込んでて使えば、それでい訳だ。
 こんなようにアチラの論理の基となる定めを補い直して行かないと、科学や宗教は、これを使って言表せなくなる。またこれら許りでなく今の生きた世の中の事にも当嵌らず、従って生きた世の中の色んな出来事を、ハッキリと言表すに適しい言廻しにはならんだろう。わけてコチトラ東の国々の考え方や言い方の基や定めにはならん。
 もとより、アリストテレスより此の方、アチラでは余りそれ程、との論理の基が進んでない。生花ばかりでなく、一つここらで東の魂も、吹込んでやったらどうだろう。
(続く)


(プラトン、アリストテレス、エルドマン、プフェンデル、 ハルトマン、カント、ヘーゲル等の考にも及ぶのが、真筋だとは思うが、あまり詳しくなり、また大方右の事で思いやられると思ったので、これを省いた。)


 星づく宵、神社の森の木の間を透して流れてくる笙・ヒチリキの音をきいたり、また古の久米歌や催馬楽、はては雅楽に基づいてつくられた君ケ代、また普化尺八楽に基いて作曲された荒城の月などをきいたときの壮大で神厳な気分、それはあたかもアジャの象徴ヒマラャをみるような気がするだろう。そして、これは洋楽にない壮大さであり神厳さであって、西欧人が「東洋の神秘」とよんでいるものである。
 ところが、これにくらべると筝や三絃の楽は、いかにも四畳半むきの艶かで享楽的なものであって、その気分の違いは大げさにいうと、宇宙のはてにいたるほどの差があることを覚えさせられるだろう。
 これはいったい、どうしたわけだろうか。それをまづ形の上から明らかにして行くことにする。このことは、これからの作曲家や演奏家にも、また音楽を心から好んでいる人々にも何らかの役にたつかもしれない。
おおかたの人々は、わが国の音楽は極めて単純な五音階からできあがっているものとばかり考へているだろう。それは、そう教えこまれて来たためである。しかし、このことは明治の初めに上原六四郎らによって作りだされた俗楽における楽理であって、筝・三絃などには良くあてはまるものではあるが、雅楽・声明・筑紫流箏・普化尺八などの正楽にはあてはまらない理なのである。正楽の方では古から五音七声であるとして、これによってもハッキリと俗楽と一線を画しているのである。すなわち、正楽の方は七音階なのであって、ただ洋楽と違うところは、その音の使い方が違うだけで、その音の数からだけいうならば全く同じだといえるのである。
 この正楽の五音七声つまり七音階に二種ある。

(一)

 re  mi  (fa)   so

 la   si     (do)     re

 上においてreが基礎音となって居り、そしてmi so la siを合せた五音が主に用いられ、mi siとそれぞれ半音違う(fa) (do)の二音は従属的な意味で使われている。この使い方によっている曲は、大陸系統のものに多い。例としては五常楽などが、これにはいる。
なお上表における第一行と第二行とをくらべるとreとla、miとsi、faとdo、soとreとの間では五度差となり、laとre、siとmi、doとfa、reとsoとの間では四度差となる。またreとsi、faとreとの間 は六度差となり、miとla、soとdoとの間は四度差となる。これらの度差は和声を作る時の大切な基となるものである。

(二)

   re     mi     fa    (so)

   la      si     do    (re)

   上においてreが基礎音となって居り、そしてmi fa la si doを合せた六音が主に用いられ、so reの二音は従属的な意味で使われている。この使い方によっているものは、インド系であってアジャの海岸地方に多い。即ち海洋系統に多いのである。
   なほ右の場合でreだけは、基礎音としても、従属音としても使われるといった二役をかねていることは特に気をつけねばならぬ点で ある。この日の使い方によるものの例としては、聖徳太子が生駒山 (又は亀瀬)を登られたとき、馬上で六孔尺八で蘇莫者といふ曲を吹かれたら山神が浮かれて姿をあらわし舞ったと伝えられる伝奇的な曲、その蘇莫者(昔のよみ方はソバクシャ。よみがえれよとの意) が、その一例として挙げうるだろう。また今の五孔尺八で吹く曲としては、九州に古く伝はるサシ(サンスクリットの c′as′即ち教へる との意)という曲で、虚無僧が門べに立って教化の意で吹いたもの が、やはりこの例として挙げることができる。そして面白いことに は、「蘇莫者」の「サシ」 もともに同じ盤渉調(G調)であり、その旋律が全く同じ所があることである。また拍子もともに六拍子の只拍子というものからなってる。なは調や拍子のことについては後にのべることにする。
 右のことによって音七声なる意が、ほぼ想像されると思うが、 五つの常用音に加えるに二つの従属音で、合せて七音になるのだが、この使い方の意を含め、それを明らかにするために五音七声といったのである。そしてこの名称は支那の「春秋」や「論語」の証にもでているから、支那の戦国時代までのうちに出来あがったものと思いやられる。
 このように七音の使い方が、西洋とは少し異るのであるが、とにかく七音を使っているのである。そして、このことは楽器そのものの上からも証することができる。たとえば、ヒチリキの孔のあけ方は下から順に上へとあけて行くと

            筒音   五   工九無六       四     一丄 T

D調  fa        so       la   si   do        re       mi   fa   so

G調  do       re       mi   fa   so       la        si   do   re

となって居り、また雅楽の竜笛は

             筒音   シ干    五丄    夕     中       六

D調  la            re       mi   fa     so        la       do

G調    mi           la        si    do    re        mi       so

となって居り、D調でsiがなく、G調ではfaがないようにみえる が、これらは孔の組合せやメリカリでだしうる。このほかに神楽笛 や狛笛があるが、これも右と同じようにして 七音階をだしうる。それからつぎに笙の音階をあげてみると

               乞  一   工九  乙   丁十美行  七比言上

A調    do     re     im   fa     so      l a   si   do      re   mi   fa

             八   千

D調    so     la     si    do    re     mi    fa  so        la  si   do

G調          re    mi           so    la    so     do   re       mi  fa  so

となっているが、笙は和音にして吹かれる場合が多いのであって、 その場合の和音の構成は、今までは五度構成でできあがっていると考えられているが、前に述べてある(一)(二)の場合の常用音の集約をもつて定旋律に対する笙の和声としているように思われる。この集約 的な使い方は、山田耕作氏などが、よく用いているやり方でもある。
   なお、つぎに正倉院の御物となってる八本の雅楽尺八の音階をのべることにする。

一尺四寸四分五厘  E調

一尺三寸四分三厘     F#調

一尺二寸九分八厘     G♭調

一尺二寸七分       G調

一尺二寸六分四厘     G調

一尺一寸九分     G#調

一尺一寸六分二厘  A調

一尺一寸五分二厘  A調

とはばなっているが、その音階は各長・各調ともに皆

箇  一  二三   四  五  裏

do    re    mi  fa       so       la        si

となっている。面白いことは西洋の堅笛もほぼ同じようになっていることである。ただ西洋のは裏穴を表側に回していることが違っているだけである。そしてこれは、モツアルトの頃もまだ使っていた が、今はドイツの田舎などに残っているだけとなってしまった。いわばドイツ尺八とでもいうべきものだろう。なは箱根神社にある陶 製の洞語はE調であるが、孔のあけ方や、音階は雅楽尺八と同じである。
    今の日本における五孔の尺八は

E調  筒  一   二  三  四  裏

        la     do        re     mi      so     la

と全音だけになって居り、si faは孔の組合せとメリカリでだすことになっている。それは純正律にするとsi faの半音は上行下行によって微分的に上下するから、これらの孔を皆つくると田中正平作の純正律オルガンのように、すこぶる煩わしいものとなると考えたせい だろう。このことは長い間、声楽に合せてためされた経験の上から、来たものだと思われる。それに手法や見た目の上からも表側に四孔あり裏に一孔ある方が宜しい。とにかく雅楽尺八より一孔をへらし五孔にしla do re mi soという全音だけにし、半音の孔をはぶいて、それを孔の組合せやメリカリで出すようにしたのは、一種の抽象化であって、抽象ずきな東洋人のやり方にふさわしい。そこへ行くと西洋 はこれと逆に、いよいよ孔を多くして、クラリネットを作るにいたったわけである。これまた何事も分解ずきな西欧人のやり方にふさわしいことである。なお今の五孔尺八はわが国の法灯国師が西紀一二 五四年、北条時頼執権の時に、南宋から初めて持って来たものと伝 えられるが、ある学者は徳川末に日本で作ったものとしている。しかし、それは誤りである。というのは、李王良さんが北朝鮮に古くか らわが尺八と全く同じものが伝わっているといわれたことも、その傍証となりうるものである。また筑紫流箏でも、やはり全音だけで調絃していること、また子守歌のうちの古謡がやはり全音だけ使って いることなども傍証となりうるだろう。つまり、徳川前には全音階時代があったことがうかがえる。したがって、尺八が全音階であったとて何の不思議はないのであって、むしろla si do mi faという半音のみ多く使われている徳川末の俗楽と混同することは全くの心得違いである。
 それはとにかくとして、一節切や鹿児島の天吹は、尺八とは少し違 っている。北条幻庵 (西紀一四九三—一五八九) 作の一節切は、徳川 前のものであるが、それはA調で

筒一   二  三  四  裏

si do        re       fa        so       si

となっている。だから一節切から尺八が変ってきたなどと変なことをいっている者の言はあやまりであることは、いうまでもないことである。
 昔鹿児島の人々がふいた天吹は

筒  一  二  三  四  裏 

la      do    re    fa       so        si

となっていて、この方が一節切ににている。
 さて、正楽では七音階だけを使って、それでことたれりとして済 ましているかというとそうではない。各全音の間の半音をも思うままに用いているので、五音七声十二律なる名のある由縁が、そのせいである。しかし、この十二律の使い方は Soenberg のものとは違っていて、各全音の周りに集約せられているので、彼のように唸る楽にはなっていない。
 そして十二律だけではなく、さらに微分音を使っている。この微分音はインドの二十二律などに遠因していると推しはかられるが、 それをわが国で微分化し、のばしたものと思いやられる。この微分音は Haba やフランスの Daniélou のものなどよりも、もっと細かなものである。これを録音して回転数をゆるめると曲線的な唸りになる。オッシロ・スコープで実験すると、この微分音の入っていない旋律は直線的であり、これの入っているものは曲線的である。これが、わが国でいう節回しの微妙さの基をなしているのであって、 これのないものはブッキラ棒で全く味のないソッケないものになっている。この微分音の使い方は、まことに巧みであって、これは後にのべる微分律動や微分表情とともに世界音楽の最先端をはるかに抜いている点であって、大いにわが国の誇りとして宜しく特筆すべきことなのである。
 右のように色々な管にあけた孔や音階によって、正楽における音階は七音階であることがわかると思う。もし五音階でばかりできているとするならば、こんなに多くの孔をあける必要がないのであって、多くの孔がある上からは、それを使うためのものと考へねばならぬのである。この多孔は転調のために要るからなのだとばかり考えるのは、第二次的な問題・課程を第一次的なことにすりかえよう とする考え方にはかならない。
 それに、曲譜においては七音階がつかわれている。これは、正楽の七音階であることを、明らかに証しているものである。
そして大体において全音を多くつかっている曲は、初めにのべた壮大な気分をかもしだし、半音や微分音をそれに加えているものは、幽玄・神秘な味をそえているのである。これによって初にいった課題の一部が明らかにされたと思う。
 なお、孔の音程はメリカリによって長二度の差があり、また唇の縦横の開き方や筋肉のしめ方によって微分差がうまれてくるので、この孔の音程は非常に不安定なものなのである。したがって、微分音やニュアンスの異る音、即ち、多彩な音色をだしうるわけであるが、とにかくヴァイオリン以上に不安定なものなのである。それだけに自由度の限界も大きいといえるのであるが、とにかく不安定なものだといえる。それだけに音程を決定することは非常にむっかしいのであって、従来のように一~二回の吹奏で音程を決めてしまうなどという学者先生たちの実験方法は何のたしにもならないものなのである。すくなくとも、同じ寸法の管を作って長い年月の間、数多くの実験をかさね、その平均値をとる外にはないのである。
 この点、今までのやり方が、あまりにザッであり、従って間違いが多いので、特にここにこれを強調しておく次第である。
 もう一つ序でにいいたいことは、基礎音のreの音程のことである。このreを日本的にいへば一越という音程のことになるのであるが、これは西洋のDよりも低く、D♭に近い音程になっている。そして正楽においては、これを非常に重んじて居て、筑紫流箏(先轄の非 上智氏夫人ミナ女史が、現日本におけるただ一人の伝承者)では最終にならう秘曲 「一糸之山」で「中声一鳴神人和楽」と唱へて、この音だけ一つ弾き味わうことにさへなっているほどである。それで、 ここでは凡てre、一越をD♭にして調をきめてあるから、そのつもりで読んでいただきたい。

さて、箏・三絃・胡弓などの俗楽は、右にのべた正楽と、どんな関りがあるかということについて、すこしのべてみることにしよう。 前にのべた(2)の場合で従属的音のre soをほとんどまったくうしない、そのうへに基礎音のreまで失ってしまったものが、俗楽なのである。

       mi    fa

la     si    do

 そのうへに正楽とは逆にlaを最低音にしてしま ったので、音列がla si do mi faの順になり、そして五音で半音の多いところのいとも物悲しい短調めいたものになってしまったのである。 この基礎音がないことは絶対音感をうしなったことになるのであって、そのために恐しく不確かなものとなり、どんな音をlaにとっても宜しいということになってしまった。だから酔っぱらって神経が 麻痺してうたう声で、てんで正規の音感にあてはまらない状態にあるときでも、芸者どもは客の音に合せて三絃をひいても、それで差支へがないことになっている。それだけに乱調子だといえる。そして 五つきりの音で強弱のアクセントもない無拍子の雨垂れ拍子のものをくりかえしくりかえしつかうだけで、すこぶる簡単きはまるもの、だから、何ら音楽の素養のない者でも結構おぼえられ、崩れた席でそれで楽しめた。こんなわけがらから俗楽といやしめられたのであった。
 それにもともと門付の乞食芸から始まったので、底のしれないほどの物悲しさ・哀れさに閉じこめられ、暗い感じがするのである。 これは徳川期の頽廃しきった気分によって、ますますその度が強められたのだった。かくして五音階楽は淫虐な亡国楽として心ある人々から退けられたのである。ところが、この退化した俗楽が、いかにも日本純粋の音楽なるが如くに考へている学者があるが、それは徳川末期が日本の正しい姿だとするのと同じでまったくいはれのないことである。しかも、これが純粋の日本音楽だと称して西欧人に紹介し、これをわざわざ外国に押しかけてまで宣伝これつとめるというのは、はたしてどんなものだろう。
そして、退化したものが民主々義だという変な論理をふり回すことは、真の民主々義をクラークさん以来やしないきたった我々のとらぬところである。


執筆者高橋空山氏は本名北雄、北大農学部園芸学科を昭和二年 卒業、官耺、教耺を経て宗教活動及び尺八の研鑽に専念、目下神 奈川県西秦野町千村に住する普化宗師家である。
昨秋、シュトッケンシュミット博士来日の折、上野音楽学校に招かれて尺八の演奏をした普化宗尺八の第一人者である。その縁により今夏ドイツへ招かれ日本古典音楽の紹介をする予定で併せ てイタリー、フランスに招かれる筈である。氏の交響編曲「虚空」 は日本の古典曲の精神と技巧を試みる野心作で、そのバイオリン曲は既に演奏されている。北大の交響楽団に交響和曲「虚空」の初演をお願いできるかと医学部吉本千顔助教授からお尋ねがあって、私も高橋氏の希望に添いたいと思った。同時に、北大季刊に氏の寄稿を求めて、予想通りの興味深い論稿を得た。読者にも色々の印象あるべく、編集者としても奇特高邁の野心を学生諸君に 紹介出来るのを喜ぶ次第である。

-岡しるす-

北海道大學の前身である札幌農學校の創設者ともいうべきクラークさんは一八二六年七月三一日わが文政九年北邊の開拓者近藤重蔵が罰せられようとしていた頃、マサチュセッツ州のアッシュフィールドで產れたが、祖父はスコットランドから來た人で、父は醫者をしていられた。清くして慈しみの深い醫の常として家は極めて貧しかったので、クラークさんは幼い頃から家の手助けをされた。

この醫術の手傳いをしたということが後に科學をえらぶようになった基である。普通學は學僕をしながら修め、アムスト大學は苦學しつつ二十二歲で終られた。後數年の間教師をしていたが「男は小成に安んじてはならない、宜しく大志を抱くべきだ」といって、獨逸のゲッチンゲン大學に入り礦物學と化學を修め、廿六歳で「隕石の化學的成分」という論文を出して博士になられた。同級生には名高いビスマルクが居り共にビールと決闘で痛快を呼び心身を鍛えたりしたという。

やがて國に歸った先生は、十五年間母校アムスト大學の化學の教授となったが、その頃あたかも奴隷解放の南北戰爭が起った。義と情とにあつい先生は、既に三十八、九歲であったがリンカーンに與し、マサチュセッツ連隊長として大いに戰場で勇名をあげ大佐に昇った。北軍が勝って再び平和がもたらされた時、少將にするという內命がくだった。すると先生は「わたしは元より教育者です。もし戰が續いていて必要であるというなら中將にでも大將にでもなります、しかしもう戰のすんだ今日わたしは元の教育者に歸ったのです。教育者は將軍の稱はいりません」といつて堅く昇級をことわられた。これをもつて見ても先生はスコットランド流に花をすて、實をとるという質實さを持つていられたことが窺われる。

そして先生と共に戰に出てたおれた十八歲の少年の痛ましい死を年老いてまで涙をもつて語るのが常だった。そこに一將功成りて萬骨枯るということを深く思われた、限りなくやさしい情の深さが偲ばれるのである。

そして四十歲の時にはアマストに農大を建て學長になられた。先生は若い頃エドワード・ヒッチコック教授の感化をうけ地質・鉱物・化學を専攻されたが、ヨーロッパに行かれた時、ロンドンのキューガードンで、そこで初めて育てられた 南米アマゾン川のヴィクトリアシジアという頗る大きな睡蓮が、美事に咲いているのを見られ、ひどく感にうたれ、これから植物を持前の物理化學から研究されたという。そして時勢に先んじて植物生理學の研究に歩を進められたのである。そして四十七歲の時には「植物液の循環と壓力」次の年には「植物生活現象の観察」という研究を、當時としては珍しく 大がかりな全校をあげての共同研究にし、その結果を發表された。この功によって先生は名譽博士に推され今なお先生を 記念するクラ1ク講堂が同大學に残っている。

クラークさんが日本にくるようになったのには、次のようなわけがあった。

札幌農學校は、もと東京芝増上寺の境內にあった開拓使假 學校を母體とするもので、この學校は北海道の開發を目的と するのであるから、やがて札幌に移轉することになり、札幌 學校と改められ、校長調所廣丈が三十四名の學生を率いて、 御用船明光丸で品川を出帆したのは明治八年六月のことで、同年九月七日には札幌学校の開校式が行われた。

しかし札幌學校を更に高級の専門學校とする必要に迫られ そのため優秀な學者をアメリカから招ヘイすることになり、開拓使長官黒田清隆は、駐米公使吉田清成にその人選方を依 賴した。吉田公使は處々物色のすえ、當時すでにマサチュセッツ州立農學校の校長であったウィリアム・エス・クラーク 博士に白羽の矢をたて、幸いにその承諾を得たのであった。

かくて明治九年五月二十日に五十歳の先生はペンハローとホィラーの二人の弟子を伴われ米を立ち我が國に向はれた。 船がわが國に近づくと富士山が見え出して來た、先生は「Oh! Beautiful Japan!」と叫ばれたといふ。そして開拓使長官黑 田清隆ならびに十一名の學生と共に玄武丸にのって北海道をさして北上された。船の中ではつれづれなるままに學生達は 先生たちの居られる直上の室でドンドン床を踏みならしながら絶えず乱暴極まるバカ騒ぎを演じた。これがしょっ中なのでたまりかねた黑田清隆は怒りの餘り幾度も下船を命じようとしたという。こんなこともあつて黒田清隆は、學生の荒々しく猛々しいしかも行いの少しも治まらないのを深く愛え、グラークさんに「あなたは、どうしてこれを直すお考えです か」とたずねると先生は「バイブルをよませたがよいと思います」と答えた。すると黒田長官は「それは困ります。バイブルをよむことは國で喜ばぬと思います」というと先生は「わ たしは御國の書を知りません。ですから御國の書を教えよといわれるのは無理です。西洋の德育はバイブルが基になって います。これによらなければ德育はできません」といわれ、 共に軍人なので頑として互に言うことを曲げなかった。

しかし先生たちが時々奏された 耳新しい洋樂は、このけわしい気合いを和げるに大いに 力あったのである。

とにかく一行の船は、七月三十日午前11時頃に小樽についた。長官と先生方は、直ちに馬で 札幌に向い」 學生たちは、錢函まで小舟で行き、晝飯をたべ、濱茄子の咲く砂丘やトド 松・エゾ松の原始林五里十一丁を馬で飛ばし、火ともし頃その時まだ二、三千の人しか居なかった札幌の街に入り、新しいしゃれた洋館の學校についた。學校や寮は北一條から三條 西一丁目から二丁目に渡る廣い緑の芝生とエルムの原始林の中にたてられてあった。寮は一室に二人ずつで寝室と机椅子があり、朝夕は洋食で晝だけが和食、服は皆背廣で頭は分け ていて頗るハイカラなものだった。これらの學生は皆で二十四人だった。

八月十日に開校式が行われた。その式辞述べるに當り先生は、欧米においてすら未だ新しい試みであり、したがってまれにしかない農大をここに設けるに至った黒田長官の卓見を心からたたえ、またこの學校が北海道引いては日本全體の農業に貢献する所が多いだろうといわれ、次に「今わたしはここに初めての教育機関を組みたてるためにえらばれました。この尊く楽しい職に大いに努めて、その分前を盡さうと思います。わたしは、學生の規範となり教授となって世に幸をもたらすに最もふさわしい心を啓くことに努めます。黑田閣下は夙に身を國にささげ努めて倦まず、今日その名と位との二つをともに、この上ない榮光と信任とにまで高められました。諸君も閣下の、すぐれた例にならうがよいと思います。そしてその高さまで到ることを学みます。

諸君は各々己が國に勤労と責任そしてこれから產れてくる榮光の最も高い位に適うよう勉めて下さい。健康を保ち情慾をおさえ、従順と勉學のならわしを育て、時に學ぶべきものがあったら學術の何たるを問わず力の及ぶかぎりその知と術とを求めるがよいです。かくしてこそ君らは初めてよく高い位に適うといわれます。高い位は常に正直でエナージックな 人に飢えていますが、その望みどおりには行かないのは、どこの國でもそうであります。

今この盛んな式を眺めますと將來この學校が大成する兆が見受けられます。この學校の極めて幼い時、暫しの間、黑田閣下がはぐくんで下さるなら、北海道のみならず日本全國の尊敬をかちえ、これを受けるに恥かしくないようになると深く確信致します。」

先生は酒もタバコも極めて好きで、そのためわざわざ故國から澤山の葡萄酒・ビール・葉巻などをもつて來られたが、 青年たちの訓育のことに深く思いを致されて、禁酒・禁煙を誓われ、また學生たちにも誓わせて、これらの酒タバコを悉く地に埋め自らその範をたれたのであった。また情慾はおさえればおさえる程、氣力がまし希望が大きくなりエナージックになるといわれ、自らもそうされたのである。そしてクドクドしい學則の草稿をみると「こんな細かな規則でしばっては人間なんぞ出来っこはない、紳士たれ (Be gentleman) これだけで澤山だ」といわれた。これは無規則を欲したのではない。先生は「學校は學ぶ所だから朝起きる時の鐘がなればスグ起き食卓につく知らせがあったらスグ集り、寝る時が來たらスグ灯を消すべきだ。紳士は凡ての規則を重んずるが規則だからやるのでなく凡て己が良心にしたがってやるのだ」といわれたことを思い合わすべきである。

私がこの學校に學んだ時、先生の直弟子の佐藤昌介總長が入學式の折、「私はこれから後諸君を紳士として扱います、それですから此後紳士にふさわしい行いをして下さい」といわれ、二十にも満たない青二才が紳士として扱われるというとんでもないことに當惑もし、大いなる責任を感じたのであるが、この突發事件ともいうべきことに對する深い印象は三 十年後の今日も未だに忘れずありありと目のあたりに浮ぶのである。

黑田長官は、學生の行いがスッカリと改まったので痛く心を動かされ、先生の凡てを信ずるようになり、その主張であるバイブルをよむことを黙認された。それからは毎朝バイブル をよんでから授業を始められた。しかし先生はクリスチャンになることをすくめたのではない。あくまで自然科學者だった先生は「バイブルのうちから眞理を探し出す」ことをすすめたのである。

先生は中肉中背であったが、あくまで威厳があり、そして何んともいえない親しさを覚える人であった。そのことは先生の寫眞をみればよく解ると思う。學生らは南一條東一丁目の本陣にあった先生のお宅に毎夜のように集り、先生のあまたの面白い經驗談や豊かな道德宗教政治經濟家庭戀愛などの問題について承り、また意見を遠慮なく述べ立て、睦み合うのを樂しみにした。ここに學校以外の人世の勉強があり人格がねれて行ったのである。遠く家を離れている淋しさがなぐさめられ、その淋しさのため道を誤って危機にひんすること なく、新しい眞理による家庭の理想と愛情とが解ったのである。先生はまことによき父でもあり母でもあったのである。そしてこの習わしは今も傅わり教授と學生との間に毎夜應接間で冬の夜更けるまで行われている。私は今もこの思い出をなっかしく思うにつれ、それを產んで下すったクラークさん のことを思いだす。

なお私はここにクラークさんとさんづけしていうのをおかしく考えられる方もあると思うから一言のべておきたい。北大では先生のことを蔭でいう時には必ずさん付けで呼ぶ。これは前に述べた家庭的な親しみから來ることは言うまでもない。そして先生は學生を呼ぶ時には姓を呼ばずに太郎君、 次郎君というように親しく名を呼ぶのである。だから師弟の間は全く身內の者のような感である。そして互に悪口や皮肉を飛ばして語り合うが、それでいて心から師を敬っているのだ。

先生の講義は勿論英語でばかりだったので、筆記するにひどく苦しんだが、それを察した先生は毎週夜更けるまで、皆のノートを調べ一々文字や文章を直して下すったという。

しかし先生の講義はノート許りさせるのでなく、學生に自ら進んで研究させ難しい所などは暗示を與え自ら覺るようにされた。

しかし先生は机にばかりカジリついていることをすすめたのではない。氣の鬱するのをさけて寄宿舎から學生を引張り出したり、自ら雪合戰をいどまれたり、大平原と原始林の中 に思うがま」に馬をカッ飛ばして、心を開放させもしたのである。

そんな時でも先生らしいのは科學を全く引き離してはいず、五十になる先生が雪の手稲山に雪中登山を真先になつてやり、自ら四つ這いになり土足で學生に上らせ地衣科の苔を採らせたなどの事は餘りにも有名である。

先生の獨立心の強かったことは類いないくらいで、先生をして試驗管をすてて南北戰爭にしたがわせたのも、哀れな奴隷を獨立させるためだつた。ある時一人の子供が丸木橋を渡 ろうとしているのを見た學生達は危いとばかりに駈けよって助けようとした。する先生はそれをおし止めて子供が全く橋を渡り終るまでジツと時をこらして見守っていたが、渡り終るとともに駈けよって子供をいだき上げ、ほずりしてその勇ましさをほめちぎったという。

先生は午前中は學校に務め、午後からは開拓使の顧問として役所に出て北海道開拓についての數々の重要な進言をした。その頃の北海道はアメリカやデンマークからバターミル クなどの乳製品を入れていたが、これを自らまかなえるよう に牧畜を農家にすすめた。これが今北海道からよい乳製品がでる基となったのである。

また機械農業の基をおいたが、これは內地より一歩進んだ農業だったので、たしかに今も北海道はそうなのである。

明治十年四月十六日西南戰争のさなかに、任期の満ちた先生は、生と共に馬上記念撮影を終って北海道特有の雪泥を馬でけたてながら札幌の南六里の島松の中山久藏宅まで行き、そこで畫飯をたべながら學生とともに色々の思い出に打笑いながら、賑かに話をしつくる所がなかった。かくてはと先生は「ハガキでよいから消息を知らせて下さいよ」と名残惜し げに言われながら南部產の馬に打乘られた。そしてかって先 生が大西洋の波をこえてドイツのゲッチンゲン大學に學ばんとする時に自ら叫ばれた「大志を抱け」(Boys,be ambitious) という名言を後に残し、ふり返りふり返り坂を登って春未だ早い。 疎らな林の間に姿を消してしまわれた。

歸米後は再び學長の職につかれたが翌年これを退き、船の 中で海洋學を研究し講義をうけつ、世界を廻るという (Floating College),を企てられたが、この實際的な新しい計畫は資本不足で出來上らずにしまった。また鉱山研究開發のことも試みられたが、これも未完成に終った。

しかし先生がまかれた種はこの東の國で美事な芽を崩え出しつつあった。學生たちが、宗派を超越したキリスト教の獨立教會をたてたことを聞くとクラークさんは心から喜んでは るかに百ドルの金を届けてくれた。その時の手紙に「私は諸君が、このように早く獨立した教會を日本に打建てようとすることを心から喜んでいます。私がバイブルをよませたのは 決してクリスチャンにしようと思ったのでなく、その中にある眞理をつかませようと思ったからです。私はこんなに早く私の望みが遂げられようとは思いませんでした」とあった。 學生たちは涙をもって喜び且つ感謝の祈りを、胸うちふるわせて捧げた。

先生はビスマルクと親友であった、それにもかかわらず、この友と異って科學の本筋である所の衣食住の研究生產に専ら心をよせられ、これを志す同志を作る爲に教育に力を注がれたのである。そして事志と違い遂に恵まれない淋しい晚年を送るに至られた。そのただ一つの成功はサッポロに残さたことであった。その為、サッポロにおける僅か八ヶ月の生活の思い出が、ただ一つの慰めであったという。この自然科學者であり、そして預言者の如かりし先生は日本を離れてから九年目に六十歲で一八八六年、帝國大學令が公布された年の三月九日にアマストでその生涯を閉じられたのであつた。

弾眞空さん

ダン・アート企画 / 地無し管工房代表、虚無僧研究会終身会員、一般社団法人 東洋音楽学会正会員

弾眞空さんは、普化宗尺八の奏者であるとともに、日本でも数少ない、地無し延べ管(地無し尺八)の製管師です。29歳の頃、尺八のレコード「竹の響き」を聴いて、普化宗尺八に目覚め、インド・ネパールにも尺八修行の旅に出られるという異色のご経験をお持ちです。本日は、弾さんに、普化宗尺八の魅力についてお伺いいたしました。


――――29歳の頃、高橋空山先生の尺八の演奏を収録したレコードである「竹の響き」をお聴きになられて洋楽から尺八に転向されたとのことですが、普化宗尺八の魅力とその時のお気持ちについて詳しくお教えください。

空山先生のレコード「竹の響き」を聴いたときの衝撃は今でもはっきりと覚えています。

若いころは、ジャズなどの洋楽をやっていたのですが、洋楽はテクニックを身に付けても、感覚を麻痺させていくところがあって、いくら上手に音を出しても、自分の心から生れたものには感じられなくて、やればやるほど心と音色がずれていくように感じていました。

しかし、「竹の響き」を聴くと“心と音色が一つになる”ということが理屈ではなく、すっと心に入ってきたんですね。

それは、“絶対と一体となったことによる衝撃”といえばよいでしょうかね。概念や観念による認識を捨て去ったときに、心地よく響いてくる音色のようなもので、言葉では表現のしようのない不思議な魅力がありました。

それがきっかけで尺八を始めたのですが、ギターはどれほど技術を身に付けても一体感を感じることはなかったのですが、尺八は上手く吹けなくても最初から一体感があったのを覚えています。

――――当時のレコードの収録環境では音もそれほど良くはなかったと思うのですが、レコードをお聴きになられても、空山先生の尺八の音色は、他の楽器と明らかに違うことがお分かりになられたのですね。

そうですね。尺八をやっている方でも違いが分かる方はそれほど多くはないように思うのですが、空山先生は禅や尺八、剣などを総合的になさった方でした。これらは表面的に別々のことをやっているようで、実際には全て繋がっているという一体感があるのですが、この一体感が音になっていたように思います。


【普化宗尺八との出会い】 (“響きの自叙伝”より)

 昭和60年(1985)「高橋空山 竹の響き」というLPレコードに出会った。1970年にポリドールで録音されて、お蔵入りとなっていた音源を、弟子の藤由雄蔵(藤由越山)が自主制作したものであった。

 当時住んでいた杉並区の安アパートで針を落とした。初めて聴く普化宗尺八の音色である。

 尺八の音色といえば、正月にマスメディアから流れる「春の海」と武満徹の「ノーヴェンバーステップス」の音ぐらいしか知らなかった頃である。その響きに戸惑いを覚えた。後に、「妙なる響き」云々形容したのだが、正直なところその時は、良し悪し・好き嫌いなどの言葉は一切浮かばなかった。「虚霊」が終わって「真跡」に移る無音状態の時に、金色の帯状の抽象イメージが脳裏に浮かんで、ぐるぐる回っていた。プツン・プツンというポップノイズで我に返る。放心状態のままA面が終わった。ロゴスとパトスの未分状態を実感した瞬間である。


――――洋楽から尺八に転向されるのにはものすごいご苦労があったように思うのですが、はじめは独学で学ばれたのでしょうか。

そもそも尺八の流派に都山流や琴古流があることも知りませんでしたので、楽器屋さんに行って店の人から「どちらの流派ですか?」と聞かれても、全然わからなくて「えーっと」となってしまいました。

「竹の響き」のレコードを聴いたときは、こういう音色を出したいという思いがあったのですが、そのレコードの奏者である高橋空山先生は既にご存命かどうかわからないという時期でしたので、どこに行って尺八を習えばよいのかもわかりませんでした。

その後、30歳の頃に琴古流の東京師範会の先生に学ぶのですが、暫くして尺八一本を携えてインドに武者修行に行きました。

それから帰国して、32歳になった頃に普化宗尺八の伝承者である藤由越山先生の門を叩きました。

――――なぜ、ネパール・インド尺八行脚を決心されたのでしょうか。

私が尺八家を志したのは30歳になってからです。幼少のころから音楽をやっていたとはいえ洋楽が中心でしたので、本格的に普化宗尺八を習得するのには相当の覚悟が必要でした。

ちょうどその頃に知り合ったネパール人が、帰郷の旅に誘ってくれたのですが、私はそれを人生の区切りにしようと思って決行しました。この間に学んだ多くのことがその後の35年間を支えてくれたと思っています。

――――ネパール・インドにはどのくらいの期間いかれたのでしょうか。

半年間くらいでしょうか。一つのけじめというか区切りにしようと思いましたので、仕事も洋楽も全て辞めて、全部捨てるという思いでした。ですので、洋楽やジャズ、クラシックを聴くことも辞めて、民謡やわらべ歌だけを聴いていましたね。2020年にリリースしましたCDの紹介文を書いていただいた柘植先生(東京藝術大学名誉教授)にも、そのことはお話ししました。


【ネパール・インドへ】 (“響きの自叙伝”より)

「竹の響き」を聴いて以来、尺八の音が頭から離れなくなった。

 この音楽は、片手間ではできない。

 悶々とした日々を送りながら、悶々とした演奏をしていたある日、東京で仕事をしていたケサバラル・マレクというネパール人と知り合った。

そして「今年の秋に故郷へ帰るので、一緒に行かないか」と誘われた。

 心身共に分岐点に立っていたこの時期、尺八行脚の第一歩を踏み出した所が、ネパールの首都、カトマンズだった。

 ケサバの紹介でインターナショナル ゲスト ハウスに逗留。 

 バックパッカーの泊まるゲストハウスは、たとえ個室であっても、音は筒抜けなので、尺八を吹くのは専ら屋上だった。ある日、尺八を練習しようと屋上に上がっていくと、五十がらみの男がいたので、会釈をかわして一時間ほど吹いた。次の日も、また次の日も繰り返し・・・三日目にようやく、その男性に話しかけた。

「よく会い、ますね、どちらからきましたか?」

返事がない、不思議そうに私の顔を見ていたが、嫌がっている様子はなかった。

次の日は、彼の方から近づいてきて、何やら手ぶりをした。

“なるほど、てっきり日本人と思っていたが、言葉が分からなかったのか。”と勝手に思い込んだ。

しかし、そのあと渡されたメモを見てびっくり。

“私は、耳の全く聴こえない金子義償というものです。これからインドに入ろうと思うのですが、一緒に行ってくれる人を探しています。”と書かれていたのです。

金子さんは、画家で、少し前に亡くなった後援者の供養を兼ねて旅をしているとのことでした。これが縁で、以後4ヶ月近く、彼と一緒にインドを旅した。

その後、ガンジス川沿いにあるヒンドゥー教の一大聖地、ベナレスに移動。

この地を訪れる日本人バッグパッカーが、一度はお世話になる「久美子の家」に逗留した。

ベナレスの北約10㎞の所に釈尊が初めて教えを説いた初転法輪の地、サールナートがある。この地を最後にクミコハウスを離れて、ブッダガヤへ。苦行で瀕死のシッダールタに乳粥を供養して命を救ったといわれるスジャータの村がある。有名なマハーボディ寺院や悟りを得た菩提樹を訪れた。

 ブッダガヤの日本寺では除夜の鐘を撞いた。

 <梵鐘というのは、鐘の音だけでなく釣り下げている部分の軋みが程よいサワリ音を発していて、大きさに応じた基音の他数多くの倍音が混然一体となって独特な響きを放つ。子供の頃から梵鐘を撞くことは幾度となく経験していたのだが、1987年12月31日の体験は特別の意味を持った。---というのは、同時に鳴る打撃音・楽音(振動する基音と倍音)・軋みなどの噪音が、それぞれ独立した音として時差をもってイメージできたことと、それが独奏尺八の響きの観念とリンクしたからである。授記音聲曼陀羅「虚空」の音を捉えた!


――――帰国後、藤由先生とはどのようなきっかけで出会われたのでしょうか。

「竹の響き」のLPを買ったときに、「普化宗史」も買ったのですが、「普化宗史」の発行所が普化宗史刊行会となっていましたので、そこに連絡をしたのが藤由先生との出会いのきっかけでした。

インドに行く前にも有名な先生のところに習いに行ったのですが、どこに行っても空山先生の音色はなかったのですね。それで、インドに行ったのですが、帰国してみると、空山先生の尺八を継いだ方は藤由先生くらいしかいないということを知りまして、もうそこに行くしかないなということで、訪ねたのです。

しかし、最初は入門の許可がおりなくて、三回くらい演奏会を聴きに行った際に、“今度、集まりがあるから来なさい”と声をかけてもらいました。

――――入門が許されてからは藤由先生の所には定期的に通われたのでしょうか。

そうですね、新宿に月一回くらい通いましたね。昔の家は離れがありましたので、そこに皆が集まっていました。

現在は千笛会を主催されていていますので、今はそこに通っています。ですので、もう30年くらいにはなるでしょうか。千笛会は縦横無尽に千本の笛を極めようという意味です。


【入門】 (“響きの自叙伝”より)

帰国後すぐに藤由越山師に連絡を取り、教えを請いたい旨伝えたところ、「一度演奏を聴きに来なさい」と云われた。 それでは!ということで<風呂屋の二階コンサート???>なるタイトルだったと思うが、銭湯の二階の広間で行われた会に行き、初めて普化宗尺八の生音を聴いた。

 <想像していた以上に静謐で安定した音色は、伝統音楽の神髄を醸しだしていた>

 

さっそく入門を申し出たのだが、あまりいい返事が返ってこない。

 「今度、スペース仙川でライブをやるから聴きに来なさい」ということで、この日の入門は許されず。 

 今日こそは弟子入りを果たそうと「スペース仙川」に出向いて演奏を聴いた。 演目は「供養」などの普化宗尺八楽と抒情歌のメドレーなどバラエティーに富んだものだった。

 終わってから、再び「弟子にしてください」と懇願。 すると先生から質問が返ってきた。

 「尺八の筒音がCisの場合、ツの音は何になる?」 

???・・・。

 ドイツ音名が出てくるとは思ってなかったので、ちょっと戸惑ったが、

「Eです」と答えると、

「ふむ」・・・。 

「今度自宅に来なさい」  この日も入門許可は出ず。

 昭和63年(1988)4月23日(土)

 指定された午後一時、越山先生宅訪問。

 すでに稽古が始まっていて、後に兄弟子となる諸先輩方の尺八の音色が中庭に響いていた。

 稽古が終わると、先生がおもむろに立ち上がって「今日から田中君が仲間に加わるので、みんなで飲み屋に繰り出そう!」といって、出掛ける用意をさせた。

 この時は何が何だか分からなかったが、とにかくこの日、私は藤由一門の門下生となったのである。


――――尺八作りの方もご苦労があったのではないかと思うのですが、どのように学ばれたのでしょうか。

私が製管をはじめたのは、昭和60年(1985)頃からです。

当時はすでに、普化宗尺八を専門とする工房はなく、箏・三味線との合奏や民謡・詩吟などの伴奏をする、継ぎ地の尺八が主流となっていました。

しかし、虚無僧は、尺八奏者であるとともに製管師でもありましたので、“尺八を造作れないと尺八を極めることはできない”という思いから、製管については独学で勉強しました。

虚無僧研究会の先達の方にお願いして、江戸から明治初期にかけて製作された尺八を見せてもらうこともありましたし、製管講習会を主催して、講師にお招きすることもありました。実際の尺八を見せて頂く際には、寸法を測らせて頂いたり、構造を見せて頂いたりすることで、少しずつデータを収集していきました。尺八に使用する竹を求めて全国各地の竹藪を巡ったりもしましたね。東京には大きな竹藪はありませんので、尺八にできる竹を確保するためのつてを確保するのには非常に苦労しました。

――――地無しのべ管の特長についてお教え下さい。

「地」とは、砥の粉と生漆を煉ったパテで、竹の内部に塗って形状を変化させるためのものです。

また、通常の尺八は寸法調節やパテを塗りやすくするために竹を切断して継ぐのですが、それをせずに、そのままの竹を使用した尺八を「延べ管」といいます。このように、地を塗らず(地無し)、切断せず、延べ竹で製作した尺八を「地無し延べ管」といいます。

地を塗って、寸法調節をした尺八が目指すのは「百管一律」ですが、地無し延べ管が目指すのは、竹の自然な状態(癖=個性)をそのまま保って、それを活かすように作り、竹にあわせて吹くことによって、唯一無二「百管百律」の響きを得られることが最大の特徴でしょう。

本来、尺八とは地無し延べ管を指していたのですが、戦後、洋楽が入ってくる過程で、洋楽に協合するようにピッチを洋楽に合わせようとするのですが、その際に、自然の状態の竹では作れないということで、パテを入れたり、継ぐことで、現在の寸法を調整した尺八が作られるようになりました。


――――地無し管の場合、竹をそのまま使用するため、竹によって音色が変わってくると思うのですが、どのような基準で竹を選んでいるのでしょうか。

虚無僧尺八の場合、相対的音程は、合わせる必要があるのですが、独奏ですので、絶対音高はバラバラで良いのです。製管する場合、ある程度、音響学的なことも考慮する必要があるのですが、演奏する場合は、それらを考えると良い音楽にはなりません。吹いていて自然に音色が結びついていくのがよいのです。禅では“無の境地”とうものがありますが、吹くときはそのように吹くのです。そうするとそれまで修業したことが自然と音色に現れてきます。

音楽を始めたばかりの人は良い演奏をしたいということに意識をとられがちですが、そうすると、うまく吹けません。特に尺八は扱いが非常に難しい楽器ですので、余計にうまくいかなくなります。

また竹は本来、形がまちまちで癖のあるものですが、それを個性と考えるのが地無し尺八です。普化宗尺八は百管百律、一本一本ばらばらにつくるのですが、地を付けたものは、個性あるものに対して百管一律にしようとしているように思えます。

聲明(しょうみょう)というお寺の読経でも、お坊さんの声は皆ばらばらですが、声が合わさると美しい響きになりますよね。普化宗尺八は独奏が専らですが、聲明のように数十人が同時に吹くこともあります。そうした場合、我々が真音(しんね)と呼んでいる音色に意識を統一して吹くことで、西洋音楽とは真逆の美しさが生まれます。


――――尺八は先の方が少し曲っているのですね。

竹は大体、山の傾斜したところに生えます。土から顔を出したら上に真っすぐ伸びますので、根元の方が少し曲がります。尺八はこの形状をそのまま利用するのです。

洋楽の楽器の場合、例えば、フルートなども木でつくりますが、先端が曲っていると都合が悪いのでまっすぐな形状にしています。

西洋では自然を支配しようと考えて、都合の悪いものは人間が変えてしまおうと考えるのでしょうが、日本は自然のものをそのまま生かして使うことを考えます。

尺八の歴史は古く、正倉院にも残っているのですが、正倉院に残っている尺八は唐の時代の音楽をやるために作られたものです。そのため、手穴が今のものよりも一つ多くて六つあります。それは唐の時代の音楽をやるのには良いのですが、虚無僧の尺八ではありません。

その後、尺八が雅楽で使われなくなったのが十世紀くらいで、17世紀に入ってから虚無僧尺八として再登場します。その間の700年くらいは僅かな記録しか残っていませんが、楽器は、一節切(ひとよぎり)、三節切(みよぎり)といった虚無僧尺八とは別の尺八が、かなりの数残っています。

現在、室町後期から江戸初期に有ったであろう、過渡期の普化僧の尺八の復元をしています。

――――どのくらいの竹のストックを持っているのでしょうか。

千本くらいでしょうか。地無し尺八の場合、竹藪があれば必ず取れるというものではありませんので、年間に100本取れればよい方です。そのため、尺八をコンスタントに造り続けるにはこれくらいのストックが必要です。

九州には大きな竹藪があるのですが、それでも、良いものは一か所で数本しか採れません。そのため、地無し尺八を残すためには、竹藪の維持・管理を徹底する必要があります。個人レベルの問題ではないので、組織で行政などのバックアップをとりつけて、日本の竹文化全体を盛り立てていくことだと思います。

――――竹を採った後は何年も乾燥させるのですね。

そうです。ます竹を採った後は炭火であぶって油抜きをします。すると青い竹に薄緑の光沢がでますので、一か月くらい天日に干すと白っぽくなります。その後、5~6年間は室内に入れて陰干しを行います。天日干しでは脱色と、最初の乾燥をおこなうとともに、紫外線を当てることで丈夫にします。室内での陰干しでは、繊維の内部の水分をゆっくりと乾燥させていきます。三年程度乾燥させますので、その間に割れてしまう竹も出てきます。

その後は、節をとったり、中を削ったりして形を整えていきますが、設計図があるわけではありませんので、吹きながら調整を行っていきます。

――――道具はご自身でつくっているのでしょうか。

殆どの道具は自分でつくります。買う場合は特注品ですね。小刀類は鍛冶屋さんに頼みます。西東京に「小信(このぶ)」という伝統を継承した凄い職人さんがいますので、特殊なノミや小刀などはその方にお願いしています。

普化尺八の作り手の難しいところは職人としての技術があるだけでは不十分で、吹奏者でもなければならないところですね。パーセンテージでいうと半々くらいでしょうか。工芸家としての技術も必要ですが、ちゃんと吹けないと良いものは作れません。

――――普化尺八はどのくらいのお値段がするものでしょうか。

うちで作っているものですと30万円前後ですね。これくらいの価格帯が標準的なものとなります。また、音には問題がないのですが、傷が入ったものになると「訳あり作品」として値段を下げています。

一方、七節あって手穴がきっちりと収まって、一尺八寸のものとなると、もの凄く高くなります。そのような竹は滅多にないですからね。私が今まで売った中で一番高いものでは100万円というものがありました。

――――禅では自分が悟ったものを書や尺八、剣などで表す必要があるとい伺ったことがあるのですが、禅の悟りが尺八の音色として現れているために一体感を感じるのでしょうね。

ヨガでは最初に“肉体的な鍛錬を行っていないと体が壊れてしまう”といわれるようなのですが、何かを極めようすれば、心身共に鍛錬しないとバランスが崩れてしまいます。

現代では、精神病になったり自殺したりということが少なくありませんが、これらの原因の一つに、バランスの問題があるのではないでしょうか。

日本でも宮本武蔵は剣術だけでなく水墨画も描いているのですが、水墨画の方はそれほど習っていないにもかかわらず、ものすごい作品を残されていますよね。それは、剣術を通して得たものを筆で表現しているからでしょう。何か一つのものが分かると、それが他の分野にも繋がって、“わかる”瞬間があるのではないでしょうか。

以前、邦楽ジャーナルの取材を受けたときに、「この尺八の有名なプロの奏者を紹介してください」と聞かれて「プロフェッショナルという概念はありませんよ」と答えました。普化宗尺八家で演奏を商売にしている方はいません。卓越した技量で、玄人と称される人は居りますが、それを切り売りする所謂プロの演奏家とは違うのです。

虚無僧が吹いていた時代、一般の人は尺八を吹けなかったのですが、普化宗が廃宗になった後は、急速に民族楽器になっていきました。そして独奏だったものが合奏になっていくことで、琴古流や都山流の流れが出てきました。空山先生は明治生まれですが、空山先生の先生は明治維新前の虚無僧です。「普化宗史」はその時代から普化宗全体の歴史を調べて集大成した大著です。信奉者の理想論として読んでしまえばそれまでですが、史実の奥にある真実を読み取ることができれば、普化宗尺八吹奏においても、大きな精神的支えになると考えています。

技は、時代と共に少しずつニュアンスが変化していきますが、磨き上げられた崇高な芸術は、時代の変化に左右されません。空山先生の音は、まさにそれです。

――――今後はどのようなご活動をお考えでしょうか。また尺八を教えたりする予定はないのでしょうか。

普化宗尺八草創期(16世紀後~17世紀前)の吹奏様式を探り、楽譜に起こす作業と、それを吹くための地無し尺八を作っていきます。

また、教えることに関しましては「来るもの拒まず、去る者追わず」で、吹き方・作り方ともに、精一杯指導していきたいと思っています。


弾眞空  

【略歴】

1955年 東京生まれ。

幼少より様々な楽器に親しむ。

1978年 故高柳昌行主催の「煉塾」に入塾。Jazzや邦楽を含めた民族音楽の即興演奏の研究・実践を行う。

1984年 故高橋空山の比類なき記録「竹の響き」(LPレコード)を聴き、その妙音に魅せられ一切の音楽活動を中止。普化宗尺八に没頭。

暗中模索のなか、独学で独自に音色や旋法の研究。地無し尺八の製管も始める。

1987年 ネパール、インドへ五ヶ月間の尺八行脚を行う。

帰国後、空山の高弟・藤由越山に師事。

1991年~1994年 スペース仙川企画に参加。薩摩琵琶の吉田央舟と語り芝居の佐月梨乃と共に全国各地で公演。同時に普化宗尺八「地無し延べ管」の製作講習会を開催。

1996年 普化宗尺八楽の理念としての原形を求めて、仏教寺院での吹禅開始。 吹・作・創(演奏すること、その楽器を自ら作ること、温故知新による曲の練り直しと創作)一体不可分を提唱。 毎秋、竹を求めて東北から九州まで、約3000㎞の旅に出る。

2003年 八王子市上恩方町において、日本で唯一の「地無し延べ管」専門の製作工房を開設。普化宗尺八、三節切、一節切、洞簫尺八、古代尺八等を系統的に研究・製作。

2012年~ 彈眞空個展皐月を毎年五月に開催。

2018年 「ワールド尺八フェスティバル2018ロンドン」に招かれ、演奏とレクチャーを行う。

現在、表現としての「吹奏論」・「製管論」・「創作論」の執筆と、普化楽の神髄を伝える吹禅の実践活動を行っている。


Discography

1998年 CD授記音聲曼陀羅「虚空」


普化宗尺八の演奏家で、地無し延べ管の製管師でもある彈眞空のアルバム。普化尺八の理念としての原点をここに表す。普化尺八とは何か、『虚空』を通して今、世に問う。二曲目では一節切を使用。


2003年 「鈴慕」

なぜ鈴慕なのか?と問われても答えられない。 培ってきた触覚が、直感的に選択したのだ。鈴慕に漂う精霊信仰の残響に、私自身が共鳴したのかもしれない。


2008年 「霧海篪」

普化宗尺八楽には、自然の状景を描写した楽曲は無い。本作品も霧海を描写したものではないが、明暗の突き揺り (ツキユリ)や掠り音(カスリネ)を強調した奏法によって、ごく自然に霧海の視覚的イメージと音聲がリンクした。


弾眞空 竹の響 ~未来に託す七つの試み~ ALM RECORDS(2020年 文化庁芸術祭参加CD)

「明治維新」後、日本の文化は大きく変わり、たくさんの伝承芸能等が失われてきた。江戸時代には確かに存在した、普化宗尺八のこの音色・奏法も忘れ去られつつある。散逸していた楽曲を集大成した巨匠高橋空山の音色に魅せられ、高弟藤由越山に学んだ彈眞空は、その響きを受け継いだ。今の私たちには「これ尺八」?と感じるこの音も、あの世の虚無僧たちには「この音が残っていた」と安堵されるだろう。竹を訪ね、竹に聴き、竹管と成す弾眞空だからこその響きが、ここにある。心を澄ませてこの音を聴けば、“竹"の真実が感じられるかもしれない。


Youtube チャンネル
弾眞空


ダン・アート企画 / 地無し管工房

二、倫理

一、神と人

わが民族のとほい祖先は天照大神であり、天照とは、太陽系における日のやうに、もと・はじめ・統制者であるとされ、諸々の星が太陽から分かれたやうに、我々の祖先は大神の御直系なる皇室の御血をうけてまつつてゐるとされてゐる。それで、血のうへに根ざすしたさを以つて、大神に対したてまつつてゐるわけである。それで、古から、一生に一度は伊勢参りをすることにしてゐた。それは、おのが身と魂との故郷を愛み敬ふ心の表現である。中江藤樹は「孝は太極に到る」といふことを自ら実行し、伊勢神宮に参拝することを念願としてゐたといふ。また、鎌倉幕府がさだめた貞永式目の第一条には、「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」といつて、鎌倉武士の第一歩の実戦は敬神であることを示してゐる。十万の蒙古勢が潮のやうに筑紫の海にせまつたとき、亀山上皇は御身をもつて敵国降伏をいのらせたまうたが、北条時宗の師なる祖元禅師は、「一句一偈、一字一画、悉く化して神兵となり」敵国を降伏させたまへと祈願した。なほ、禅は「心より心に伝へる」すなはち、人格に接し人格を練るといふ宗旨なので、崇祖の念あつく、その開祖シヤカを他宗よりも尊び、これを祭る儀式は法灯仄ゆらぐ仏殿で厳かに修せられるが、これは武士の眼に深く崇祖の念を焼きつけた。また、禅は現実を尊ぶので、印度が本でわが国の神々はその末だなどと言ふ本地垂迹説を採らず、神は神として、神仏混交することなく、鎌倉五山の禅僧の如きは皆等しく鎌倉八幡宮を崇敬し、徳川時代には、天瑞禅師が、幕府は政権を奉還するやうにと、寒水を浴びて伊勢神宮に祈つてゐるほどである。これらによつて、禅僧は敬神思想が深かつたことがしのばれると思ふ。


二、君臣

大君はわが民族の総本家、すなはち大御親であらせられるから、この大御親につくしまいらせることは孝といふべく、また忠ともいふべきであり、わが民族のやうに家族から発達していつたものに、初めて忠孝一本であるといひうるのである。それで、葉隠論語には、「忠孝といへば、二つの様なれども、主に忠節をつくすが、即ち孝なり。しからば、忠一つに極つたり」といひ、また「忠孝を、つくさんが為ばかりに形を現し生まれ出たものと、知るべし」とさへ言ひ極められてゐる。実に、心身をなげすて、己を空しくして、ただひたすら、大君につくしたてまつることは武士としての最高徳目であつた。

世に、鎌倉武士は、真の忠を知らぬといはれてゐるが、源頼朝は、「武士といふものは、僧などの仏の戒を守るなるが如くにあるが、本にてあるべきなり。大方の世のかためにて、帝王を護り参らする強者なり」といつて、佐々木定綱をさとし、また悪七兵衛景清が、かれに仕へることを心よしとしなかつたとき「お前は、大君につかへてゐる自分にまた仕へるのだから、間接に大君につかへることになるのだ」といはれて一言もなかつたといひ、その子の実朝は、「山はさけ海はあせなん世なりとも、君に二心われあらめやも」と叫んでゐる。北条義時でさへ。承久の乱のときに、泰時に「玉輦には弓をひくな」と厳訓してゐる位だから、やはり鎌倉武士は、「海ゆかば、水づく屍、陸ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、閑には死なじ」といふ古からの武士の魂を根底としたことに変りはない。禅はシヤカの正統な思想を継ぎ、実践道徳を基礎とするから、わが国にはいると共に、忠を最高実践徳目とした。栄西禅師は御国論に、仁王経の「仏、般若を以つて、現在・末世の諸々の国王に付嘱す」の言を引いて、禅は大君の御稜威によつて、輝かに展べらるべく、また栄ゆべしといひ、「念々国恩に報ひ、行々宝算を祝す。まことに帝業久しく栄、法灯とほく輝かんが為」に坐禅をなすと高唱し、忠のための坐禅であることを力説した。

また、道元禅師は、北条時頼にむかつて、大政奉還をせまり、法灯国師の一門は、南北朝四代とその運命を共にし、身をすててつくしまゐらせてゐる。それから、足利尊氏にこびて、順逆の道をわきまへぬと非難されてゐる夢窓国師さへ、ある夜尊氏とおそくまで話をしてゐたが、かれが厠に行つたとき、尊氏は、つと坐より立つてきて、国師の手に水を注いでやつたので、尊氏の手を握り、涙ながらに「そのやうなやさしい心をもつてゐながら、なぜ、後醍醐天皇にそむきたてまつるか」とせめたといふ。

それから、楠木正成の師だつた明極楚俊禅師は、宋の人であつたが、来朝の際に、わが国の鳥山が、見えだすと、「日本皇帝万歳と高らかに三度となへた。この心あつてこそ、楠木正成をして湊川で迷ふことなく従容として死につかせ、後醍醐天皇に生命を捧げまゐらせ得たわけである。正成は、兵学者であり才智の働き過るほど働く人、死に直面して迷ふのは当然であらう。それで、かれは兵庫の広厳寺に赴き、禅師に、「生死交謝の時如何」とたづねた。すると禅師は、「両頭ともに裁断し一剣天によつて寒じ」とこたへた。

両頭とは、生死、得失、是非、心身といふやうな対立観念のことで、これを棄て去り、ただ己を真空にすれば、自ら道がわかるとの意。正成は、これに従ひ、生死得失の二念を去り、己が心を空にしたとき、湧然として胸を衝いて湧き上がつたのは、「湊川に参りて戦ふべし」といふ山よりも重い君命だつた。ただ此の君命に絶対に従へばそれでよい。生死は大君に捧げまゐらせたもの。かれは、ほんの僅かでも心の動いたのに対し、「通身慚汗滴々」といつて悔いてゐる。かくて、湊川で奮戦また奮戦、合戦すること十六度、身に重症を負ひ、再び起つ能はざるに及び、弟正孝と共に、禅師のゐる広厳寺の無為庵にひきあげ、刺しちがへて倒れた。肉体すでに亡び、これを君に捧げ、精神は「七度生れ変り大君に尽しまゐらせん」とこれまた大君に捧げた。すなはち禅師の言に従ひ、完全に心身を空じて君命三昧、これを守りぬいたといふべきである。禅師は涙ながらに百日、昼夜担坐して、かれの冥福をいのつたといふ。まさに此の師あつてこそ正成ありの感がある。

戦国時代は、勤王心が衰へてゐたと言はれてゐるが、織田信長は忠誠をつくし、また雲居禅師に深く教へられた伊達政宗は、その居城の青葉城と菩提寺の瑞巌寺に御玉座を設けたてまつり、毎朝これを拝してゐたといふ。下つて、徳川家光の幕府全盛期に、天瑞禅師は、伊吹山に六年こもり、かれが歌つてゐるやうに「三宝島も血を吐きて啼く」思ひで、皇政復古を祈り、また各地を遍歴して尊皇をとき、つひに追はれ追はれて九州にわたり、しかもなほ屈せず火食を断つて寒中氷を破り川で禊し、十万の小石に、皇政復古を祈る文字をかいて、土中深く埋めた。その一つに「皇民力を合せ忠を尽す臣となり、幕府は速やかに政権を奉還し、以つて宜しく忠良の臣となるべし」とある。

なほ、各禅寺では、須彌壇に「今上皇帝聖寿万歳」の御牌を安置して、朝夕祈願を捧げる位だから、禅が尊王精神を根底としてゐることは、武士と同じであることが察せられる。


三、祖孫

各氏において、初めて氏をとなへ出した人を氏祖・氏神として各氏族が祭つてゐるが、後世、他氏族が入りこみ、婚姻によつて血族となり、やはり氏神とするやうになり、はては、血族でなくても、産土神・守神として仕へるやうに変つた。

武士は氏神を尊び、優秀な氏族出なのを誇りとして平時その祭りを怠らなかつた許りでなく、戦時は必ず出陣を告げ凱旋を報じ、戦場では「何々何代の後胤何の某」となのつて、その祖先を辱かしめ傷つけぬ働きをなすことを宣言した。

禅家では、「仏に超え祖に越えよ」と修行を励まし、法会の時には、「仏に向かつて説く」とまでいひ、修行が進むにつれ、「子を養ひ己にしかざれば家亡ぶ」と称し、出藍の者にのみ印可した。それで参禅の武士はこれを目のあたり見、その意気に感じ、もつて軌範としたのはいふまでもない。

また、禅家では、各末寺は本山に統率され、ここの禅堂で修行した者が末寺に派せられるので、勢ひ本山を重んずる。そのやうに、武士は各氏の直系である宗家を尊び敬ひ、これを統制者とし、服従し補翼し、これを中心として結束をかためて、家族的に自然な進化をなしてきた。新田氏といひ、楠氏といひ、また菊池氏などがその好例で一部郎党を引き具し、戦にも出てゐる。

そして、宗家は宗家たる力量をそなへてゐなければならないので、宗家の者たちは学問をはげみ、武術をねり、その資格を具へた。この実力によつて、精神・物質ともに、一族のものを助け、また率ゐて行けたので、したがつて、一族の親和力がたもたれたといふべきである。

この宗家の者たちは、鎌倉時代からは、禅寺を建立し、そこで学問を修行した。菊池武時すなはち心空寂阿入道のごときは、聖護寺を建て大智禅師を迎へて、山を下らざること二十年といひ、その子の武重・武士みなこれにならつてゐる。また、上杉謙信は、天室禅師に薫陶され、武田信玄は快川国師にはぐくまれた。

西郷南洲は無参禅師につくこと三十年、その奥位の洞山禅師の五位を悟つたといふが、この無参禅師は、もと久志良村の百姓だつたので、島津侯は、「いかなるか、これ久志良の土百姓」といふと、禅師はしづかに「泥中の蓮華」とこたへたので深く悔いて、それからは禅師について参禅究道したといふ。


四、夫婦

伊邪那岐尊と伊邪那美尊が、初めて水蛭子をうまれたので、太占によると、女が能動的だと言ふことがわかり、それを改められたといふが、古から夫は能動的、妻は受動的なことを求められた。武士は、夫婦互いに分をまもり、行動に干渉せず、よく本然性をのばすと共に、また互いに心を空にして睦みあつた。

そして、禅は病的な邪淫を排し、健全な気分をもつやうようにといひ、妻以外の女は、「一観し再観を労せざれ」とまで説き、目のあたり無妻無欲な生活を示し、邪淫を反省させた。

また女に対し、身を真に与へるのは、夫のみに限るとし、なほ体のみを捧げ、心を捧げないのは、娼婦だと教へた。それで、生命の続く限りこれを守り、もし害さんとする者がある時は、死をもつて抗争した。落城の際、夫に先だつて自刃したのは、夫の勇を鼓舞し、後顧の憂なからしめたのにも拠るが、この「初一念」を貫いたもので、古来から歌はれた「わが夫は物な思ひそ、事しあらば、火にも水にも我れなけなくに」の魂である。また、「世のうきも、つらきも、忍ぶ思ひこそ、心の道の誠なりけれ」と、楠木正成の妻が歌つて、夫に殉ずべき命をながらへ、正行に父の志を継がせたのも、女性の柔にして剛なる貞の精神である。


五、親子

親子は同質であり、親は子の中に住むと観ぜられ、互いに心を空しくして敬愛するのは、道徳実践における出発点で、これを一切時・一切処に拡充し、その極限は、中江藤樹は太極に至るといふ。

無難禅師は「わが身無ければ親に仕へて孝」となるといひ、快川禅師は、武田信玄の不孝を痛烈にいましめ、白隠は、その父母に仕へて至孝、その師の正受老人は、「老母につかへて、つひに信州の庵を出でず」と伝えられてゐる。


六、師弟

武士は、その師をよぶに、師父といひ、師に対しての礼と情とは近日の比ではない。道をたつとぶが故に、それを伝へる師をたつとぶ。中大兄皇子は、斎までして、南淵請安に建国精神をたづね、源義家は、礼をあつくして、大江匡房に兵学をきいてゐる。池田光政が、中江藤樹の家を訪れたとき、ちやうど講義中だつたので、藩主でありながら、玄関の小室に端座し、その講義の終るのをまつておつたといふ。

禅では、心より心に伝へるといつて、人格に接して人格をねり、「一器の水を一器に移す」やうにするのであるから、師がゐなければ、まつたく道がなりたたない。それで、師に対する敬愛は、他の比ではなく、法灯国師の如きは遠くはなれてゐる師に対し、香をたいて、はるかに礼拝してをり、また、弧雲禅師の如きは、師の道元禅師が亡きあと、その木像に対し、毎日自ら膳をすすめ、夏はこれを煽ぎ、冬は火鉢を具へてあたため、生前におけるとすこしもかはりがなかつた。白隠禅師は、師の正受老人と別れるとき、別離の情にたへず涙ながらに走つたといふ。

これらの行は、深く人々の心に、師に対する敬愛の念をやきつけたことはいふまでもなからう。


七、長幼と朋友

兄弟姉妹が互いにむつみ合ふのは古よりの美風であつたが、武士においては、とかく頼朝のやうに、兄弟互いに攻めあつて、つひには一族が滅んでしまつたといふことがおほかつた。大江広元、中原親能などは、この弊をなほすためにも、禅をとりいれたとふ。禅では、宋学によつて、「兄弟墻にせめぐなかれ」と教へたのは勿論であるが、なほ身をもつてつよく示してゐる。すなはち、古参の者を、久参底といつて、敬愛し、その命を絶対的に厳守し、新人の者を新到といつて、古参の者はこれを威と慈をもつてよく指導し、そこに厳然たる長幼の序があり、親和がある。禅寺で学問をし、参禅をした武士たちは、おのづとこの風習をみならつて、鎌倉初期の弊を追ひやつた。

また、武士は「あひみたがひ」といつて、友達同志たすけあひ、平素は勿論であるが、戦場では傷ついた友を背に負うて、敵にまつしぐら斬り込んで行くといつたことをなしてゐる。禅では、同僚のことを同参といつて、非常に親しくし、年老いて、久しぶりに逢つたときなどは、相ともに涙ながらに抱きあふなどと言ふことは珍しくなく、腰のまがつた老大禅師が夜は共に寝ね、徹宵して物語りをしたなどと言ふ話が幾多伝はつてゐる。徳川家光と柳生宗矩とは、ともに沢庵禅師に参禅して、同参だつたので、君臣の間柄とはいへ、特別に親しかつたのはまつたくこの為であつた。

しかも、同参は、互いに尊敬しあひ、決して礼を欠き、埒を出るやうなことはない。白隠禅師のもとで、同参だつた東嶺禅師と遂翁禅師が互いにその長所を讃揚して、東嶺は遂翁の気概をたたへ、遂翁は東嶺の綿密をもめてゐたといふ。

以上によつて、長幼同僚間における禅の影響をうかがひ得ると思ふ。


八、主従

主人に対し、心身を空しくして仕へることをも、むかしは忠といふ字をつかつてゐるが、元来、忠の字は「まごころ」といふ意味なので、いまのやうに、天皇に対してたてまつつての場合だけにかぎられてはゐなかつた。だから、武士は大名や将軍あることを知つて、皇帝に対する勤皇精神がうすかつたと言ふのはあたつてゐない。それは師に対して尽す言葉が別になかつたので、師孝の字をつかつてゐるのと同じである。

上官すなはち大名将軍を通して、皇上につかへたてまつる古よりの習慣をまもりぬいた事には別に変りはない。この明証としては既に忠の説明のところでのべたとほりである。

禅では、己を空しくして、主につくすことを教へ、無難禅師は「わが身」を棄てて「君につかへ」ることを強調してゐる。

そして、禅となつても、旧主に対しての情においては更に変りはない。松島瑞巌寺の開山の法身禅師は、俗人のとき、その主人の真壁左衛門尉経明から、履で顎をけられ、それを深く辱ぢて、入宋し禅の奥底にいたり、北条時頼の帰依をうけた人であるが、晩年主人が、はるばる青森の八戸まで、たづねてきたときに、やはり元のやうに、土下座して経明を庵の上に招じようとしたので、経明もまた涙ながらに座をゆづり、禅師に法をきき、出家して、共々楽しく晩年をこの北輙の地に送つた。この主に対する熱情は、「君辱かしめらるれば臣死す」といふ極限に達する。大石良雄は、禅で心膽をねり、「万山重からず君恩重し一髪軽からず、我命軽し」と刀に刻み、雪明かりに吉良邸へといそいだ。

かやうに、正しく真空な真心の対象が目上の時に、敬神・忠・孝・師孝等の妙有となり、目下の時は、臣・子・弟子・弟妹をいつくしむ妙有となる。


武士とは、武を行ふが故にかく称することは、農人が、農を行ふが故に農人と称するのと等しく、武をはなれて武士なく、農をはなれて農人と称し得ないと同じであるといふ建てまへから、本書においては、特に武を強調して述べ、それに与へた禅の影響を述べた。

次に、この武士の根本条件たる武が、いかに、平常におけるかれらの生活を規定していつたか、また禅によつて、いかに生活羅針なる倫理が清められ深められて行つたかをしるした。

要するに、武士道とは雄々しく、正しいものといふを得べく、これを禅的にいへば、真空妙有であると称することが出来る。かくして、武士は古よりの武夫の魂を禅によつて高揚し、たぐひなき道にまで修理固成したのである。(完)

(『禅と文化』昭和十三年 より)


文と禅

武士が戦のうちに養はれた心構へが、平和なときに、いかに倫理なり物質生活におりこまれたか、また逆にいへば、戦時にそなへるため、いかに倫理や生活がなされたか、いま此の平常における心構へを文事といふ題によつてすこしばかりのべてみよう。

一、一般精神

戦はこれ正戦でなければならぬ。

大義名分をつよく主張することが飽和点に達し、爆発したとき、そこに戦がおこる。即ち死をもつて、あくまで正しさをいひはることが戦である。ゆゑに、勝敗は時の運、もし肉体が倒れたら魂でもつて正しさを敵に教へる、とまでいふくらいだから、武士道の基本精神は、「ただしさ」であるといひうる。この正しいといふことを分解してみるとつぎの三つになる。


一、清らかなこと

二、真直なこと

三、直きこと


いま、この一つ一つについて、禅がいかにこの精神をふかめていつたかについて述べる。

一、清らかなこと

神武天皇は禊をなされ心身を清らかにしてから戦にのぞまれたといふことであるが、心身を清らかに清めてから戦にのぞみ、また平素、緊張したことにあたるのはわが民族の習慣である。ことに、武士においてはこれが強くもとめられた。

禅もまた、清浄をもととする。すなはち、「如来清浄の禅」といひ、坐禅は心身を清める修行法である。

坐禅をしてゐると、初めのうちは、坐禅しない時より以上に心がザワめき、いろいろな考へがとりとめもなく次々と秋の浮雲のやうにながれてゆく。そして、しまひにはボンやりしてきてねむくなる。これをとほりこすと、めがさめたやうに、さはやかなそして「清らかな」気分になつてくる。

この清らかな気分は、素く、潔く、純い気分であるがこれをまた、澄んだ気分ともいふ。澄むとは、素むこと、空くこと、進むことで、すがすがしく、濯がれた心である。

この空いた心とは、いひかへれば、空になつたことである。これを禅では、空(sunyata)といつてゐる。また別に、ざわめきや色々の考へが消へたといふところから、涅般(nirvanaとは消滅の意)ともいつてゐる。この空な心は、かるがるとした気分であり、また輝かしい明るい気分でもある。これは、輝かしい鏡であり、物事がよく写り、また、よく鑑みることができるものとなる。かやうな心境を、真如(tathataとは、かやうにとの意)といふ。

道元禅師は、ここのところを濁りなき 心の水に すむ月は波もくだけて、光とぞなるといつて、鎌倉武士にをしへた。

要するに、睡眠不足や過労、悪に走つた不快などのボヤけた心でなく、頭がスツキリして、胸が空になつた健全な精神からくる思想は、やはり健全であり判断が正しくすすむことは当然である。しかも、この健全な心がより健康になり、さらに強健になり、それが高揚され、磨かれて、つひに聖化してゆき、聖者仏陀(Buddha)と近くなつたときは、一切の精神作用が正鵠をうるやうになり、心のままになして、則をこえぬことになる。だから、禅における正は、荒鉄の粗雑な正でなく、とぎすまされた刀のやうな聖なる正である。これを、正智・正思惟といひ、また妙有ともいふ。この心の正しさは、生活の正しさからくる。「浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由る」とはこのところであり、栄西禅師が護国論で、他宗と武士とに警告をあたへた点である。

さて、武士の正しい生活は、清浄で質素なところから来る。かれらは戦場で、生命はすてるべきもの。あすをも知らぬ身が、平生財をたくはへて、また何かせんと考へた。それに、戦場で困苦欠乏にたへなければならないから、平素衣食住において、これを慣らさねばならない。生活が清浄であり、質素なのは、ここに原因し、必要上うまれでた徳目なのである。

そして、三衣一体よりほかに何ものをも持たず、一身雲水の如く、悠々として去来にまかせた禅僧をみた武士たちは、それに共鳴し、また感化された事が多かつた。

北条時頼は、足利義氏に、鮑と鰕と欠餅をだしてもてなしたが、かれ自身は平常味噌をなめて、食事をとつたといふことであり、織田信長は、藁で髪をたばね、舅の家で味噌汁をたべたとき、甘かつたので、「やがて、この家は亡ぶだらう」といつたとのことである。また、片倉小十郎は、「城中の者は、一切綿服着用のこと」とさだめてゐる。以上の三人は、ともに深く禅僧の感化をうけた人々である。

この禅僧の質素は、ありし当時のシヤカの趣とまつたく同じであり、その根拠は空の思想からきてゐる。すなはち、心を空しくしてゐて、そこに写つた表象は妙有といひ、また第一義(Paramatka)ともいふが、食の第一義は体を養ふにあり、衣は寒暑をふせぐもの、住居は雨露をしのぐものである。それをまもつて禅僧は質素であつたのである。

しかし世に、水清ければ魚住まずといつてあまりに清らかなことを排撃してゐるが、その水清しといふ水は小川のことであらう。大海の水は清らかであるが、鯨のやうな大きなものまで住んでゐる。また、清らかさを排撃するのでは清濁合せのむといふことにならず、濁だけを合せのむことになる。

しかも、真空は、さらに清く、かつ大である。日月も、真空なるがゆゑに、天空かかつてゐるし、「無一物の処、無尽蔵」といつて禅はここの処を教へてゐる。道元禅師は北条時頼に、世の中に まことの人や なかるらんかぎりも見えぬ大空の色といつて、この端的をさとしたといふ。時頼はこれによつて、真の心の広さ、すなはち度量をえたのである。

二、真直なこと

真直な心とは、真空ぐなことで、やはり、空を他の角度からみたことであるが、また別に、直線的な心であるともみなしうる。直線は剛であり陽であるが、武士においては卑怯を拝する剛毅と未練を退ける明朗とにあたる。また、直線は二点間の最短距離であるから、短であり速であるが、武士においては、直截簡明がこれにあたると思ふ。武士の直截簡明は、戦場において養はれたもの。すなはち、戦場では理屈をいつてゐる暇がなく、拙速をたつとび、禅的な撃石火閃電光で物事を処理してゆかねばならないから、いきほひ、直截簡明にならざるを得ない。これが平常の生活や政治にうつして用ひられたことはいふまでもないこと。また戦場では、全身全霊をあげて真剣に戦はねばならないから、おのづと平常も真剣な態度になり、武士に二言なしといふやうな、信義をまもり約束をたがへない真直な心となつた。

また武士は、真直な精神を主張するにあたり、死をもつて抗争する。剣法において、大上段から真直に敵を一刀両段してゆくことが最初の業であり、そして最後の極意とされてゐるのは、この真直な心が形にそのまま現はされたものである。

剣禅一致してゐた柳生但馬守宗厳は切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれたんだ踏み込め 神妙の剣とうたつてゐるが、かく武士にとつては地獄もなく天国もない。生もなければまた死もない。たんだ踏み込む真直な心、真直な剣よりほかに何ものもないのである。それは、吉田松陰がいつたやうに「倒れてもなほ止まない」ところの真直なのである。

邪な心から来る剣は、横しまから出るもので、それは真直に爆進してくる汽車に横からくるものが、はぢき飛ばされるやうにはぢかれてしまふ。この真直な心を明極禅師は、「両頭倶に裁断し、一剣天によつて寒じ」と(すなはち生死の両頭をかまはず、ただ真直に進むことを)楠木正成が湊川で戦ふ前に教へたといふ。

また、関山慧玄国師に、ある武士が生と死とのことをたづねると、国師は「慧玄には生死といふことはない」とこたへていたといふが、まさにこの端的を教へたものである。それから、元艦が筑紫の海にまさに押しよせようとしたとき、祖元禅師は北条時宗に向かつて、「ただ進前のみ」と叫んで勇を鼓してゐる。かくして、戦時において養はれた生死を超脱する精神は、平時の臨終においても用ひられた。すなはち、北条時頼の如きは、「業鏡高く懸く三十七年、一槌に打破す大道坦然」といつて、寂然として大往生をとげてゐるのがその一例である。

三、直きこと

なほき心とは、素直なこと、和やかなこと、滑らかなことである。この和やかさの、形にあらはれたのが礼である。礼は、己が心をゆづりあひ、空にしなければうまれてこないもの。

そして、武士の礼法は小笠原家によつて百丈清規を参考にしてつくりあげられたのであるから、その思想の一半は禅的な空の思想によつてゐることはいふまでもない。

また、素直な心は忍ぶ力ともなる。一時、己を空にして、他のみを自由にはたらかせる心、しかも、他が己に不利なことを強ひるとき、これをジツと忍ぶことは、素直な心、空な心のあらはれである。

ことに、武士は困苦欠乏に対し耐久力がなければ戦場でやつてゆけない。これ禅に参して、空に徹し、さとりを深めていつたところである。それから、直き心は、また撫でいつくしみ、平等び、馴れしたしみ、懐つく心、他と昵む心、己を空くした心持である。そして、武士の情は、かういつた気分からうまれてくる。すなはち、己を空しくして、人の身になつてみるときに情がわいてくるのである。だから、武士の情とは、空に徹することによつて生ずると言ひうる。武士が禅に参じて、空の思想に徹して、おのが情をふかめて行つたことは、これによつてうなづかれると思ふ。上杉謙信が、武田信玄に塩を送つたことは皆人のしつてゐるところ。明智光秀が、信長の首を地に投げすて土足で踏んだのは悪逆であり、かつ情をしらぬものといはれてゐる。また、雲居禅師にふかく帰依してゐた伊達政宗は、朝鮮兵の耳をきり取つてきて、手厚く葬つていはゆる耳塚をつくつてゐる。

また、直き心とは、直す心といひうる。すなはち、戦は敵の不正を直してやるために行はれるものである。元来禅で「不殺生戒」をかたく守るべしとおしへてゐるが、しかし、臨済は「仏に逢つては仏を殺し、祖に逢つては祖を殺し、羅漢に逢つては羅漢を殺す」といつてゐる。この殺すとは、直接手を下して殺害するのではなく、これを空ずることである。そして、「他を空ぜんよりは、己を空ずるにしかず」と、その次にをしへてゐる。かくして、次には真の君臣一体、父母と子と一体、万物と一如になること、すなはち、己が身を殺しても正を生かす大慈悲を教へてゐるのである葉隠論語に「獄にも落ちよ、奈落にも沈め。鬼神をあまた相手にしても、片はしより、薙で切りにする気象肝要なり」といつてゐるのがそれである。すなはち、正しさによつて、敵を殺すのは敵の不正な魂を殺して、正しい魂にかへしてやること、菩提に入らせる大慈悲のあらはれで、ただ殺すために殺すとか、けがれた欲のために殺人鬼となるのではなく、敵を真直な心に直すための止むを得ない最後の手段なのであるとの意である。そして、シヤカも「大乗の道をまもり通すためには、たとえ兵杖をとつても、自分はその人が戒法をやぶつたとは認めない」とさへいつてゐるほどである。

かやうに、あくまで敵を正しくしてやるために殺すのであるから、殺した敵に対しては菩提をとむらふ、すなはち、あくまでも正しからんことをねがふのである。これが、武士の真の情、つよい情なのである。この心は畜生にまで及ぼし広げられて、「汝もまた速やかに、めざめよ」(南無畜生頓生菩提)といふやさしい言葉となつた。また直き心は、風流ともなる。武士は、風流を解しなければならないとしたが、この風流こそは武士の芸術における基礎観念である。いつたい、空はしばしば、何処よりか来り、何処かへ去つてゆく風の流れにたとへられ、武人は、その空なる色なき風にまかせて心を遊ばせること「一心雲水のごとく去来」すといつたやうにし、またその空なる色なき風をたのしみ、「清風匝地 何の極かあらん」といつて、総体として、こうした涼しいさはやかな気分をもとめる。この空なる風の流れを味ふ如き気分を風流といふ。たとへば、武士にのみ奏することが許された普化禅宗の尺八で、「色を以て吹く可らず」としたのや、武術の根本体形のサシ・ヒラキ・順身・逆身から脱化した能などが好まれたのがそれである。

そして、風流の念が深められて行くと、そこに幽しさが生ずる。幽しいと言ふ言葉の語源は行くこと、すなはち風流の深さに入つて行くことであると解せられる。

この幽しさをあらはしたものに芭蕉の俳諧がある。かれが仏頂禅師に参し、悟つたときの言が「古池や蛙飛び込む水の音」の句だといふ。それから、この風流に、わびといふのがある。茶室などがそれであるが、けばけばしい色彩がなく、質素で清浄、しかも雅味があるものであるが、それにつかふ器具を大切にし、これを磨きよく保存してゆくことなどを教へたのは禅僧であつた。また風流は閑寂さでもある。禅の閑寂は、その心境を反映する生活から来てゐる。すなはち、禅寺は、竹林や松林にかこまれ何等の飾りもなく、インドにおけるシヤカ在世当時の森林生活にもとづいており、寺(aranya)といふ意味の正統な解釈の「閑寂な処」といふ言葉どおりに設けられてゐる。この観念によつて形づくられた建築形式が書院づくりであるが、これが、武士の家をつくるにあたつての形式となつた。

また、シヤカが露地(ajjhokasa)に弟子をあつめて懺悔させ、心を清らかにさせてゐるが、これを採つて茶庭に入れ、やはり露地といつた。また風流は、現世にゐて、現世の迷ひやこだはりから脱け、さぱさぱし灰抜けのした心境で、現世を客観しつつ処して行く酒脱、禅の解脱(moksa)の意となる。これによつて、自由自在、しかも則をこゑぬのを円転滑脱といふ。

上にのべた幽玄・閑寂・侘・酒脱・円転滑脱などを総称し、別に禅味ともいふが、とにかく、これらが、武士の風流心を深めていつたことはあらそはれぬ事であると思ふ。

以上のべたことを要約すれば、正しい心とは、清く、真直な、直き心であつて、これを一言でいへば真心となり、禅的にいへば、真空妙有となる。

さて、これが生命の発展、すなはち神人・君臣・祖孫・夫婦・親子・師弟・兄姉弟妹・朋友・主従間において、いかなる作用をなしたかに付いてのべることにしよう。

(続く)

二、禅と武道

兵法

「戦は智なり」といひ、禅ではこの自由な智の動きを、「大用現前規則を存せず」と言つてゐるが、わが民族は、神代から戦術にかけては、他種族よりもはるかに勝れてゐた。神武天皇は御東征にあたり、大阪湾の上陸作戦が極めて至難なのを考へみられ、とほく熊野から上陸し、奈良平野の兄磯城や長髄彦の軍を近代戦術の如く「正を以て合し奇を以て勝つ」といふやうに、背中と側面から攻撃し一挙に殲滅せられた。また、日本武尊は、川上梟師の「淫楽を輔け」て虚に陥れ、これを刺したまうといふが、これらによつて、上代は兵法の智略が勝れてゐたことを明証するにたると思ふ。

その後、志那から兵学が入り、鎌倉時代以後は禅の影響をうけるものが少なくなく、まづ心を練ることを第一義とし、虚実正奇などを計る知謀はこれによつて深められるとされた。北条時宗・楠木正成などは、すなはちこれに拠つた人々である。下つて戦国時代になると、益々この傾向が深くなつた。時の将軍義昭を始めとし、織田信長・武田信玄・北畠具教などの兵学の師であり、後に従四位下武蔵守に任ぜられ、天下兵学師範家となつた上泉伊勢守秀綱の如きは禅を天妙禅師に学び、「心の心」をもつて、かれの兵学における根本としてゐる。かれが実際にこれを用ひた例としては、武田信玄が自ら大軍を率ゐて、かれが拠つてゐた箕輪城を攻めたとき、この「心の心」によつて、甲州勢が「佚して労す」る虚を見はかり、城から出て、「待中懸あり懸中待あり」とばかり懸引自由自在だつたので、さすがの信玄も手の下しやうがなかつたといふ。また山鹿素行は兵学を北条氏長にならひ禅を隠元禅師に学んだ人であるが、あるとき人々が、読心術を行ふ僧をかれにあはせると、その僧は一語もいはないので、人々が素行にこれを尋ねると「もし一言でも、自分の思つてゐる事を言つたら、抜打にしよう」と考へてゐたと言つたといふが、これは兵法における「未発を撃つ」ものであり、禅における「斬は機前に在り」といふ明察である。

素行と同門だつた宮本武蔵も禅を深く学んだ人であるが、かれが佐々木岸流をうたうとしたとき、わざと時間を遅らせ、岸流をして、兵法にいふ「久しき時は兵を鈍し鋭を挫く」といふ虚に陥らせ、岸流が怒つて鞘をなげすてると、「岸流まけた」といつて、「怒るものは撓し」「円石を千仭の山より転すが如き勢ひ」でこれをうつたといふ。

また禅僧といつても良いほどの上杉謙信は、川中島の戦で、兵法にいふ「知り難きこと陰の如く」に鞭声粛々として夜、河をわたり、「備なきを攻め、その不意に出づ」とばかり、自ら馬を走らせ、信玄に肉薄し、大兼光の刀を振りかぶり、「如何なるか是れ剣仭上の事」と叫ぶと、信玄しづかなること林の如く、「香炉上一片の雪」と答へたといふ。これまさに、兵法と禅機との両様の戦と称すべきである。以上のやうに、兵法における虚実正奇などの智は禅定より出でて、いよいよその精妙を得るにいたつたのである。

武術

「闘は勇なり」といひ、武術は禅でいふ「不退転の大勇猛心」をもととするが、わが国における神代からの剣法は防ぐことや退くことがなく、先々の先による攻撃一方の豪撃と称するものであつた。

かれらは、平素、素振すなはち古語の太知加伎をしてその業をねつたといふ。これが奈良朝のころになると、防ぐことに勝れた支那武術が入つて来たので、これを採りいれ、攻防一致させ、攻める身に寸分の隙もない即ち禅でいふ「陽も入らざるもの」にしあげた。この先をとり露堂々と敵に真向になつて、電光石火つき進み、敵を頭からま二つになれとばかり、真甲空竹割にし、微塵もそれたり曲つたりしないところは、禅で「一刀両段偏頗に任せず」と、いつてゐる処にあたる。われが真直なのに、敵が少しでも曲つてくれば、それは列車が進行してゐるのに、横あいからぶつかるやうにはぢかれてしまふ。したがつて、この業は、心が正しくないとできないもので、ここに平常における行が正しいことが必要となり、また戦が正義から出なければならないわけが存する。さらに、これを禅的にいへば、わが死を怖れたり、あせつたり、慢心したりする妄想をすて、己を空じてかからねばならない。すなはち、「わづかに如何と儗著すれば、身を分つて両段となす」といふ心境に住するのである。それと同時に、敵を怖れたり、あなどつたり、怒つたりせず、これを空じ、「敵はこれ家臣の如く」すつかり呑みこんでしまはねばならない。柳生但馬守宗矩は、これを「一口に吸尽す西江水」といふ禅語によつていひあらはしてゐる。さうすれば、わが心は明鏡止水、すなはち「水月の位」にいたり、敵の動きを未発のうちに知り、先をとつて「電光影裡に春風を斬る」が如く、随処に主となつて、たとへ寝てゐても、「牡丹花下の睡猫児、意蛱蝶にあり」といつた具合に、敵意を明察し、猛然として起つて、一刀両段することができるといふ。

上泉伊勢守は、この一刀両段といふ禅語をとつて、そのまま業の名にし、これを修行の第一歩として居り、伊東一刀斎は、鎌倉八幡宮に祈願してその帰途、後から襲つた者をふりむきざまに真二つに切りすて、そのとき真の無念無想の一刀両段を豁然として悟つたと、いはれてゐる。また、もつぱら先をとることを尊び、「勝は鞘のうちにある」といつた居合の開祖林崎重信は、父の仇にあつた時、一礼して頭をあげしなに、すでに敵を真二つにしてゐたといふ。それから、上泉伊勢守を流祖とする直心影流は、代々剣禅一致をとなへたが、榊原健吉は上野の戦のとき、輪王寺の宮、すなはち後の北白川宮能久親王を背負ひてたてまつり、片手で大上段から廿数人を片端から胸もとまで一刀両断したといはれてゐる。この榊原と同門の島田虎之助にまなんだ勝海舟は、後年「自分にとつて、もつとも役だつたものは、島田に学んだ剣禅一致の精神だつた」といつてゐるが、この先をとり直截簡明で勇猛果敢な一刀両断の精神は、武士のとつた政治や日常生活にと及ぼされたのである。以上は、武術における正勢ともいふべきものであるから、つぎに順序として寄勢をのべてみよう。

弓や槍は敵に対し横向きになり、頭だけを敵にむける偏身であることは、人々の知つてゐるところであるが、刀や薙刀でも、偏身になつて、敵の刀槍に対し、体をかはしつつ、敵を袈裟がけに切つてゆく。また水府流の水術でも、敵前渡河するときに、この偏身の業を用ひる。そして、左横向きの偏身を順身といひ、右横向きを逆身といふ。この体をかはし、敵の刀槍をやりすごし勝つところは、暴虎憑河の匹夫の勇をさける大勇の妙用であつて、正勢の一刀両段ばかりではなく、この奇勢があつて初めて全しといひうるものである。兵法における側面攻撃が正面攻撃とともに在するのと等しく、禅に正位と偏位があるのと同じである。上泉伊勢守は、順身・逆身を代る代る用ひる業を、「右施左転」といふ禅語によつてあらはしてゐる。また、田宮坊太郎は沢庵禅師に参じた柳生但馬守宗矩に、花車といふやはり偏身に属する業だけを三年間ならつて、親の仇をうつたといひ、京都の天寧寺の善吉禅師に禅と剣とを学んだ薩摩の東郷藤兵衛は示現流をひらき、薩南健児を鍛へて勇猛な士風をつくりあげたが、明治十年戦争のとき、官軍の兵が薩兵のために脇の下から上の方に逆に切り上げられて死んで居り、この業がわからなかつたといはれてゐるのも、やはり偏身になり脇の下から逆袈裟に切り上げる刀法である。槍では、宝蔵院胤栄が上泉伊勢守や成田盛忠に槍術をならひ、柳生宗厳石舟斎に相談し、鎌を槍につけ、「兵法は寒夜に霜を聞く如く心をしづめ入りこみて勝て」といつて、順身逆身を自由につかつてゐるし、馬術でも小笠原大坪両流ともにこれで弓を射てゐる。つぎに、この体形で敵がすでに切りこんできた時、積極的に一歩出て、受け流したり、払つたりし、わが刀や薙刀を後にふりかぶり、後からまはし逆偏身に転じて敵に切りこむ業があるが、これは廻刀とよばれてゐる。この受け流すのは柔であり、廻して斬り込むのは剛であつて、柔にして剛なる心境でなければならない。しかも、一歩出て受け流すことは特に注意すべきところで、あくまで積極的攻撃心のこもつた受身で、上杉謙信は「能く守る者は、我の守を変じて攻となす」といつており、一刀流では「降るとみれば積らぬ先に払へかし、雪には折れぬ青柳の枝」と教へてゐる。これによつて、武士は平常他の暴言悪行を、かるく受け流す円転滑脱の心境をやしなつたといふ。

なほこの業が、柔に始まり内に剛を蔵してゐた為、女性の性質と共通でありこれを鍛へ深めるにふさはしかつたので薙刀に用ひられた。会津戦争のとき、二十一歳の妙齢の身をもつて娘子軍を率ゐ、「敵にとらはれるな」と叫びつつ、薙刀を水車のやうに廻して敵陣に斬り込み討死したといふ中山武子のその時に行つた「車」といふ業はすなはちこれである。また、上杉謙信が、「鞍上人なく鞍下に馬なし」といひ、人馬同体になり、敵中に「寄輪」「振入」などの業たくみに突き進み、縦横に馬蹄にかけたといふのも、またこの円転の妙をあらはしたものである。

しかし、以上のやうな正・奇の業にとどこほつてゐては、自由な働き、禅でいふ「越格」の働きができない。武士は、戦場で多数の敵を相手にする場合は、「通身これ眼」となつてあらゆる方向に気をくばり、「大用現前軌則を存せず」といふ自由な境地によつて、「四方八面来旋風打」と、縦横無尽に切りたて薙ぎたて突き入らねばならない。上泉伊勢守の師だつた松本備前守政信は、戦場で朝から晩まで切りまくり、誰一人としてこれに打ち向ふことができないので、やむなく敵は槍ぶすまをつくり包囲して、一勢に声を合わせ突き刺して殺したといふ。かれは「天地神明、物と推し移り、変動常なく、敵によつて転化す」と、ここを説いてゐるが、その通りに戦ひつづけたものと思はれる。

かれの弟子の上泉伊勢守は、その衣鉢をつぎ、さらに禅に参じて「いづくにも心とまらば住みかへよ、ながらへば又もとの古里」と、世語を著け、また「心万境に従つて転ず、転処実に能く幽なり」と、この心境に著語してゐる。武士にとつて、この心境は、平常、いろいろな込み入つた葛藤に対し、快刀乱麻をたつが如くに処理してゆくに役だつたのである。

しかし、いかに縦横無礙の働きといつても、全く拠り処のない出鱈目とは違ふのであつて、時・所・位によつて、いろいろの業が設けられてあるのが、帰するところ、ただ一つになるといつて単純化され、実戦のときに、頭脳を徒らに弄することなく、たやすく出来る方法にまとめられてゐるのである。これは、禅において倶胝の一指禅を説いてゐるのと等しく、また孔子が、「わが道、一もつて、これを貫く」といつたのと同じである。

宮本武蔵は多年参禅した結果、これを「万刀は一刀に帰す」といひ、香取の飯篠長威斎家直から塚原卜伝へと伝はつた神道流槍術の印可状に、「一本窮め尽して無本に到る。無本の当体、則一本。月、雲を離れ、大いに虚洞、直に百億を超え根本に徹す」とあり、また禅に参し四友居士といつた柳生兵庫介利厳は、「つづめては、何の習もいらぬなり、ただ一太刀に切るよりはなし」と、悟つてゐる。

以上は、われが武器を持つてゐる場合であるが、自分の武器が不幸にして万一うち落とされて、敵のみが武器を持つてゐる時にはどうしたかといふに、虎穴に入らずんば虎児を得ずといつて、敵の白刃下に飛びこみ、敵の武器をうばひ、逆にこれで敵を打ちとる。これは、禅で「赤手にして人を殺す」とか、「敵馬に騎つて、敵を走らす」といふところで、敵の白刃を少しも怖れぬ大勇猛心と、飛び込む「石火の機」とが必要とされる。

上泉伊勢守は、若いころ、安中城の安中左近を討ちとつて、「上野国一本槍」といはれたが、さらに禅に参じて、無手で敵の槍をうばふ心境「還つて槍頭を把り、倒に人を刺す」といふのを悟り、柳生但馬守宗厳は無刀の業を三年間工夫して会得し、上泉から印可されたといふが、そのとき「万法は無に体するものぞ、兵法も無刀の心奥義なりけり」と、世語をつけてゐる。また、慈恩禅師から剣と禅をまなんだ樋口兼重がひらいた念流では、左手が斬られたら右手で剣をとり、両手が斬られたら、その切り口に出た骨で突き、死なば魂で一念をとほすといふ禅の「無二無三の初一念を徹す」ことを主旨としてゐる。

さらに、彼我ともに武器を持たず、あるいは武器を投げすてたときには、組打が始まるが、その時の覚悟はどうかといふと、禅では「一挙に拳倒す黄鶴楼、一趯に趯翻す鸚鵡州」といつてゐるが、足利時代に信州の長窪勝左衛門によつて開かれあた誠極流では、「無我円空の体、千変万化、勝理おのれにあり」といつて、無我より出る力を強調し、また林崎流では、「扇子𨁝跳し三十三天に上つて、帝釈の鼻孔を築著し、東海の鯉魚うつこと一棒すれば、雨盆の傾くに似たり」といつてゐる。

しかし、武術は「戦はずして人を屈す」ることをもつて、善の善なるものとする。「由基、矢を矯れば、猿さけぶ」といつてゐるのがまさにこの処である。日置の開祖の日置弾正は、合戦のとき、かれの矢面に立つものがなく、矢種がつき、敵が襲つてくると、弦だけを鳴らし、「えい」と気合をかけ、敵を逃げちらしたといふ。また山岡鉄舟は、禅に参じ「両刃鋒を交へて避くるを用ひず」といふ洞山禅師のいつた五位中の兼中至を悟つたときに、敵は道場の隅まで一太刀も合わすことが出来ずに退いたといはれる。

しかも、更に一歩を進めて、戦意だも起させぬといふ神武の心境に達せねばならない。柳生但馬守宗矩が、虎をにらむと、虎は後しざりして、全くくすんだのは未だこの心境を得たとはいはれない。

そのとき沢庵禅師が向ふと、虎は猫のやうに喉をならして喜び、頭をなでられて、ねころんだといふが、ここに至らねばならぬとされてゐる。宮本武蔵が、晩年刀をささずまる腰でゐたといふのは、この心境を得たものである。禅においては、洞山禅師のいふところの五位における最後の位である兼中到がこれであり「了事の凡夫の境地にいたつて、初めてこれが手に入つたといふべき」であらう。直心影流では、「思ひなく、また恐れなき心あらば、虎さへ爪を置くところなし」といつてゐる。ここにおいて、武術の極地は和であるといひうる。

以上、武道によつて得た精神を要約すれば、先を尊ぶ攻防一致の攻撃精神に始まり、円転巻舒の妙用となり、敵に近づいては、これを投げ棄て、或ひは逆に敵の武器を奪つて倒し、肉体が切られたら魂で勝つといふ不退転の大勇猛心となり、この武備あつてこそ、初めて敵の計を破つて戦はずして勝ち、またその究極として、戦意だも起させぬ神武となると言ひうると思ふ。では武備あるものは文事ありで、次に文事をのべる。

(続く)

生物は生物学が示すやうに、種と環境とによつて独特の特徴ある進化をなすものであるが、わが日本民族の如きも、種なるたぐひなく勝れた種族と、環境なるうるはしい国土とによつて独自の進化をなしてきた。その進化過程は、もつとも自然であるから、典型的であり、よき軌範であるといひうる。武士道は、この自然な民族発達のうちにかもし出されたもので、これに強く烈しい刺激をあたへたものは禅であり、また禅の影響をふかく受けて形づくられた宋学である。

武士道といふ言葉がつかひ初められたのは戦国時代からで、その前は、弓矢の道・弓馬の道・軍の道・武道などとよばれてゐた。これらの言葉がしめすやうに、武士道とは、武によつて始まり、武によつて養はれ培はれた道なのであって、それが政治に、日常生活にと及ぼし、また広げられたものなのである。だから、いろいろな武士道における徳目は、理論によつてつくられたものでなく、おもに戦場で実際に武を発揮してゐる間に得たものと、戦に出るための準備としての平生の生活からうまれ出たのである。武を行つた倫理のみをとりあげれば、それは、農民や町人の倫理とすこしも違ふところがない。だから、倫理のみを説いて武を説かないのは、武士道を説くといひえない。

それで本書ではまづ武備をいひ、つぎに文事すなはち倫理其他の精神を説くことにした。


一、武による歴史

武を説くに当たつて、あらましではあるが、ザツと武による歴史をかいてみよう。

わが国の武の起りは、とほく神代にこれを求めうる。

素戔嗚尊が高天原に登られた時、天照大神は男装をなされて、これを迎へられたと言ふ。このときの天照大神は、外に

武魂を現し、内に文魂を保たれた。

これが、戦時における態度であり、平時においては、これと逆

に、外に文魂を現し、内に武魂を保つのが、武の道であるとせられてゐる。そして、武は公のためになすべきものであつて、いたづらに私のためになすべきものではないことをこの時ふかく教へてゐられる。

また、武甕槌神が、天照大神の勅をうけて、出雲にくだり、刀に血塗らずして、大国主命に、国土を返上させたのは、「戦はずに人の兵を屈す」といふ、兵法の善の善なるもので、まさに武の極致である。

それから、神武天皇は禊をされて心身を清らかにせられ、東征に出でたたれたが、これは清き心が武の第一歩の心構へであることをしめされたものである。

また、崇徳天皇は、四道将軍を遠く遣はし四方を平らげさせられたが、その御子孫は各地において武と文との中心となられた。

そののち天下は太平になれ、中央政府の武力が衰へるにつれ、地方の豪族が勢ひをえたが、日本武尊の武徳によつて、たいらげられた。一方外においては、武内宿禰たちが、朝鮮をうつて、これをしたがへたが、その後たびたび反するので、神功皇后は、天照大神にならひ男装し、九州軍を率ゐさせられ、一挙に三韓をほふりたまうた。かくして幾度もの外征によつて、九州のものたちは武に勝れるやうになつた。

そして九州防備軍のうちで、めだつて強く、たとへ額に矢が立つとも、背には立てさせぬといつたのは、勇敢無比の東国のつはものたちだつた。かれらは、つぎのやうに歌つてゐる。


天地の 神をいのりて 幸矢挿き

筑紫の島を 指して行く吾は

今日よりは かへりみなくて大君の

醜の御楯と 出で立つ 吾は

大君の 勅かしこみ 磯に触り

海原わたる 父母を捨きて


しかし、外征によつて、功を立てた武内宿禰の子孫なる蘇我氏は、大蔵大臣と偽つて、財政を握り、おほいに奢りに耽り、淫靡であり華美な百済仏教を移入し、土木を起し大寺院を造るに至り、中央政府の財政は枯渇して行つた。このとき、中大兄皇子は中臣鎌足と謀り、南淵請安から建国の精神を聞き、つひに蘇我入鹿を切りすて、大化改新を行はせられたが、あとで此の制度に不平な僧侶や地方豪族どもがおしくも元に還してしまつた。桓武天皇はこの弊に堪へたまはず、都を京都に遷された。このころ蝦夷が度々叛したので、坂上田村麿をつかはして、これを討たしめたまうた。

そののち大化改新に功があつた鎌足の子孫の藤原氏は、朝廷に勢力をふるつたが、次第に文弱にながれ、治安に必要な武力をかくやうになり、国司は地方をおさへる威力もなく、かへつて豪族にへつらひ、これと結んで私腹をこやし、奢侈にふける材料とした。なかには任地にそのまま永住するものや、初めから任地にゆかず、不労所得をむさぼる国司さへ出てきたので、国家統制がみだれ、各豪族は自衛手段をとらねばならなくなつた。

ここに源平二氏がでて、武力をもつてかれらを従へた。しかし平氏は、藤原氏のやうに文弱にながれ、つひに源氏に亡ぼされるにいたつた。源頼朝は、大江広元の説にしたがひ、政所をおいて内務外務をあつかはせ、問注所をもつて司法をつかさどらせ、朝廷との間には議奏をおいて文弱な公卿をおさへた。これらは武士一流の直截簡明な政治精神をもつて処断した。そして鎌倉においては、将士の数をかぎり、邸宅を区劃し都市集中主義をふせぎ、地方の市関をひらき、商業を盛んにし、開墾をし灌漑をよくし、郷倉をまうけ不時にそなへ、道路をつくり駅馬制をあらため、港をまうけるなど、商業開発につとめ、ひたすら華を去り実に就いた。この実用主義のために、その後おこつた大地震・風水害・大海嘯に堪へることができたのである。

しかし荘園をうばはれて、贅沢ができなくなつた公卿・僧侶たちは、強いて後鳥羽上皇を擁したてまつり、鎌倉幕府をうたうとした。このとき北条義時は、泰時にむかひ「玉輿にあつたら、冑をぬぎ弓の弦をきり、身を下吏にまかせよ。公卿が軍を率ゐてゐるなら、一蹴してしまへ」とをしへてゐる。

ついで泰時は、僧侶の横暴をこらすため、その策源地である興福寺の地領を没収して、財政的にゆきつまらせる工夫をした。この義時・泰時は、ともに栄西禅師の法嗣の明慧上人にふかく帰依して、その教へをうけた人々である。

なほ北条時頼は、中原親能の説により、座して食ふため荘園を有し幾多の政治上禍をうんだ在来の仏教を排し、新輪入の自力主義で生活してゆく禅宗と、禅僧が持つてきた栄学とを採用して、文教にあてた。また自らも出家して道崇ととなへ、全国を行脚して善政をしいた。

現実に重きをおき、実用主義であり、書物を通してではなく、会話によつて、ただちに道をといた禅は、兵馬倥偬の間にある武士にとつては、もつとも手取りばやい宗旨であつた。また、禅は精神はもとより、生活さへ、一日働かざれば一日食はずといつて田畑を耕し、自力主義をとつたから、戦時にも平時にも、自力で行つた武士には共鳴せられたと思ふ。

そして武士が天下ををさめるにあたり、もつとも要求されたものは政治理論であつた。これを満すものとして、かれらの心に、共通点を多くもつ禅と宋学とがえらばれたのは当然である。かくして実行力のある彼等はただちにこれを実践にうつし、いはゆる鎌倉時代の質実剛健な政治と生活とを、形づくつた。宋学は、鎌倉や京都の五山の禅僧が、教へ広めたが、有名な足利学校などもほとんど教師は禅僧だつたから、武士にあたへた影響はもつて知るべしである。

この禅と宋学とによつてやしなはれた典型的鎌倉武士は北条時宗である。かれは元兵にかこまれて、「珍重す大元三尺の剣、電光影裡に春風を斬る」といつて、自若として首をさしのべたといふ祖元禅師の教へをうけ、元の使を斬りすて戦を宣した。このとき幕府は、たとへ神風がなくとも元軍をうちやぶるべき武力と財政とをそなへてゐたいといふことである。

しかし元寇の役に用した思はぬ莫大の軍事費とその後の防衛費のために、幕府の財政は次第に不如意になり、その上に地震・凶作・海嘯が相継いで起り、税を多く賦課したため地方財政も大いに疲弊していつた。あまつさへ北条高時はおごりにふけつたためつひに地方制度が乱れ、豪族がここかしこに起つて、幕府をたほすにいたつた。

ここにおいて、後醍醐天皇は王政復古をなされたが、公卿が藤原時代を夢みて、領地を多く私有し、実際にこの事業にあたつた武士がかろんぜられたので、武士は鎌倉時代をしたつて、足利尊氏を擁し、ふたたび武家政治にかへしてしまつた。

かやうな時代だつたので、中巌円月禅師のごときは、文武両道をもつて政治の要諦とすべきだといつて、文弱な公卿と、道をわすれ武にのみかたよる武士とに警告をあたへてゐる。また法灯国師の法孫たちは南朝の武士と行動をともにし、京都における夢想国師一派の貴族禅に対抗した。この南朝の忠臣たちは、特に禅の影響をうけることが多く、楠木正成は関山国師や明極楚俊禅師につき、菊地武時その子の武重・武士は大智禅師にふかく帰依してゐる。

足利尊氏は、夢想国師の教へをうけ、「この世の栄華は、弟直義に与へたまへ、われにはただ仏道を成ぜさせたまへ」と祈つたほどであるが、順逆の道をあやまつてしまつた。義満の時になり、国民の安寧のためと思し召され、後亀山天皇は位を譲りたまひ、南北合一となつた。足利義満は通幻寂霊禅師に教へをうけた細川頼之の策にしたがひ、三管領・四探題制度をまうけ、簡明な武家政治をとつたが、これに任ぜられた者たちは、将軍の文弱につけこんで己が勢力をはり、争がたえず、つひに応仁の乱となり、中央・地方ともに、制度がくづれていつた。

将軍義政の如きも、大土木を起し幕府の建物を大きくしたり、日夜宴会や会議のみを行ひ実行力なく、いたづらに冗官を多くしたため財政が衰へ、これから後は幕府の勢ひがなくなつてゆき、世は戦国時代となつた。

このころの武将たちは、禅によつてきたへられた者が非常に多い。そのうちの代表的なものを挙げると、上杉謙信は天室光育禅師や益翁宗謙禅師に幼少のころから禅をまなび、武田信玄は快川禅師につき、織田信長は沢彦禅師・策彦禅師についてその鉗鎚をうけてゐる。ことに信長の如きは、鎌倉武士をしたひ、その行をまなんで、叡山や高野の寺院をやきはらひ、本願寺をせめて宗教改革を志す一方、一里塚をつくつて交通に便にしたり、開墾や灌漑をすすめて農業振興につくしたり、また細川幽斎を用ひて、庶政を整理し、かつ深く皇事につくしまゐらせた。

豊臣秀吉は、その志をついで、民力涵養につくし、その養子の秀次もまた田藉を定めたりして、地方制度改良につとめた。しかし、朝鮮征伐と大地震などのため、財政政策がはかばかしく行かなくなり、秀吉なき後は、それに拍車を加へ、つひに徳川家康の為にほろぼされた。

家康は新当流や新陰流の剣をまなび、その印可をえたほどで、一騎打をやつても、当時の武将中ならぶものなく、それに領内にはきはめて善政をしいた。かれは衆望によつて、天下の権をえたが、晩年は天海や林道春などの説にしたがひ、参勤交代制をさだめたり、地方税をおほく賦課して、地方財政をからし、ひたすら中央集権にのみ力をいれた。ついで、将軍家光のとき島原の乱がおこり、天主教徒を殺すこと実に三十万におよび、僧侶たちは天主教徒でない証明料をとつたり、もし近親者に同教徒があると、それに付けこんで財産をまきあげたが、結局悪銭身につかずで、そのため反つて堕落して行つた。

しかし、家光は柳生但馬宗矩とともに沢庵禅師に帰依し、別に武をふかく学んで文武両道をかね、よく諸侯をおさへる威力を具へたが、将軍綱吉は文弱にながれて、いはゆる元禄時代を現出し、あまつさへ地震・火災が打ちつづき、それに島原の乱などがあつたため、幕府の財政が窮をつげるに至つた。のち吉宗や松平定信がたつて一時は善政をしいたが、やがて武を去り文弱にふける将軍がつづき、ひたすら亡滅の一途をたどるに至つた。

一方武術・兵法は、戦国時代の実戦の経験を組織だてて、いろいろな流れが工夫され、その数が凡そ二百流にもあまる程であつたが、徳川時代の末期になると、実戦をはなれただ頭の中でいろいろと細工したものが多く、いたづらに形式や奇狂に走つて、いはゆる道場武術に堕してしまつた。

また幕府は、京都の相国寺でまなび妙寿院といはれた藤原惺窩を用ひ、朱子学を御用学としたが、この純学理的な朱子学は、武をもつてたつ武士には向かず、湯島聖堂からは三百年間ただ一人の傑物も出なかつた。これに反して、私学として民間に行はれたものには、陽明学と国学があるが、陽明学の祖なる王陽明は、将軍であり、儒をまなび、文武両道をかね、その上に禅にふかく悟入し、もつぱら己が体験上から、実行主義実用主義の学を創めたのだから、武士に共鳴されこの流れをくんだ中江藤樹・熊沢蕃山・佐藤一斎・大塩中斎等は、明治維新の志士たちに大きな影響を与へ、間接にとほく維新の原動力となつた。

別に、隠元禅師についた山鹿素行は、兵学と武士道精神を組織だて、その門に大石良夫雄があり、末流に吉田松陰をだして居り、京都妙心寺に入つて、絶蔵王といつた山崎暗斎は古学をとなへ、それに神話を加へたが、その末流は土佐の士風をつくり、維新の志士を多く輩出するに至つた。

かくて、幕府は文武ともに実用をはなれ形式にはしり、実際世間と遊離するやうになつて、精神・物質ともに行きづまつてしまつた。さうしてゐる内に、諸外国がしきりに押しよせるに至り、文字通り内憂外患となり、井伊直弼が禅的な一大断行を為すべく、内治外交に当つたが、それは夕陽が沈む前の一時の光りの輝きにすぎなかつた。

かくして、世は明治維新となつたのである。(続く)

London

飛行機は、やがて波荒きDover海峡を下に見て、Londonに着いた。空港から町までの間にある物さびた灰色の低い住居、その前庭に暮れ行く秋にバラが白く又赤く咲いて居た。私は、この眼をもって「庭の千草」即ちTis the last rose of Summer,......を見て何んとも言へない気持になって、胸が迫った。

車が待合せる所に着いたので、日航の東郷さんへ電話しようとしたが、未だ金を英貨に取替へてない。困って、まごまごして居るとそこに来合はせた外人が、ニコニコして「どうした、私が呼出してやる」と云って、自ら金を出して掛けて呼出して呉れた。それで話が終るまで、ジッと外で待って居た。宿に、これから車で行くからそこに東郷さんに、済まないが来てくれるようにとのこと。その間待って居て呉れた人は「話が向ふに、よく通ったか、どうか」と心もとな気に聞くので「よく解ったようだ」と答へると、ニコニコして喜んで、クルリと振向いてそのまま立去らうとした。あはてた私は「一寸待って欲しい、金を返したい」と云って、出さうとすると「要らない要らない」と云って笑ひながら手を振って行かうとする。「では、茶でも呑まう」と云ふと「私は急いで、これから北の方に行かねばならないから、その隙がない」と云ふ。「では、名前でけでも教へて欲しい」と云ふと「私はアメリカ人だ。それだけで良いのだ。」とのこと。そして後を振り向き手を振り振り立去って行った。私は胸が熱くなった。遠い異国での、ほんの僅かな恵み、それは旅人に涙せしめるものである。それが私の嫌いなアメリカの人なのだから、まして驚き且つ胸に刺った。神は、私に鞭を与へたのかも知れない。

そこから、古い箱型の車で、目ざす宿まで行くと、髯のモヂャモヂャ生えた年寄りの運び手は、いとも厳かな顔して掛りのほかに心付けを呉れと云って手を出した。何かチクハグな思ひして、私は思はず吹き出してしまった。すると、さすがに英国紳士だ、きまり悪げな顔して、出した手を引っ込めて、前を向き、そのまま急いで車を走らせた。私は済まんと思ったが、もうその時は後の祭りだ。

宿で、東郷さんを待って居ると、車を飛ばして来てくれ、宿に泊るよりも友達の奥山君が、前借りして既に金を払ってある室が空いて居るから、そこに泊ったらどうかとのこと。その言葉に甘えることにした。ウヰーンでのことで懐が淋しくなって居たから、これ幸ひ、渡るに舟だった。わびしいことである。

翌る日、大使館に行って講演の打合せをしたが、埒が明かない。向ふの相手が皆、旅に出て居る為だ。仕方がないから、持って行ったテープを大使館に渡して、言葉を添へて、後でゆっくり代講演してもらうようにした。私がやると良いのだが、彼らが旅から帰って来るのを待って居る隙がない。まことに惜しいことだが仕方ない。ロンドン子は、商人で、文化など、ことに音楽などには、さして心を寄せて居ない。彼らは、きまじめ一点張りだ。

その夜は、気の毒げにして、東郷さんが、食べ切れない程の夕飯を、おごってくれた。ドイツでは、食べ物屋に入る時には、雨具などは受付けに頼んで金を払う慣はしになって居るが、ここでは、各々が勝手に仕末する所が間々あるのでも、そのきまじめなことが窺はれるような気がした。

英人には、ロマンがない。あるのは必ずきまじめさに結びついた情けだ。以って彼らは、ブッキラボーで仏頂面だが、底意はあるのだ。そのことは、交りが深くなると、自から解って来る。

次の日、楽器店を見たり、街をブラブラ見て歩いて居たが、これは盛り場でのこと。道行く多くのきらびやかに粧った人々を僅かに避けて道の側に、マンドリンを、独り奏でて居る街頭楽人があった。物好きで音楽の好きな私は、ツト寄り添って話をしかけた。その国を聞くと、イタリヤだとのことそれで先頃旅して通って来た許りのローマのことを懐かしく思出したので、オーソレミオや、そのほかイタリヤの民謡を弾いてくれと頼んだ。この人は、己が古里の唄を遠い異郷で弾くことを望まれて、嬉しかったのか、ニコニコしてうなずき、ウットリとして目を閉ぢて弾き初めた。道行く人々も、その騒しいザワめきも、彼と私とには何の障りも関りもなくなった。魂は共にイタリヤのあの緑あざやかな美しい空、海、山を馳け巡って居るのであった。

民謡は、その国の魂であり、楽の基である。とにかく、民謡はいい。シミジミと古里を懐しく思出させる。また、そこに旅した人々にも、たまらない懐しい思出でとなる。

その日の昼からは、名高い大英博物館を、独りで見に行ったが、思ったより小さな古い建物で、そこには隙間もない程、ゴチャゴチャと色々なものが詰って居る。そして、私にとっては、何の得る所もなかった。そして日本についての物が、極めて少いことに、気が引けた位のものであった。これは西欧のどこの博物館や美術館でもさうだった。だから、広く人々には、まだまだ日本の美術品のことなどは、知られて居ないのでないか。日本には芸術が無いようにさヘ思はせられる貧しいものしか飾られて居ないのは、口惜しい気がした。

その夜は、奥山さん、東奥さん等に、夕飯を差上げて、この前のお返しをし、色々と面白い話をして楽しかった。その後で、奥山さんと二人で夜の街をブラつき、次の日に見ることにしてある国際美術館の在り場を知らせてもらった。その近い所に、屋台店があってホットドッグを、おいしさうに湯気立てて売って居た。ふと味を見たくなって、買って食べると、何の味もなく少しもうまくない。金を払ふのに幾程かと云ふと、バカ高い。それで「高いぢゃないか」と云ふと「何を!!!」と来た。そして「一体、日本人は怪しからん。ビルマで、何も罪のない人々を、山と云ふ程殺して居る。わしは、長崎へも行った」等と、飛んでもない事を、Scotland訛りで、巻くし立てる。相手になるのも、バカバカしいと思ったが、からかって「お前の国の者は、インドで、何んの罪もない者達を、革命をなす反乱徒扱ひにして、街で機関銃を向け、その丸をバラバラふり撒いて、殺してるではないか」とやり返すと、すっかり詰って、「何を!!!」と叫ぶと共に、いきなり拳闘の右手で突いて来た。

私は思はず知らず左手で、彼奴の右手の逆を取って背中にねぢあげて居た。奴は、足をパタパタさせて悲鳴を挙げた。これは、ほんの目ばたきする間に行はれたので、奥山さんも、仲に入って止め立てする間がなく、ビックリして、後しざりし、ポカンとして居るのが目に写った。そこを通る人々は、よってたかって、これも驚いて口を開けて居るだけだ。さすがに彼奴は、きまり悪げにして、叫び声だけ止めて、顔をしかめたり、歪めたりして、いかにも苦しさうだった。

先づ、この位と思って弱り方を見て、もうかかって来る力ないと思った頃に突き放して、少し間合を取って、ジッと身構へした。将して、奴はスゴスゴと、黙って店のある所に帰って行った。それを良く見定めてから、私はふと身を飜して、奥山さんをうながして、素早い足取りで、その場を立ち去った。トンダ武勇伝を、ロンドンまで来て、やらかしたもんだ。しかし、この時に初めて、九ツの歳からやったのだが、柔道をやって居て良かったと思った。さうでないと、あごがブッ飛んだかも知れない。危い危い。っまらん、ヘラず口は敲くものでないと、しみじみ思った。

次の日は、朝から再び街々を歩き回って、ロンドンの様を見て歩いた。そしたらCzechoslovakiaの物を売っている店にぶつかり、そこでBlockflote(木笛)を見つけたので買ったのは、見つけ物だった。

この昼は、大阪の市会議員をして居る人に逢って昼飯を奢ってもらひ、色々と、この人が入って居る民社党の話やら、通って来たアメリカの話を聞いた。

それから、私は彼と別れて、国際美術館を見に出掛けた。しかし今まで見て来た国の物と殆んど同じく、何も得る所がなかったが、ただ一つ、Turnerの絵だけは心を打った。彼は、この国の印象派の祖と云はれて居るが、とにかく西欧で見た絵のうちで最も色取りの美しい、鮮かなものだった。それは目ざめるように爽かである。しかし、それは浮いたものでなく、地にピッたりと慎しまやかに付いて居る。それは英人の心である。英人の心の美しさをそのままに表はしたものだ。それは「庭の千草」や「ロンドンデーリー」の歌の気持に通ふ匂いがある。彼らがこのターナーを誇りとすることが、これで解る。帰りしなに、館を出る時に、受付けで売って居る絵葉書を買はうとして、女の人に「ターナーのを下さい」と云うと、心から嬉しさうにして、ニコニコして売って呉れた。こんな人々、国民の多くの人々が誇りとして、親しみ愛されて居ることは幸である。

日本では、もはや、まともな日本人が少なくなったから昔の絵などは、殆んど解らなくなってしまった。気品、神韵を第一として尊んだ絵などは、その気品とは何か、神韵とは何かと云ふことを、よその国の人にでも話すように、先づ解き明かさねばならぬ程、すっかり、心を攪き乱され、濁ってしまったからだ。

山に登った時の清々しい爽やかな気持、凛とした厳しさ、厳かな引き締った空気に触れた人、そして俗界を遥かに遠く引き離し、それを見下す大きな遙々とした眺めから来る気持、谷川のせせらぎも聞えないシーンとした物音一つしない山の静かな夜に、空高く仰ぎ見る天の河、この山の気品と神前とを、好んで描いた東洋画、日本画を、既に盲らになった日本人は、見れども見えず、聞けども聞えずだ。

西の国の人々が「東洋の神秘」と云って心から尊び、うやまい、あこがれて居る心、それを既に失ひ、それは地を払って居る。どのツラをさげて、彼等に対する積りだ。「塩もし、その味を失はば、地に棄てられん」だ。神参りし、水でもかぶって身を深め、「払ひ給へ、清め給へ」でもしてもらって、サッぱりして、出直して来いと、叫びたくなりつつ、怒に燃えて、雨のロンドン街を、やけ糞になって歩き回った。お蔭で道を間違へて、日航の事務所にようよう辿りついた。

その夜は、もと日本の学習院で英語を教えて居たOxford大学出の人に導かれて、道徳会の芝居を見に行くことにしてあった。その前に、この人や東郷さん達に、私が夕飯をあげて、この前に東郷さんからの夕飯のお返しをすることにしてあったのだ。その時に少し遅れてしまった。済まんことをしたが、それでも、どうにか間に合った。

芝居は、さして面白くもなかったが、連弾のピアノの音が、少しも金属性のあのいやな音を立てず、いとも柔かであるのは気持が、良かった。どうして、あんなに柔かで、金属性の音がしないのか、今だに、その事を音楽音響学の上から考へて居るが、未だハッキリしない。東洋楽では、金属音は刺戟音だから、火事の半鐘のように非常時音として、和を旨とする音楽には余り用ひない。この金属音を用ひるとしたら、それを和げなければ楽音にはならない。それが、このように和げられて居る。どうやって和げてあるか、解らないのである。日本製のピアノは、この点は全く未だダメだ。楽音になって居ない。このことは、ピアノ許りに限ったことではなく、オルガンでも、日本のは鈍い暗い重苦しい音色であって、清々しく明るい音色でない。清々しく、明るく、爽かで、和やかなこと、これが神性である。だから、教会でオルガンを使ふのである。そして、この気分、神性は、日本でも神参りした時に身に味はう気分である。つまり日本の人々の心の底に今は蓋はれて居る気持である。この気持は、前に述べた西欧人が、心から求めて居る気分なのだ。否、生きとし生ける物も、生命なき物も、求めて止まないものであることを知らねばならない。

そのことは、空高く駈り鳴く鳥の音、路ばたの草や石、そして夜の星々を見たら、自ら解ることである。

話は元に戻る。芝居が終った時に、支那のある将軍と云ふのが、舞台に上って話をした。彼も道徳会の一人だとのこと。芝居がいよいよハネて帰りしなに、彼に逢ったから、名刺を出して名乗って、「私も暫く支那に居た。あなたは、北一輝先生を知って居るか」と云ったが、余り良い顔をせず、そそくさと出て行かうとした。遠い異国で、同じ東洋人が出逢ったのだ。もう少し、打ち解けても宜しい筈。ところが、そうでない。少しも情を現はさない。これが支那人なのだ。支那人は、心に思ってることを、少も表てに出さうとしない。だから腹が解らないと、外国の人から言はれる。日本人にも、いくらか、この傾きがある。そこへ行くと、西欧人は、露はにこれを顔や身振りで出す。

また、支那人は、過ぎ去った幾千年前の文化の誇りを、今だに持って居て、外の国の人を見下げ軽んじて居るところがある。そして今を見ない。その為に文化が遅れてしまったのだ。このところは、余りに前のめりになって、新しい物のみ、やみくもに追馳けて突っ走しる日本と、良い比べ物になるだろう。そこは、やはり、故きを尋ねて新しきを知る確かな足取りが宜しいことは、云ふまでもない。

私は、またしても、こんなことを考えながら、伴の人と共に静かなロンドンの夜の街を歩いて、とある店に入って、コーヒーを呑みながら、色々と芝居のことを話し合った。道徳道徳と云って、人臭いこと許りに、とらわれずに、もっと自然、神を見つめることが要るとのことに、二人の話が行き着いた。私と話合った、このオックスフォード出の英国紳士は、話せる人だった。

しかし、英国では、オックスフォードやケンブリッヂの大学に入る人は、限られた極めて僅かの人である。と云ふのは、頭も良く体も良くなければならないが、何ンと月謝が年四五十万円かかる。その上に暮して行く金が掛るのだ。だから、余程、金のある人でないと、入れない。それで、これらの大学に入れない多くの人々は、それ程に、教へも、たしなみもない。そして日々の実のある仕事に走らざるを得ないのだ。そのことは、ロンドン人の思ひの外言葉の汚いことや、学の低いことで良く解る。日航の人に聞くと、飛行機に乗るような人でも、字の綴りを正しく書ける人は少いとのこと。以って、その外のことは知るべしだ。

こんなに人々の間で上と下との違ひが、今でも甚だしいのだから昔のことは尚更らのことだ。だから、マルクスは、この国で資本論を書かざるを得なかったことがよく解る。マルクスは、西欧人が、いやがり嫌ひ抜いて居るユダヤ人である。

その為もあって彼らの仲間は結び付きが堅く、従ってはかの民とは和まず、争ひ、乏しいものは等しく分ち合ふ。また、何よりも物金を重んずる。そして今のイスラエルでも解る通りに、全体主義社会主義たらざるを得ない《仲間構性》を持って居る。それに理屈をくっつけたのが、マルクスの資本論である。

昔は、イエス、今はマルクス、この二人のユダヤ人によって、幾千年もの間、そのシーソーゲームによって、世界はモミクチャにされて居ることは、まことに良い当てこすりだ。ユダヤ人の敵討ちに逢ってるのかも知れないと、私の親しいユダヤ人教授に話したことがある。すると彼は、しきりに「そうでないそうでない」と、手を振って居た。

しかし、私は先輩の新渡戸稲造先生にならって、幾度も幾度も繰返して、マルクスの資本論その他を見た。そして、新渡戸先生が、尚且つ、それでも武士道論を書かざるを得なかった心持が、思ひやられた。日本人として、それは当り前のことだ。と云ふのは、確かに、マルクスの言ふことは、真理の片側を言っては居るが、全てではない。このことは、今、目の当り世界が二つに分れて居ることでも、ハッキリ、その事が解るだろう。もし、誠に一足す一が二であるような真理だったら、世界の人々は悉く、何のイザコザも啓蒙も戦もなく、等しく、これを文句なく受入れるだろう。彼、ユダヤ人なるマルクスの言ふことは、或る学者らの云ふ如く、その全てを否むことは出来ないが、彼の言は、赤い動脈ではある。しかし、青い静脈が欠けて居るのだ。即ち、心和ぎ、自由がない、そして一より多へ、多より一への流れ、即ち全体と民主との間の流れ、心から物へ、物から心への流れ、上に立つのは民を主とし、下に立つものは君を主とする流れ、これらの二元の間の互の流れが、まるく行かなければならないのだ。即ち動脈と静脈との流れが、まどかに行はれなければ、その生けるものは滅ぶのである。これらの動脈、静脈の二元は、もともと一つの体の二元なのである。二面なのだ。互に相争ひ戦うべき筋合のものではないのだ。

頭の常に鈍い毛唐共は、原水爆という代物を、自然科学から突きつけられてから、初めて、ソロリソロリと、この円く融け合ふ向きに向って、いとも重たげに、み腰を挙げかかって居る。とにかく、彼らは目に物見せないと目覚めない理屈屋だから困る。

そして、何処かの国の気の小さい、物覚え許りうまく、人真似ばかり何時もして居る胆っ玉の小さい虫どもは、穴の中から目ばかりパチクリして、外の有様ばかり気にしてビクシャクしてござる。だらしがないこと、夥しい。

かつて凡ての外から入って来るガラクタを、心を大きくして受け入れ、強い歯で噛み砕いて、胃袋の足しにした逞しさは、もはやこの民にはないのか。ヅ体ばかり、ペンペン草か豆もやし見たいにヒョロヒョロ、ニョキニョキと高くなった若衆たちよ、お主たちは、オーッと叫んで起ちあがる勇ましい、大きな心があるかい!!!

もとより、毛唐といふ奴どもは、白兎と同じで寒帯に近い処に住んで居るので、物に乏しいせいもあるが、ケチで根性が汚ない。催かの物のやり取り、分前に文句を長々とつけて、独占めにするの、皆に平らに分けろの、なんのかんのと、さもしい卑しいことを、眼に角を立てて、ガナリ立て、取っ組合までやり、その果ては戦までやる。まことに物に卑しくさもしい。上の者は独り占めせず下の者に平らに共に産を分ってくれるべく、その為に下の者は、その上を枯らさぬように、本を資(タス)けるが宜しいのだ。即ち、かう云ったら目を回すかも知れぬが、とにかく上は共産を心とし、下は資本を心とすべきである。この大きなゆたかな心が、生まれつき小物の毛唐に持合せがなく、上下ともに常にガツガツしてるのだ。天を以って心とし、天孫民族であると称へた大者の、真似すべき事柄ではない。赤い日と青空を指す白地の旗、その天旗をこそかつぐべきで、赤のみ白のみをかつぐ源平合戦は、もう千年前に後戻りすることだ。私にとっては、子供のママゴトの奪合ひ見たいに見えて、をかしくて思わず吹き出さずに居れない。

とにかく、物の分前争ひをする卑しいことだけは止めて欲しいものだ。止めさせるべきだ。

その夜、宿に近い地下鉄の駅名の頭文字だけを覚えておいて、その長い名を詳しく手帳にでも書いておかなかったのが誤りで、駅に来て見ると、同じ頭文字のものが多く、そのうちのどれか、サッパリ解らない。仕方ないから、そのうちの二つ三つを、あてズッポーに行って見たが違ふ。そのうちに夜が更けて来て、地下鉄も仕舞になる。致し方なく、始の振出しに戻ることにして、日航の近くの駅に引っ帰した。駅を出る時、降りる者は、私たった一人だった。訳を話すと駅員は、気の毒さうにして、切符代も取らずにくれた。不文律を立て前として実際を主んずる英人は、飛行場の税関でも、こちらの言を重んじて手荷物など調べずに通す。この点、日本とは違ふ。凡て常識を以って取扱ふ。そしてムダな力を費すことを避ける。これが英国紳士と云はれる基だ。何事に当っても形や上べや、規り規りと言って、それだけで物事を取扱ふことは、どうかと思ふ。また規りがないと何をするか解らないような始末におへない民は禍である。何んでもかんでも己が勝手気儘をすることが、自由そのものと心得て居る民は禍である。

外は、またしても雨であった。しかし、ロンドンの雨は、疎らであるから傘をささなくても、それ程気にならない。いつでも皆、傘なしで男も女も歩いて居る。ことに、古めかしい山高帽に燕尾服で盛り場を多くの人が歩いて居る。それが商人だから驚き、且つは余りに時世を超ゑてゐるような気がして、吹き出したくなることもある。

この時は、もう夜更けだからさすがに誰一人歩く者もない。開いてゐるのは、ナイトクラブで、それも、たまにあるだけだ。私は電話をかける細かな金を持って居なかったので、ナイトクラブの前に立って居る若い見張りの者に、金を取り代へてくれと云ふと、ニコニコして取り代へてくれた。これで験しに日航に電話して見たが、応へがない。夜は更けて来るに従って寒くなって来た。もう十一月の半ばである。街をブラブラして夜を明かさうかと思ったが、何んとしても冷えが甚しい。もう三時だ。止むなく、近くに在った警察に飛込んで、訳をよく話すと、すっかり笑はれて、東郷さんの家の電話番号を探して呼び出してくれた。そして、やがて、わざわざこの夜更けに奥山君と二人で、車を飛ばして来てくれ、宿まで送ってくれた。

何とも申訳のないことをした。哲人は常に空を見て歩いて、穴にたたき落ちる。ザマを見ろだが、それだけでは済まされない。傍の人が、こんなに、いつも困らされ重荷を背負ふことになる。何んとかして、これを避けたいと兼々事細かに、心遣ひしても、こんなシクジリをやらかすことになる。どうにもならない。もっともっと心を細かに使はねばならない。長旅びになると、どうしても疲れて来て行届かなくなるなどと言って居られない。

ロンドンの警官は、皆トテツもない大男だ。大鵬よりも大きな二メートルもある化物のやうな大男だけが、特に選ばれて成って居る。だから、マゴマゴすると、ヒョイと首根ッ子を、いとも軽々と、つまんで、アッサリ片付けられる。しかし、何も悪い事をしない当り前への人には、極めて優しく親しみ深くニコニコしてあしらってくれる。

それが、真冬の凍る夜半でも町々の角に、十人一組ぐらいになって立って居る。何かしら無気味な気がするが、それは、町巡りをして来ては、そこに集って、主立った人に告げて居る姿なのだ。

その町巡りの仕方が、わが国と少し違ふ。各々の家を、残らず戸締りを厳しく見て歩く。つまり、扉の取手を回して見たり、窓を押し上げたり、アパート等も、各室の戸締を同じやうにして調べて回る。少しでも盗人の入る隙がないかと気を配り、その後で、各々の家の前に、改めて立ち直って、二階三階と見上げては、ジット聞き耳を立てて、何か変ったことでも起きて居はしないかと、物凄い顔して、暫らく見守って居る。

かうやって家々を巡り歩いて、もし戸締りその他の事で手抜かりをして居たら、おしまいだ。すぐに寝て居るのを、たたき起される。その上に、次の日には警察署にまで呼び出され、サンザン大眼玉を食ひ、油をシコタマしぼられた上に、始末書まで書かされ、かてて加へえて目の玉の飛び出る程の罰金を仰せつかる。

だから、各家とも、夜、寝しなの戸締りは、例のきまじめな顔々が、凄い目付きしてやって居る。

しかしだ。こんな厳しい取り締りをしたら、わが国では、はたして、何んと云ふだらう。

むやみと、人と張り合ひ、何かと云ふとすぐに尖り、タテついてカッとなり、ブツかって来る今の人々は、何をしでかすか、解ったものではない。恐らく気が狂ったように噛みつくかも知れない。危ない危ない。

さて日航の奥山さんは、私と同じ山形の出である。次の日の日曜を幸として、色々な所へ連れて行ってくれるとのこと。先づWindsor城のある所まで行って見ようと云ふ。

冬雨の侘しくそぼ降るロンドンの町はづれのバスのなか。ひなびた人々の身なりも、あたりの冬枯れの眺めによく似合って、凡てがシッとりと落ちついて居る。誰れも話声をあげる程の者もない。

すると、入口の扉近くに立って、乗って居る人々に背を向け、後向きになって居た、かなりの年の男の車掌が、外の雨を眺めながら後ろ手をして居て、聞えるか聞えない位の静かな低い微かな声で、この国の民謡を独り口ずさんで居た。

その近くに坐って居た私は、この凡てがなごやかで、シッとりした気分のうちに、ひたされ、すっかり溶かされて、何んとも言へない良い心持になり、うっとりとして、ともすれば、旅の疲れもおあってウトウトと眠くなるのであった。

やがて、ウヰンザー城のあるささやかな田舎町に着いたが、もう昼である。奥山さんと二人で、昼飯をたべに店に入った。ところが古めかしい暖炉で石炭が赤々と焔をあげて燃えて居る。まことに英国の昔のことが偲ばれて幽しい思ひがした。英国では、古い物が、そのままに残され、そして滑らかに新しい物が、これに続けられて居て、時の流の深さ永さを、目の当り見せしめられる。

ウヰンザー城が、昔のままに残されて居るのも、その証しである。私たちは、昼飯を終ると、この店を出て、城を見に行った。しかし疲れて居るので広い城のなかを、アチコチと歩き回わることは止めて、入口に近い所に建って居る王城の教会に入った。そこは昔の教会堂であって、薄暗く、そして間取りや飾りが、いかにも王室のもののように、重々しく奢りを極めたものであった。それらの凡ての建物は、京都御所や伊勢神宮のような至って飾り気のない直ぐなものではない。これによっても、ある逆しらごとのみに従ひ、あらぬ恨みの怒りの焔に燃える学徒らは考へるが良い。日本の宮々は、血を搾り取ることによってのみ、出来上ったのではないことを。そして、Einstein博士やブルーノタウト博士らが、日本の大宮所の奢りなきことを、心からほめたたへたことを。その宮々は、山村にある祠と同じに、心からなる民の贈り物であることを、素直に認めるべきだ。まっ直ぐに、素直に物事を受け取り見る、これが日本人の昔からの心である。とかく虐げられた者は、根性がひねくれて居て曲がって、ひねって、タメツ、スガ目つしてみる見方ばかりする。如何なることにも、心めげずに男らしく、まともからブッかって来い。ことに素直で、そして雄々しくあれよ、若人らよ!!!

さて、私は城を調べる為に、わざわざここまで来たのではない。ウヰーンの時と同じに、ロンドンの町を離れた所にある農家を見に来たのである。城を、そこそこにして出て、街角に立って近くの農家を見ようとして、人々に尋ねて見たが、farmerの発音が、どうしても人々に解ってもらへない。これは後で解ったことだがfaのaを私は、余りにハッキリaと出して居たからだった。このaは、極めて軽い音だった。私たちは、Oxfordを出た先生から、ことにやかましく発音のことを、北大予科で一年間も、そればかり習ったので、他の言葉では、それ程解ってもらえない言葉はなかったが、このfarmerの発音だけには参った。ことに、それが農科出の私なのだから、全く生命とりだ。

人は、とてつもないことで、思はぬシクジリを為るものだ。とにかく、その時は、全く参って、あせっても致し方ないから聞くことを止めて、勝手に歩き出して探すことにした。

しかし、アチコチと行けども行けども農家がない。初冬の短い日は暮れかかって来る。仕方がないから、車に乗って、ロンドンに引き返すことにした。ところが、おかしなことには、今度の道は前の表道と違って裏道を通って、ロンドンに帰る道だった。それで道の中程まで来ると、山ほど農家があり、農家の中を通って行くのであった。私を連れて行って呉れた奥山さんも初めての道なので、凡て良く解らずに連れ回わった訳だ。ノン気な人だ。しかし、車のなかからでも農家を見れたのは幸いであった。ロンドンの野菜の大方はDenmarkやNetherlandsそのほかから来るので、ここらの農家は大方、花作りを主にしてるようだった。菊の大きな花が、色々と育てられて居る、それが目立って見えた。土は、ひどく悪いボロボロの赤ちゃけた泥砂土である。だから、麦や野菜を作っても禄なものは出来ないのだ。それに、雨や曇りが多く、光射しが足りないから、尚更らのことだ。こんな食物の出来ず足りない所では、人々は商人か工人にでもなるほかはない。商工による国は、コツコツとまめに仂かねば、やって行けない。そして凡ての上べの形恰や、飾りなどを気にして居たのでは、ダメだ。まじめに、セッセと真黒になって仂くほかはない。さうでないと長続きせず滅んでしまふ。英国人の着て居る物、身なりを見れば、日本人より遙かに悪い。今の日本の勤め人とは、比べものにならない。

しかし、飾りピアノを置き、ゴルフ道具を入口に掛け、さして用もないのに忙がしい忙がしいと飛行機で駈けずり回り、仕事は凡て下任せ、己れは、誰が本物、誰が偽物と古道具屋張りの人の目利話しで時を過し、子供は抛りッ放し、夜は眠れぬの何んのと棚は薬だらけこんな時の流れ許りに乗って居る行き方も宜しいかも知れない。どうせ、こんな泡ブクは、大風が吹けば吹っ飛んでしまう代物だ。

夕闇のロンドンに帰り、急いでBuckingham宮殿を眺め、Westminster寺院に入った。この建物は、思ったより小さいものだった。しかし、さすがに古めかしく、凡てが暗い灰色に閉されて居て重苦しい。これはこの国の空と土とに合って居るのかも知れない。折から、Pipe=Organ(管風琴)の音が、辺りの壁に木魂しつつ鳴り響いて来た。その音の波は、ヒタヒタと肌に押しよせ、毛穴から入って来る。そして、体がジーンと溶かされて行く。基督教聖公会の気持も、この本場の気持を味ふこと、そしてその神を讃へる歌も亦ここで味ふのが、やはり、いいのだと云ふ気がした。

ここを出て、ロンドン塔に向った。しかし、厳めしく暗い、この城は、もはや外から眺めるだけで、惜しいことには中に入って見れなかった。時が時で、遅過ぎたからだ。

それで、グルリと城の回わりを歩いて回り、近くのThames川を渡って見た。冬雨に濡れたこの川の眺めは、ひとしほであった。ここの橋は、下を船が通る時は、釣上げられるようになって居ることとは、既に名高い。しかし、川水は、ここのも濁って居る。

明日は、もはや、この地を去ることになって居る。深い思ひに沈みながら、ジット立って、暫し川面に見入った。

奥山さんに、うながされ、我れに還って、車に乗り、日航事務所に引かへし、夕飯を支那料理屋でとることにした。初めに行った店では、食べたいものだけ食べさせず、ほかの物も取らなければならないと云う嫌やな仕組になって居たので、そこを出て、ほかの店に行って食べた。日本と同じに、西欧には何処にでも支那料理屋がある。そして多くのその国の人々が入って食べて居る。油っこくて、彼等、北の寒い所の人々には向くのだらう。

そこを出て、再び日航事務所に行き、奥山さんに、今までの数々の心深いもてなし、扱ひに向って、いささかの御返しとして、絵を贈って、別れを告げた。

その前に、明日立つことに就いて、東郷さんから色々と飛行機の手続をして頂いた。これも、奥山さんを通して、厚く言葉を取次いでもらうよう頼んだ。

私が、心から良い気持で日を過し、最もこの国の人々を好ましく思ふようにさせて下すったのは、ひとえにこの二人の方のせいである。このことは、私が世を終るまで忘れないだらう。

翌朝早く、同じ家に泊って居る日航の人の車に乗せて頂いて飛行場に行き、パリに向って飛び立った。

Paris

ベルリンの田中ミチ子さんから頼まれて持って来た重い楽譜の束がある。それは、ユネスコの或る男あての物だ。この男に、飛行場まで来るよう、前以って奥山さんに頼んで、パリの日航、大使館を通してテレタイプしてあるのに来ない。困った奴だ。

私はAirFrances機で行ったので、日航の人は言ふまでもなく誰一人として顔を見せない。困ったことになったと思って居ると、たまたまエア・フランスの日本の人が出口の所に居た。この人は、気のいい江戸っ子で、わざわざ宿まで送って呉れた。乗合車がないから、宿までタクシーだ。宿に着いたので、ねぎらひとして、コーヒーを飲んだら、バカ高い金をとられた。これらのことで、初っからパリには、いい気持を持てなかった。

荷物を置いて、ただ一人で、Louvre美術館を歩いて見に行った。すると、背の小さい日本の女の人が、これもためつすがめつして絵を見て居るのに、出っくはした。それで、ツとそばに寄って話しかけると、北大出の亡くなった篠原と云ふ後輩の奥さんで、今、長崎大の先生をして居り、こちらに留学に来て、大使館に勤めて学資を得て居るとの事だった。まことに気の良い真面目さうな人なので、この人と共に、色々絵についての話をしながら見て回った。

昔しから名高い色々の絵、それは絵画史に載って居るものを、今、この目でそれを見るのである。しかし、凡てが思って居た程でないので、むしろガッかりした。Milletの「落穂拾ひ」、「晩鐘」、「春」なども、彩りも、それ程でなく、心に迫るものがない。しかし、そのなかで、ただ一つ、Leonardo da VinciのMonna Lisaだけには、強く心を引き付けられた。その崇かさ、気品、神秘さは凄いものだった。しかし、その空の緑、髪その外の濃い赤紫、顔の色などは、皆、東洋的な色であった。

だからこそ、神秘的な色であることが解った。その構図、言ひ知れぬ妙へなるほほ笑みも、ありのままで露はである西の国の人々の笑には、まれである。私が、ロンドンで道を聞いた若く美しい女の人が、その教へてくれた道筋が私に解ったらうか、どうかと思ってしとやかにニンマリした時に、これと全く同じ顔つきをしたので、ハッとして、ジッと見入ったことがある。造園学を専らやって、その基として、速見御舟の数へ子について、本格的に東洋画を習った私の、この見る目は、恐らく狂ひがないだらう。とにかく、この絵は≪東洋の神秘≫である。このことは、敢へて手前味噌ではないと思ふ。だからこそ、西の国に少いので、余計に心引かれ、そして讃へられて居るのでなからうか。

凡ての芸術は、東から西へと伝はって、それが、新らしく装はれた。そして科学も宗教もさうだ。新渡戸先生は、それらが東に還って来て、そして練り直され、再び西に伝へられるべきだ、そして、この時こそ真に、この地上が救はれる時だと言はれた。

私は、さうあって欲しいと心から神に祈る。私は、こんなことも篠原さんに話しながら、そこを出て、次は近代美術館を見に入った。ルーブルは日曜は入場料をとらないが、ここは取る。ここでは、Picasso,ドラン、ブラックの絵や、抽象派のものを見た。抽象派の絵は造園にも響いて来て居るが、これは真の抽象ではないような気がする。それはバラバラに分解された心の痛手であり、今の世の人々の心であると思ふ。これは、Schizothymの持主の集りのように考へられて仕様がないが、いったいどんなもんだらうか。芸術は、凡ての人々に解るもの、そして楽しくさせるものであって欲しいものだ。ある僅かな限られて居る人々にだけ解り、それを楽しませることにのみ、芸術家は骨折ってはならないと思ふ。皆のお蔭を蒙って生きて居るからだ。

近代美術館を、そこそこにして出た。篠原さんの話では、もっと安い良い宿があるとのことで、そこに、わざわざ伴って行って掛合ってくれた。それで前の宿に引きかへして出る話をすると、僅かに三時間荷物を預ったきりで、未だ室にも行って見ないのに、どうしても一日分の宿料をよこせと言ってきかない。何としても埒が明かないので、そんなら一夜だけ泊ることにしようと云って、その夜はヂャンヂャン湯を思ふさま使って風呂に入り、グッすり眠った。そして、朝早く、わざわざ迎へに来てくれた篠原さんに荷物を持ってもらって、金を払って出ることにした。しかし、余りのことに、気を悪くした私は、紙切れにフランス語で「王様のような取扱ひをされた。間抜!!!」と書いて、帳場の男の奴に渡して、スーッと外に出た。すると、そ奴が、後を追っ駈けて来て「間抜!!!」だけは日本語のままローマ字で書いたのを、篠原さんに示して、「これは何か」と怒って尋ねて居た。篠原さんは、暫く首をかしげて考へ込んで居たが「どうも、解らない」と答へた。すると「警察に訴へる」などと、飛んでもない事をぬかす。それで、たまりかねて、町に響くような大声あげて「バカ野郎!!!」と、どなりつけ、柔道の身構へをした。すると、この野郎は、文字通りに、上に飛び上がってビックリし、後をも見ずに、一さんに逃げ走り去った。ザマ見ろと許り、二人はゆっくりゆっくり歩いて、昨日話しておいた宿に向った。どうして「あの言葉が、解らなかったのか」と、道々篠原さんに尋ねると「私はあんなフランス語は、知らない」と、真顔になって答へる。思はず私はプーッと吹き出した。真面目そのものの、この人は、ローマ字で書いてあったので、フランス語だと許り思ひ込んで、フランス読みに読んで居たのであった。ようよう解って、笑ひ出し「これでは私まで間抜けの類ひだ」と云ひ、二人で大笑しながら、新しい宿に入った。荷物を預けたまま、外に出て、Versailles宮殿を見に行くことにした。

地下鉄に乗る為に、そのコンクリートの潜り道を行くと、冷い床に坐って盲の楽人が、ギターを弾いて居る。またしても、話かけると、生粋のフランス人で、戦の為めに盲になったのだと云ふ。顔のアザから見て、さうかも知れない。それで、私は日本人だ、どうかフランス国歌を、やってくれと頼むと、彼はニコッとして、キッとなり、頻をほんのりと赤らめ口を強くつむりながら、勇ましい調子で、ギターを弾き出した。恐らく、彼が戦の場で、突撃した時のことを、心に描きながら弾いて居るのかも知れない。さすがに、道行く人の足取りも正しくなり、緊った気分が、あたりに漂ふのを覚えた。私はホロリとした。

私は、華やかな舞台の上で、タキシードを着込んで唄ふ作りごとの芸術なるものを余り好まない。月夜の山の笙の音、嵐の中の尺八の響、かう云った大自然の中における楽を、その大自然と共に味ふことの方がより好きだ。地下鉄でヴェルサイユ宮殿のある所に行き、それを見た。名高い鏡の間を初めとして、そのほかの室が、余りにゴテゴテした虚しい飾りに満ち満ちて居るのに、ホトホトあきれかへって、ウンザリした。余りに、子供だましで馬鹿気て居る。秦の始皇帝の造った阿房宮といふのが、恐らくこんなアホーなものだったに違いない。

これを作る為に、パリの人々は明日食ふパンもなくなり、そのことを訴へると、王妃のMarie Antoinetteは、「パンがないなら、お菓子を食べたらいい」と答へたので、たまりかねた人たちは怒りに燃えて、この女をguillotineにかけたと云ふ。その刑き場に行く道で、人々からいくら罵られても、顔色一つ変へず、彼等を侮り切った顔をして冷やかに流し目をして居たとのこと。

このように、上に立つものが、余りに道ならぬことをするから、革命が起きるのだ。

ところが、篠原さんから聞くと、今もフランスの貴族は同じだと云ふ。篠原さんが、フランス料理の研究をして居るので、ある貴族の邸に手伝ひに行くと、そこの夫人は、マリ・アントワネットの血を引き、ある若いカトリックの神父を色男にして、邸が広いので、彼を泊めて乳くり合ひ、夫の子爵は、これまた色女を引き入れて泊めて居り、その乱れただれ腐れ切った臭ひが鼻をつく許り。そこの夕飯に招かれて、ド・ゴールがよく来るとのこと。

たまりかねた篠原さんは、息抜きに南のPyrennes山脈の方に旅した。そして国に帰える時のみやげとして、古い値の高いブドー酒と、持って行った日本の真珠とを取り代へて、幾本かのブドー酒を持って帰った。すると、その崩れた夫人は、無理やりに、その二三本を、しつこく言ひ迫って、しかもタダで巻き上げたと云ふ。

そのほかに、いとまをして、昼過ぎに、この邸を出ようとするとそれまで居た幾日分かの手間の外に、その日の分としてカッキリ半日分を出したきりで、何のこともなかったとのこと。手間も、見習ひ手伝ひだったので、並の十分の一にも当らぬものだった。向ふでは、ド・ゴールが、わざわざ呼んで、褒めた程、料理がうまかったし、金がかからないので、もっともっと居てくれと、繰り返し繰り返ししつこく頼まれたが、身震ひする程、いやになって居たので、サッサと引き上げて、再び大使館に戻ったとのこと。

これが、フランスなのだ。私は言ふべき言葉がない。それで日本を出る時に頼まれたド・ゴール宛の大きな人形も、奉ることなどはホトホトいやになって、勝手に独り決めで、またまた荷物のなかに仕舞ひ込んで、持ち帰ることにした。お蔭で、この人形は私と共に西欧を見て、日本に安らかに戻ることになり、今は愛する教へ子の世界的マイクロ波の権威の押本愛之助工学博士の居間で、ニコニコして居る。

さて話は前に戻るが、ヴェルサイユ宮殿の庭は造園学上、かなり名高いものだが、目の当り見ると何のこともなく、従って何の得る所もない。中学生が、三角定規やブン回しで、色々勝手なイタヅラをしたような、たわいのないものに、私は何の心も引かれなかった。私にとっては、頭の先だけで、あれこれと、こね回し、こづき上げる西欧芸術の迷路は、もう沢山だ。

ヴェルサイユから帰り、篠原さんの言葉によって、百貨店で毛糸を子供と妻の見やげに買った。フランスでは、何も買ふ程の物はないのだ。ただ、太糸の毛糸だけは、日本で買ふとバカ高く、編上ったものは、一つ一万円だから、これだけは、こちらで、安い糸だけ買って行くと宜しいとのこと。今まで何一つ見やげらしい物を買って居ないので、これを買ふことにした訳だ。わびしい旅だ。

次の日は、NotreDameの院に行ったSeine河の畔に、静かに古めかしく建って居る。この河も、冬だと云ふのに真黒に濁って居る。造園を専門とする私にとっては、自然についての目が、なれっこになって居るせいか、ここ許りでなく西欧の自然や建物については、何も心を引かれるものはなかった。西欧ばかりでなく、この旅で経て来たアジヤの国々でも、さうだった。従って持って行った写真機に心を入れて写す気にもなれなかった。凡ての物、その物よりも《心》が美しい。

ノートル・ダムの寺院の、石床は八百年の靴ずれの為に、窪んで居た。ステンドグラスの仄かな光のなかで、灰色一色に塗りつぶされたなかで、悲しい葬が、行はれて居た。そしてパイプオルガンの音が、あたりに立こめる香の煙のゆらぎに交って、鳴り響いて居た。

厳かで、ほのぼのとした神への祈の楽、その《祈りの楽》が、西欧の楽の基である。私は、この身を持って、身を浸し切って、このことを身に覚えたのである。それは、やはり環境と共なるものであって、西欧の地を抜きにしては得られない気持である。芸術は凡て人と環境から離し得られないものだ。

彼ら西の人々の心は、神への祈り、神への賛へであって、神とは遠い遠い隔りがある。

これに比べて、我らのは、神の内にあり、神と共に喜びえらぐところの身近かにあるものである。「神、我れに在り、我れ神にある」ことを、身を以って行はんとするものが、東である。

この大きな東の救ひの使命は、今、既に忘れ果てられ、埋れてしまってゐる。ヨハネ黙示録に予言された言葉を、真事にする日は、いつの時か。《光は、東より》の言葉よ!!!生きよ!!!

私は、ここの掛りの人から、ようようこの国の作曲家で名高いMessiaenの居所を聞くことが出来た。これは大使館に問合せても「色々探したが解らない」とのことだった。何んでもないことでそれに音大(コンセルワトワール)に聞けば、直ぐに解ることだ。大使館は政治とは関りあるが、文化とは何の関りも持たぬものであるまいが、代議士や高官への、お仕へに忙しいので、文化にまでは手が回らぬらしい。

フランスの牡蠣料理が、名高いので食べようとしたが、高い許り高くて、少しもうまくないとのことで、パンと鮫の子の数子の缶詰を買って来て、宿で昼飯にした。フランスパンフランスパンと云って日本では騒ぐが、味はそんなに変らない。一と切れを日本まで持帰って、人々に食べさせて見たら、やはり、同じことを言って居た。大方、昔、まだ日本のが、今程にならぬ頃には、さう思ったのだらう。

それから、電話で、明日朝八時に音大で逢ふとの打合せを、メシアンとして、その昼の一時に飛行機で、いよいよ日本に帰る手続をしに、日航事務所へ行った。なかなか解りにくい所にあるので、探すに骨が折れた。

予め知らされて居た島村さんと云ふ人に逢って、宿その外のことで色々とひどい目に、出喰はしたことを話したら、いい人で、日航の手落ちの為が多いことを解ってくれて、色々と償ひのことをしてくれた。心から有難く思った。

それから、名高い凱旋門やChamps-Elyseesの通りを、ブラブラ見て歩いた。シャンゼリゼーは、人の歩く所が、日本の幾倍もあって広く、車の通る道の方が、むしろ狭く見えた位。その事が目立った丈で、軒並の店は、それまで見て来たものと、余り変った所がない。やはり、来て見れば噂ほどでもない。

宿に帰って、例の楽譜を早く渡さねばならんことを考へ電話したが、会議中とのこと。たまりかねて、夜遅く十時過ぎに、また電話すると、只今、飯を食べて居るから、後程伺ふとのこと。ジリジリして来たが、こらへた。この人が勤め人だからと思って、ワザワザ日曜を選んで、ロンドンを無理して出たのだ。それに大使館を通して、既に幾度となく話してあるのに、ウンともスンとも言はぬ。おまけに、私が明日帰ることが解って居るのに、まだ放ったらかしだ。どうせ、ユネスコあたりに居ながら、作曲などして居る男だから、パリ気分で、すっかりタガが弛んでる男に違いない。この作曲も、田中ミチ子さんを通して、ドイツでやってもらいたかったのだが、テンで物にならんので、私に持って行って返してくれとの事だった。変に前衛がかったものだとのこと。私は拡げて見もしないから、よく解らない。

とにかく、えらい荷厄介なものを、ひき受けたものだと悔いても後の祭り。私は明日朝八時にメシアンに逢ふので、疲れ切って居る体を、早く休めたい。ジリジリしてゐると、十二時近くになって、やっと、その男が来た。そして、有難うとの言葉一つ述べずに、サッサと帰らうとした。ところが、日本の女を一人連れて来て居た。こ奴が、室に入って来るのに、オーバーを着、帽子を冠ったままで頭もさげずに、ツッ立って居る。オーバー着たままなことは、男も同じ、頭さげないのも同じ。

ドイツや、イギリス、そのほかの国で、礼儀正しくされて、それになれ切って居た私は、フランスに来てからの、いやな事ばかりに気を詰らせて居たせいもあり、たまりかねて「バカ野郎!!!」と、イキなり大声で怒鳴りつけてしまった。

あはてた二人は、蜘蛛の子を散らすように背中を丸くして、家を飛び出して、通りを一さんに走って逃げ去った。重い荷物も、これで片付いて、セイセイした。すぐに、寝床にもぐり込み、グーグー眠った。

明る日、早く起き、車で音大に駆付けてメシアンを待って居た。八時は愚か、九時になっても、彼は姿を現さない。やっと来たと思ったら、サッサと教室に入って行って講義を始めた。そして、三時間たって十二時になっても、それを止めない。私は、まだジリジリして来た。もうあと一時間の後には、飛行機に乗らねばならない。止むなく彼を呼出して、仕方ないから持って行ったテープを凡て渡し、講演の原稿を渡して、代りを頼んだ。その礼として、絵そのほかの物を、とにかく忍んで与へた。物を貰うと、チョッと有難いような顔しただけ。

彼は、鳥の鳴き声など許り調べて居る男だから、変った男だとは思って居たが、やはり、鳥仲間で、人の声は余り解り兼ねるらしいとのこと。そして、後で聞くと三時間も、今か今かと思って待たせられたのは、私ばかりでなく、野村良雄芸大教授も、さうだったとのこと。後で日本に帰ってから、二人で大笑ひした。

しかし、この時も、メシアンに、危うく例の三度目の「馬鹿野郎!!!」を、どなりたくなったが、日本音楽の為と思って、下腹に力を入れて、こらえた。

島村さんが、頼んで下すった車の運転手は、飛行場に行く時間が遅れるので、これまたジリジリして待って居てくれた。私の顔見るとホッとした様をした。フランスで、ただ一つの、誠心を見たような気がして、私はすっかり気持をよくした。宿により――この宿では始めの言葉通りの泊り代でなく、倍近く高い値で、全くウソをつくのがフランス人だとの事を知らされた。掛合っても埒明かない。急ぐので、そこそこにして、日航事務所に駆けつけると、何んと、夕方まで飛行機の立つのが延びたとのこと。仕方なく、事務所の待合で、時を待った。

そして、再び先程の車に乗せられ、飛行場に行った。少し多く、手当てを運転手にやったらニコニコして居た。そして電話で、大使館に電話し、篠原さんに厚く礼を述べ、そしてユネスコの男に、日航に償ひ金を出させてくれと頼んだ。

荷物は、重かったので、飛行便だと一万円より上かかるのだ。だから、その分を、日航に彼が出せば、私が色々日航から世話になったのも、幾分かの償にもなると云ふ虫のいい話だ。しかし、彼奴は果して金を出したかどうかは、未だ島村さんから聞かない。

飛行機は、夕闇に包まれた、思い出悪いパリを下に見て、北の極を目指して飛び立った。

榛原さんや島村さんが居なかったら、私はただ一人きりで、或は殺されたかも知れない???。とにかく、フランス語は少しは読めるが片言しかシャベれない私だ。だから、それが英語も独語も解らない誇り高くして、そして悪の華咲くパリに乗込むことは、危いのであった。先づ、生命に障りなく帰れたのは、倖だったかも知れない。

Copenhagen

飛行機は、北極を通って、まっすぐ日本に帰る筈だった。所が、北極は烈しい冬の風が吹き荒れて居た。それで飛行機は前に進むことが危くなり、コペンハーゲンに立寄ったまま、ここで一夜を明かさねばならなくなった。

お蔭で私たちは、ここの町を見ることが出来た。古めかしい街々を通って、宿に着いたが、この宿は二十何階かの新しいものだった。食堂は、珍しくも、日本の格子や障子、壁間などの様の美しい所を採入れられて居て、然も気が利いて居り、灰抜けして居た。建築においても、西洋の真似ばかりして居る日本にとって、良い見せしめとなる。日本は、いつの世でも幅広く、押しよせてくる文化を採入れて、それを良く噛み砕いて、良い所だけを採って用ひた。然るに、今は心に於いても、物においても、凡て己を棄てて、鵜呑みにし、その奴隷になってしまった。

この宿の各々の室の寝床は、壁に巻き上げられるようになって居た。それで常々は広く室を使へるのだった。そして、何んとなく無様な汚れた気持が湧かない。これは良いことだと思った。日本の列車では、これを行って居るが、宿でこれを使って居る所は、余り見ない。

私は、造園をやったので、建築のことについても一通り学んだ。そして西の国々を歩き回って、出来るだけ、気を付けて見て歩いたが、これはと云って目星しい物はなかった。そして恩師前川博士が申された通り、そこで暮して見ると、ただただ次々と不便さを身にしみて覚えさせられるだけだった。

明る朝、飛行場に行く車のなかから、街々の様を見た。すると、四辻に大きな時計が、殆んどあるのが、目についた。それから街を離れて、飛行場に行くまでの間の田舎道から見ると、あたりの畑の土が、これまで通って来た国々と違って色が深く、有機質に富んで居ることが珍しかった。さすがにDenmarkだと思った。従って、ここからは、良い麦や野菜が出るし、人々も地について、しっとりと落ち付いて居るよう、心なしか思はれた。天地と、ピッたり付いて居る人、それは農漁村の民であらう。そして、日本は今、この自然を離れる向きにのみ力を専ら注いで居る。これのみが、生きる道だと心得て居るようだ。不作や不景気が、必ず、この世に来ないものなのだらうか。

飛行機が、飛立つ時まで待って居る間に、ある大阪の会社員が、日航の掛りの人をつかまへて「こんなにして、日本に着くことが一日遅れたので商ひに差支へが出来た。その償ひを、どうして呉れるか」と、口ぎたなく掛合って居た。私は、大阪人のエゲツなさに、身震いした。そして「その金は、北風が払ふから、彼氏に掛合ひ給へ」と、危く叫びかけて止めた。日航の人は、くどくどと話して、あやまって居たのは、気の毒だった。

これは、パリで聞いた話だが、日本の女の留学生と称へるものが同じ寮に多く居るが、そのうちポツリポツリと姿を消す。そして、いつの間にか、夜の街角に立って居るとのこと。物の値が高いので、僅かの留学費ではどうにもならない。それで夜、淫をひさいで金を得て生きねばならない。彼女らは、かうやって、口をぬぐって、フランス帰りとして華かに日本に帰って来るのだ。

そして、しかも昼ひなか、私の目の前で、この商談をフランス人として、肩を抱かれながら、あらぬ宿に入って行く、日本女を見て怒りと悲しみとに気が狂はん許りだった。金、金、金、それが人の世の凡てか。

若い人々よ。君等の母、姉、妹が、このように、汚されて行くことに向って、怒りと悲しみとに打ち震へないか。

私は、日本に帰って来て、直ちに、この事を、参院自民党予算委員長をして居られる湯沢三千男氏に訴へた。物の奴隷となった日本は滅びるだろう。自然を失なった日本は滅びるだらうと。

そして、コペンハーゲンまで来て、再び、物の奴隷を、ここに見たのである。言葉なしだ。

やがて、飛行機は飛立って、昼であるのに真暗になって行く、冬の北極の真上を通って行く。この機のなかで、ある男と話した。彼は外国語は少しも話せない。そして和装した妻を連れ、外国語を少し話せる秘書を伴って居た。彼の為に、日航の人々も大使館の人々も、山ほどの見やげのトランクを、いくつも持って、恭々しく、かしづいて居た。やはり物の王様である。彼は秋田弁で「日本は五百年遅れてマシネ。君、スッカリ、ス給へ!!!」と、事もあらうに私に向って叫んだ。私は、だまって、この男の顔を睨みつけたら、下を向いて居た。こんなバカは、一升瓶に一斗の水を入れようとするに等しく、下手に注ぐと爆発して、粉々になるから、物を言ってもムダだ。バカはバカなりに、使ひ道があるかも知れん。

それから中央大学の法学部長の朝川伸夫教授と色々な話をして面白かった。私が、今の民法の家族破壊主義は、米ソの日本を滅さんとする為のもので、けしからん。人もし精神分裂に陥ったら、それはもはや、当り前の人として扱へない。それは家でも国でも同じだ。統一が要ると述べたら、同じ考へだと言って居たので大いに意を強くした。それからドイツの話に移ったら、朝川教授がドイツ人が敵となった国の者に向って、Kriege gewonnen, Friede verlorenとあてこすりを言って居るのは面白いと云って笑って居た。

Anchorageから日本へ

飛行機は乗る人が少ないので横になって眠ると、次の朝早く、AlaskaのAnchorageに着いた。雪で寒かった。暫く、ここで休んで、まっすぐ、Aleutian列島を下に見て、美しい緑の海と、日の光に目覚める心持して、日本に帰り着いた。思へばアルプスを越してから五十日近くを経て、始めて日の光を仰いだのである。まことに、日本は日の国であった。

羽田に着くと、税関では、私にタイプライターの蓋まで開けさせて調べる。その上に無理に閉ぢたので、機械を毀された。そんなことには、蛙のツラに水だ。そのくせ、前に述べた物の王様のトランクは、調べもせずに、傍を幾つも幾つもスイスイと通って行く。これを見て見ぬふりして居るのが、日本の御役人様根性と云ふ奴だ。小魚は引っかけ、大魚は網を乗り越ゑて逃れる。これは昔からの悪い根性で、今だに直って居ないたちの一つだ。

愛弟子の押本博士、上垣侯鳥画伯、妻らのニコニコして迎へてくれたのに逢って、ホッとして二ヶ月の旅の疲れが、一時に出たようにグッたりした。やはり、その間はひどく気を張って居たことが解った。

次女が盲腸の手術で入院して居る由、そして、私が疲れて帰って来るだらうから、病院に来ずに、ユックリ家に帰って眠るようにと言って居たとのこと。ホロリとした。

押本工博が自ら動かしてくれる車に労はって乗せてくれた。道半ばで、車を止めてもらひ、湯沢三千男氏に、只今何事もなく安らかに帰ったことを申し上げて、再び車で川崎まで行き、そこから電車で、上垣画伯や妻に伴はれて家に帰り着いて、グーグー二日の間眠りこけた。

そして起上って、湯沢三千男氏の邸に伺ひ、世話になった石油王の出光佐三氏の所にフランスから持って来た葡萄酒をみやげにして共に行って頂いた。その帰りに「何が食べたいか」と云はれ溜池の米大使館横の静かな料亭で夕食を奢って、労をねぎらって下すった。その時に、例のウヰーンの最高学会のグラーフ博士を始めとして、ドイツの各音大を唸らせた美しく気品高い声で、ドドイツ、そのほかの唄を歌って、私を慰めて下すった。私は、その厚い御情けを今も忘れない。恐らく、死に至るまで、このことは忘れないだろう。そして湯沢氏は、今年の二月、今はの際はに、私を枕辺に呼ばれ「君はどの男が、どうして、この世を逃がれ避けて居るのか、私には解らん解らん」と叱り、口説き、励まされた。嘗って内務大臣になった時も「私で出来ることは何んでも致してあげる」と言はれ、私は、何も望まなかった。禅を教へて差上げた元首相林銑十郎大将も、同じことを言ったが、その時も何も望まなかった。私は先師盤竜禅師の教への通り、名利を望まなかったのである。

しかし「英雄頭を回せば、これ神仙であるが、神仙、頭を回せばこれ英雄」だ。湯沢氏の御言葉通り、風向きによって起ちあがる時があるかも知れない。それは神のみが、与へ給ふことだ。

とにかく、日本に帰って来た許りの疲れて居た時に、情けを掛け慰って下すった方々には、心から御礼を申し上げたい。

然るに或る人々たちは、何も言はぬ先から顔見ただけで「わしもヨーロッパに行けたが、また語学の忘れてるのを思い出したり、色々な下拵へが煩しいから、そんなツマランことは止めた」とか「君の見てきたよりも、もっと多くの事を、行かなくても知ってるよ。バカでないからね」とか「何しに行って来たんだ。ムダ金つかって何の足しにもならないではないか」とか「ほかの国のことなど聞きたくもない。己れのことで一杯だ」とか「変に愛国屋になったり、日本を蹴なして貰ふまい」とか、「音楽などと云ふクダラぬ、ウルサイ物は要らんよ」とか、「よくもよくもクタばらずにまた生きて帰りやがったもんだ」とか、そのほかありとあらゆるトンでもない言葉を持って私を目の敵にし、辱かしめ、痛めつけ、意地悪く押へつける。余りのことに、私は東京を去って、古里の老いた母のもとに暫く身を逃れた。そして、旅で得たことを、独り静かに考え直し考え直して、心を先づ整へることが要るのであった。

その間に、私の事を気遣って、心から慰め懐かしい母校の北大の楡の森でも見たらと呼んで下すったのが、岡不二太郎教授と吉本千禎教授とであった。

今時、こんなにして私のことを考へて下さる方はないのだ。人は皆、己れの殻にだけ閉ぢ籠って、ホンの僅かの外から与へられる事も重荷として払いのけるのが常だ。なかには前に書いたように、私の顔を見た許りで、早くもシンが破れると云ふ、タガの弛んだ弱助さへ居るのだ。その多くは、ゴルフ、マージャン、自家用車、飾りピアノ、飛行機、酒、女のただれ切った煙のなかで夜昼を、明かして居る浮かれ者たちである。

私は、これらに向って言ふべき言葉が、今見つからない。やがて行をもって、ガンとして示す時があるだらう。

今、維摩は、方丈の室にあって、深く輝定に入り、十方の仏を見て居る。

(昭和二年農学部卒)

発行所:北大季刊刊行会

発行日:1963年12月1日

次の日に大使館に頼んだ、留学生に連れられて、ウヰーンの町のBeethovenやSchubertの住んだ家を見たが、ともに極めて貧しいものであって、彼等が、どんなに暮しに困ったかと云ふこと、そしてその心の苦しみから逃れる為に、いよいよ音楽に酔ひ、それへと心を向けたことが偲ばれた。ベトフェンの厳かで暗い音楽、シューベルトの夢のなかで思ふさま駈けめぐるようなもの、そしてMozartの暗く痛ましい日々から逃れる為にあこがれ求めた軽く明るい曲、それらのことを深く思はさせられた。しかし、何れも皆、冬の間、半年もの間、青い空を見ることがなく、美しい山川のない灰色の国に生きた彼等には、麗しいうるほ味のある楽が出来なかった。それは凡て灰色のなかの悲しく淋しい踊である。

その夜、シューベルト・ザールで、チェロの音楽会があるとのことで聞きに行った。チェロはアメリカ人で、伴奏のピアノは二世の日本人の女であった。ともに余りに拙いので、私はイライラして来た。音楽の下手なのだけは、ジッとして聞いて居られない。案内してくれた学生は、音楽大学で学んで居り、カザールスや、その弟子のカサドから教を受けて居るとのこと。それで「君の方が、却って、うまいかも知れない。耳直しに、君のを聞きたい」と彼に耳打ちし、中休を幸にして、とにかく、二世のピアノ弾きに励ましの言葉を述べて、さっさと外に出た。しかし、ウヰーンの人々は、音楽好きなので、いとも静かに聞いて居て、我々のように中休に帰る者などはなかった。

ウヰーンは、音楽の都と云ふが、こんな下手なのもやる。世界的の音楽家は違うが、第二流第三流となると、ガタ落ちで、我国のよりも遥かに下手だ。この事は、到る処で聞き、後でパリーの名高い音楽学院でも、同じ事を聞いた。とにかく、西洋では何事につけ、上下の違いが、痛く甚だしい。

それは、とにかくとして、学生の宿に行って、彼のチェロを聞いたが、はたして、この方が却って上手だった。お蔭で、変にされた聴神経も少しは直った。

ところが、彼の同級生で、ハンガリヤから逃げて来たジプシーで、なかなかうまいのが居るとのこと。ジプシーとは珍しいので、遇って見たくなったので、そこへ行くことにした。

「火の鳥」(Feuervogel)といふカフェーがあって、そこに、このジブシーが居た。彼は、夜々ここで稼いで学資に当てて、居るのであった。彼は元よりチェロ弾きなのだが、ジプシーの器用さで、ヴァイオリンでも、ヴィオラ、ギター、バラライカそのほか、凡そ弦楽器と名のつくものは、何んでも、しかも巧みに弾きこなす。それが何れもジプシー持前の、あの哀調を帯びた、かなで方なので、何んとも言へない味がある。わけても、彼の誇りとするのは廿センチに満たない極めて小さな玩具のヴァイオリンで、驚くべきことには、あの難しいZigeunerweisenを弾くのであった。それは、まことに神業に近い。この曲は、彼らジプシーの旋律をとって、サラサーテが作ったものだ。

それをジプシーが弾くのだから、全くもってピッタリして、その醸し出す気迫は凄い。グングンそれが身にこたへて来る。それに、この曲を弾く時には、客席の間を縫って歩きながら、何とも云へない、いい顔つきをし、美しい身ぶりをし、一人一人の客に残りなく目をやる。それは、客にこびて居るとか、己れを誇って見せ付けるとか云ふ思はせ振りな所は、露ほどもない。むしろ顔は上気して、かすかに青味を帯び、そして目は真赤に燃えて居る。彼は、楽に酔って、さまよひ歩くと云った様だ。

客はと打ち見回すと、うっとりとし、目をつぶり葡萄酒を呑み忘れて、うなだれて聞いて居る者あり、椅子の背板に首を投げかけて居る者ありだ。私も亦、夜の更けるのを忘れ、いつまでもこの素晴らしい天国を去り得なかった。私は、この事によって、ヴァイオリンでも微分音を弾けさうだとの明るい望みを掴み得た。

それまでは、難しい微分音などは、とてもヴァイオリンでは、弾けさうもないと、あきらめて居たのだった。それが出来さうだと云ふ望みを得たのは、大きな獲物だったわけだ。次に演奏時の身振りについてである。元より、外人は身振りがうまい。常の何んでもない話を交す時でも、きっと身振りをする。即ち仕方話をする。だから自から、それが身について、こなれて行く。これをせず、従って、こなれない日本人がやると、何んとなくギコチなく、とってクッ付けたように、わざとらしくなる。なかにはキザにさへ見えるのもあるし、目障りでウルさいのもある。

ところが、日本の歌ひ手のうちには、この身振りを入れて歌者がある。これは前に述べた通り、何んとなく似つかない。しかし、舞や踊をよくやった人のは、それ程でもない。さうして見ると、何が何んでも唄ひながら身振りをしたい御仁は、少し舞や踊を習ってからに、したらいいかも知れん。

その夜、私の宿まで送って来てくれた学生に廿ドル払って、お礼に尺八を吹いたら、夜だからもう止めて欲しい、宿ではいけないことになって居るとのこと。壁が厚いからと言って思ふ様吹いた。

次の朝、内田大使から、小川ハンガリヤ公使が昼過ぎにウヰーンに着くと云ふ電話が、かかって来た。それまでの間と思って、読売社から頼まれた原稿を下書した。この原稿は、十一月廿一日の宗教欄に乗ったが、後でベルリンで書いた原稿も共に、原稿料を払ってくれない。

それは、とにかくとして、内田大使からの話だと云って、西欧の民族学者として名高いSlawik博士が、わざわざ訪ねて来られた。彼は日本研究所を大学に持って居り、日本語は、日本人と同じ位に話し、また行書でも草書でも、スラスラと書き、日本の学者よりも、日本の事は、よく知って居る。人柄も極めてよい人で、すっかり仲よしになってしまった。彼は、彼が主任である日本研究所を見てくれと云ふので、ノコノコついて行って、日本の資料を色々と見せてもらった。助手に中年の女の人が居たが、この人は、ドイツ人と日本人との間に生まれたとのこと。話し込んで居るうちに昼過ぎになってしまった。小川公使が待って居るだらうと思って忙いで、宿に帰ると、はたして小川氏は待ちくたびれて、どこかへ出て行ったと云ふ。しばらく、待って居ると帰って来られ、終戦の時から久し振りで逢って、尽きない話を懐しくした。

小川公使と連れ立って、内田大使を訪ねた。私は偉張るようだが、終戦前までは、大臣級の人々が、私の家を訪ねたので、その癖が付いて、こちらから人を訪ねるとなると、何んとなく胸がつかへる。ことに終戦後は、それを必ず思ひ出して、うらぶれた気持になる。

しかし、内田大使は、まことに親切な良い人であって、何くれとなくしてくれる。

夜は、大使の家で小川公使と共に夕飯をふるまはれた。久し振りで、日本食をした。カルルスルーエからこの方の風邪がこじれて、咳がしきりに出て止まない。それをこらへて、礼に尺八を吹き、北大で岡教授が作って下すったテープや、持って行った色紙にかいた絵を差上げた。

色々と、四方山話をし、前に書いたジプシーの話をしたら、面白がって、是非聞きに行きたいと云って居られた。

その夜は、宿に帰ってから、久し振りで、日本は、如何にあるべきか、また日本を如何に為すべきかを、西欧と云ふ所の立場にあって話し合った。そして、これをまとめて小川公使に書いてもらひ、また小川氏の国家論を夜明しして書いてもらって、日本に帰ってから湯沢三千男氏に差出した。この文を書いて居る少し前に私を最もよく知ってくれ、そして私が最も敬って居た湯沢氏は亡くなられた。そして、我々の思って居た日本を良くする事の手づるは、断ち切られてしまった。近衛文麿、林銑十郎らの諸氏と共に湯沢氏も亡くなってしまった。「夫子哭す」の句を思ふ。北大の学生だった頃から抱いてゐた美しい日本にすることの企て、その夢は凡て破られてしまった。弟新吾(北大医科出)は、なぐさめて云ふ「風が吹けば、また何んとかなるでせう」と。まことに、さうだなと思ふ。

とにかく、ウヰーンでのことは、凡て夢物語りにならぬように祈って居る。日本は礼楽の国だから、たしなみとして音楽を私はやって居るに過ぎない。私は音楽屋ではない。大学を卒業する時「一身のことを思はず、国のことを思へ」と誡められた佐藤昌介総長の言を、私は世を終るまで、守り抜くつもりだ。

次の日、シュナイダーといふ音大で教へて居るとか云ふ全く知らない婆から電話で、昼飯を食はせるから、その家まで来いと云って来た。余りになめた言ひ方なので「バカ」とドなって電話を切った。私は乞食ではない。言葉恭々しく、電話するならまだいい。世界的の学者であるスラヰック博士すらも、わざわざ訪ねてくれた。

私は全くの初めての町で右も左も解らないのだ。

この婆のことを、ス博士に聞きくと、札付きの婆で、少し許り日本音楽のこと知って居て、あっちこっちで講演して回り、しかも日本楽の悪口を言って歩いてるとのこと。また日本の女子留学生を、殴ったとのこと。またス博士の悪口を、わざわざ日本の大学へ言ってやったり、オーストリヤの政府にも言ったとのこと。困った婆だ。

しかし、後で考へて見て、とにかく昼飯を食はせると云った事に向っては礼を云ふべきであり、また内田大使が煩ひを受けてはと思って小川公使に連れて行ってもらひ、私はしゃべらず、公使にフランス語で話してもらった。私は言ふまでなく握手もせず、日本式礼のうちの頭をコクッと下げるだけの首礼というやつで済して来た。日本に帰ってから聞くと、この婆に日本楽のことを教へた者が、これまた眉つば者であり、毛虫の如く嫌はれてゐる奴だった。婆も大方こ奴の仕込みで、いよいよサタン化して行ったのだらう。

何れにしても、日本に仇なす良からぬ毛唐もあるのだから、心を許せない。毛唐と云ふと凡て神様の次ぐらいに考へて、あがめ奉って居る輩が多くはないか。

ス博士の話によって、ウヰーン大学にある最高学会のGraf博士が、助手を連れて、わざわざ私を、その研究所まで伴ふべく迎へに来てくれた。ここには並の学会があり、その上に最高の学会があるのだ。ここには、世界的な人ばかりを迎へることになって居る。私のことは、ケルンのメルスマン博士やベルリンのシュトッケンシュミット博士らの世界的音楽学者によって、既に知られて居る。グラーフ博士の研究室は、音楽と民族学との二つを結んで、その二つの向きから調べて行くことになって居る。私はアインシュタインや、シュワィツェルなどと、並んで書いてある署名簿に名を書かせられ、甚だ恐れ入った。こんなにして取扱ってくれるとは夢にも思はなかった。凡ては、心の友となったス博士の暖かく深い見立てによるものである。彼は、日本に居る私の知合よりも深く私を知るに至ったようだ。そして、私が日本に帰ってからも、身近かに起った事を親しく手紙に細々と書いてよこす。

グラーフ博士の研究室は、日本の大学の教室を五つ六つ合せた位の室数で、その内の三つの許りの室には、永久保存用の世界中の音楽テープが、天井から床までビッシリ、一つ一つ棚に入れてあった。また世界中の色々な楽器のある室もあった。その外に、日本の放送局よりも良い録音室がある。

さすがにウヰーンは音楽の都と言はれるだけあって、その裏には、こんなにも立派な研究所がある。今更らながら驚きもし、羨ましくも思った。日本の芸大には、研究室も資料も未だにない。高い建物は、深く地を掘り下げ、礎を固くしなければならない。

私は、グラーフ博士の頼みによって、その放送室で、「虚空」、「夜坐吟」などを吹いた。助手たちは、懸命になって録音して居た。また、それに合せて映写機で私が吹く様を、詳しく写して居た。これが終ると、経歴を日本語とドイツ語とで、吹込まさせられた。

その後で曲の解説を詳しく書いて居た。序でに、持って行ったテープを見せると、どうしても写させて欲しいと言ふ。そして、これの解説も詳しく、作曲年代、歌者や奏者のことなど、一つ一つ詳しく書き取った。テープは次の日の夜までに宿に届けるから貸しておいてくれとのことで、さうした。これらは凡て永久保存するのだとのこと。

それからが一仕事だ。と云ふのは、日本音楽と日本民族学の上からの細かな問ひが始った。幸に、私は民族学が好きなので兼々少し計りその本を読み、また資料にも触れて居たので、話がはづんで夜の十時を過ぎてしまった。しかし彼らは、動かうとせず、いよいよ食ひ下って来る。こちらも向ふ側も共に夕飯をたべて居ないのだ。その心のこめ方には、驚きもしたが、さすがの私も腹がへっては戦にならん。少し疲れて来た。しかし、彼らは、いよいよ気が確かだ。そのエネルギッシュなことには、時々参らせられる。この調子で研究に頑張るのだから、西洋文化が進んだのだ。

夜十一時近くに研究所を、グラーフ博士と共に出て、ウヰーン大学の教室の方に行って見ると、夜学の学生たちが、未だ一杯残って居た。そして玩具のような美しい衛士たちが、並んで廊下を行き来して居た。

そこから帰り、車で宿まで博士は送って来られ、共にビールを呑みながら、更に先程の話の続きをした。すきっ腹に呑んだので、頗る頭がボンやりして来て、ごついドイツ語の口が回らない。仕方ないので紙を持って来て、それに書きながら話した。

博士は、日本音楽の微分音の美しいこと。又湯沢三千男氏の歌沢の声の音域の広いこと等を、心から称へて居られた。

夕飯を食べに行かうと云ふと、憚かって、もうそろそろ帰らうと云って堅く握手して、車に乗って帰られた。私は、その車の後の光が見えなくなるまで、寒空に立って見て居た。

再び、ここに来ることは恐らくないだらう。そして彼とも再び逢ふことがないだらう。私は、淋しさを増す為に、来たようなものだと、フとつかぬことを思った。

私は、スラヰック博士に、ウヰーンを少し離れた村の家を見たいと云ったので、彼は日曜にゆっくり連れて行くと云って居た。その日が来て、彼は女助手と共にわざわざ迎へに来てくれた。この助手は前にも述べた通り、日本人とドイツ人との間に生れた人である。そして日本人を懐しがり、もう一度、私に逢ひたいと云って居るから連れて来たとのこと。

この人は戦の時は、軍の看護婦長をしてゐた。向ふでは、看護婦といふと地位が高く医者と同じである。そして戦が終って、皆が食物にも困って居た時に、己が持物を凡て売って、食ふに困る人々に施したと云ふ。博士は、これが、まことの日本人の血のなす業だと、彼の民族学から断定を下して居る。そして、こんなことは、個人主義で固まって居る西洋にはないことだと云ふ。そして基督教も欧州では、その仕来りや習はしに合ふ所だけを採ったのは、日本で仏教のうちで、日本に合ふ所だけ採ったのと同じだ、凡てを受け入れたわけではないと、色々拠り所を挙げて述べた。序でに、秋田の「生ハゲ」のやり方と全く同じものが、ウヰーンの近くに古くからあるとも云った。そして、話が前に戻り、イエスの博く憐れむ心持は、却って同じ東洋人である日本人の血の中に生きて居る。その証しの一つが、この女助手の行ひだと云って、しきりに、はめ称へて居た。この民族学的な立場から私をも見たのだらう。そして、最高学会のグラーフ博士に私を引き合せたり、こんなに仲よく親しく付き合ふのだらう。

色々と愉しく話を交しながら、電車に乗ったりして、ウヰーンを後にした。

Donau川を渡る時に、博士は「隅田川の下と、どちらが、この辺りで川幅が広いでせうか」と訪ねたが、私は、「この川の方が広いかも知れません」と答へた。しかし、その水は今の隅田川と同じに濁って居て、歌にあるような美しい眺めではなかった。

ここに来る所に、ユダヤ人の住んで居た低い長屋が並んで居た。彼等は、欧州のどこにおいても、このように特殊部落をなして居たのだ。それは日本における鮮人街のようなもので、麻薬・アヘン・密輸・売春そのほかの悪の花のドロドロした温床だったのだ。その為に、どれだけ、その国が毒されたか解らない。欧人がユダヤ人を嫌ふのも尤なところがある。ユダヤ人としても、あの頃は未だ国がなかったので、さうする外なかったかも知れない。学校でも、毛嫌いされたので、男で余り教育を受けた者は少なく、女でもたしなみのある者は少ない。欧州人がユダヤ人を低く見、そして嫌ふのも尤なところがある。ヒットラーが、ユダヤ人を殺したのも、この世から悪の根を断たうとしたと云ふ。それに、前の戦の時に、ドイツが負けたのは、ユダヤ人の裏切りの為だったから、その恨みもあったとのこと。何れにしても、ほかの民族の間で、生きて行くことは生ま易しいことではない。日本がもし、アメリカやロシヤに滅ぼされたら、こんなになるのでないかと思って身震いした。いや、今、金のみに囚はれて、魂を失った日本人は、かつてのユダヤ人なみに扱はれて居ることを、深く省みねばならない。

博士からも「あなたは、まことの日本人らしい日本人だ」と、度々言はれる度に、私は寒気がした。このことは、ベルリンの自由大学でも同じだった。人は墜ちて行くのは易しい。しかし、登ることは難しいのだ。

私は、暗い気持になったが、サラリと振り棄てた。日の国の子は、いつも明るくなければならない。

町はづれ近くなるに従って、乗り込んで来る日焼した顔し、田舎じみた着物の者が多くなる。これらの田舎者が、アメリカに渡るので、アメリカ人は、やぼくさいのだ。それを真似て、変な冠り物を、かぶったり、赤と黒との井桁縞の服を着込んだりして居る日本人が、日本に多く居る。文化国家とは、やぼな田舎っぺの真似することと心得て居る輩のやることだ。

バスを降りて、村のなかをブラブラ歩いた。家は、道に沿った所にだけ建てられて居て、すぐその裏庭からは見渡す限りの畑だ。静かな人通りのない村の道だ。いったい、西欧のどの町でも村でも、昼日なかでも、人通りは少なく、極めて寂かで物音が余りしない。落ちついた気持だ。この静けさは、戦の前には日本にもあった。しかし、今はない。どんな田舎でも、オートバイの音や耕転機の音で騒がしい。日本には静けさも落ちつきも、既になくなった。夜も昼も、そして海にも山にもない。それは地獄だ。私は西欧に来て、久し振りで、昔の日本の気持になったように思はれた。

三人で歩いて行って、牧師も住んで居ない古びてツタのからんだ教会に行って見た。灰色の尖塔は、晩秋の淋しさうな灰色の空高く立って居る。教会は、墓に囲まれてゐるが、その墓は日本のと同じように立石の墓だ。日本のお盆に当る頃なので、墓々にはローソクやカンテラが置かれてあり、菊の花も立って居た。そのなかに、「人々よ。我らを護る為に、戦で亡くなった人が、ここに眠って居る」と書いた墓があった。私は目を閉ぢ手を合せて拝んだ。

私は、この美しい言葉を、今も忘れない。けがらはしい言葉で、我らを護って死んで行った人々を汚すことは許されない。心卑しく劣った肝ったまのない奴は、戦の時には常に尻込みし、戦が終ったとたんに痩せ犬のように、わめき立てる。日く「バカな戦をしたもんだ」と。

ある人が、支那海を渡った時に、夜の雲の中を砲車を引いて、日本に向って引きあげて行く、多くの兵士の幽霊を見たとの事を、博士と女助手に話したら、「さうでせうさうでせう」と言って、黙って暫らく目を閉ぢて居た。

外地で亡くなった人々の墓、魂は、今も我々を呼んで居る。いつの日か、再び、その墓の前に我々が何のさまたげもなく立ち得る時が来るだらう。

この教会から出て、村の道を登り、左側にある農家に入った。この辺りの農家は、中庭を広く取ってあり、囲りに豚・牛・鶏の小屋や農具舎、住居などがある。女の人が二三人出て来て、近い日に、この家の息子に嫁を迎へるので、その御祝の菓子を作ったり、飾りをしたりして居るのだと云って、誇らしげにして、それを見てくれと家のなかに導き入れた。やがて、その息子なる若い男が帰って来たので、御祝の言葉を述べると、ニコニコして手作りの荷葡酒を持って来て飲んでくれと云ふ。飲んでみると地酒といったようなもので、薄味で渋いものだった。日本の葡萄酒とは、欧州のは全く違ふ。お礼を繰返し述べて、そこを出た。

そして通りの曲り角で、バスを待った。夕暮のウヰーンの町はずれの静かな眺め、それを忘れないで欲しいと、博士は言った。その楽しかったことも忘れないでせうと答へた。

そして、博士は民族学の上から、この辺りの村作りは、真中に広場があり、その囲りに郵便局や教会や店屋があり、その奥に放射状に農家が出来て居る。これは、古代からの仕来たりの通りだと云った。全く先程の農象の作り方を、大きくしたようなものだ。

さうすれば、日本の農家が、南に広場を作って北側に家が立って居る。それを大きくしたのが奈良や京都の町作りだ。これは支那の真似したのだと学者は言ふが、支那の農家は、囲りに廊があり、却って洋式に似て居る。それを大きくした町作りは、城の壁によって囲れて居るから、日本のは、これとは少し違ふように思ふ。

見渡す限り、畑であって、その遠い涯は、ハンガリヤであり、多くの人々が、西ドイツに逃げて来るように逃げて来ると云ふ。このことは、見落されて居るようだ。

そのもつれを含んだ限てない広野は、初冬の入日に薄く霞んで居た。バスは、なかなか来ない。辺りが薄暗くなって来るに従って少し寒くなって来た。ふるへながら色々な話を三人でして居るうちにやっとバスが来たので、救はれた思ひでそれに乗って暫く行った所で降り、とある居酒屋に入った。

北大の寮の食堂のような室だ。そこで女助手が、手持ちのパンにハムを大きく厚く切ってのせてくれた。腹がすいても居たので、とても、うまかった。それを食べながら、この居酒屋の手作りの葡萄酒を呑んだ。アルコールが少いので、それ程、酔っぱらはず、ほんのりと酔が来て、却って心持が良い。そして楽しく色々な話をした。そのうちに、囲りの腰掛にもダンダンに客が多くなり賑かになったが、騒がしくない。皆、物静かに、囲りの人々の妨げになるような声は出さない。これは、欧州のどこでも同じだ。その静かな食事の間を縫ふように室の隅で三人の老いたる人が、ギターを弾いてくれて居る。これは、この家付きの人々だ。それを聞きながら静かに葡萄酒を飲んで居るのは、まことに好い心持だ。全く、うっとりとして、身も心も静かに溶けて行くような気がする。まさに夢心持だ。欧州では、こんなにして、年寄りで音楽をやって居る者が少なくない。そのうまさは、長の年月を経ただけあって練れて居てソツがなく板について居る。そして音楽を通して、彼らの長い間の苦しかったこと楽しかったことを物語って、人々を慰め励まして居るように思へた。日本の呑み屋で、ニキビ面に白粉などを、ぬったくり、生まのギコチない楽をやってる化物どもを思ひ出して、ゲーッと言ひたくなったので、頭をブルンと一振りして、再び、ここの天国にひたった。

飯が終ってから、出してくれた乾菓子が、とても、風味があったので、娘に食べさせて見たいと言ったら、女助手は、サッサと出したのを紙袋に皆入れ直し、「我々二人は、いつでも食べれますから、日本まで持っていらっしゃい」と云って包んでくれた。その勇ましく、そしてしとやかな思ひやりに、ホロリとした。この人は、博士の言ふように、情けの深い人だ。お蔭で博士も私も、菓子はお預けを食ったが、博士は、それて見て居て、却って楽しさうにニコニコし、そして、しきりにうなづいて独り悦に入って居る。また心のうちで、民族学的に日本の血を見て居るのだらう。

そして、この菓子の話を、繰返し繰返し私が日本に帰ってからも言ってよこす。彼は日本の研究ばかりして居るので、日本の良い所がたまらなく好きのようだ。いっそのこと、この女助手を、妻にしたらと、すすめたかったが憚って止めにしたが、この間、手紙が来て「妻にすることにした。研究室は、いよいよ暖くなるだらう」と言ってよこした。私は、心から幸を祈り、祝の品を送ってあげた。この人なら、学ぶ事にのみ生きて居る博士の淋しい晩年を、暖く見まもる煖炉となるだらう。

ギター弾きの老いたる人たちにチップをやり、その労をねぎらって、そこを出て、再びバスに乗ったり電車に乗ったりしてウヰーンの宿に帰った。博士だけが、宿に残り、助手は家に帰った。ところで、私は大きなしくじりをした。と云ふのは、この宿に泊る時に旅券を見せてくれと言はれ、それに三千シリングの金をはさんだのを、うっかりして、そのまま渡してしまったことだ。後で気が付いた時は、もう遅い。金はとられてしまって居た。博士も色々話してくれたが、それはムダであった。前にも言った通り、こちらは良い人と悪い者との違ひが甚しいから、よくよく気を付けて居ても、シテやられる。釣り銭などは、よく誤間かされる。このえげつなさは、フランスが一で、その次がイタリアそしてウヰーンだ。

その日の掛りは、凡て博士が出してくれた。その前に私が彼と小川公使を、夕飯に招いた時も、やはり、さうだったが、彼は、その夜も夜更けまで私と楽しく話し、夜明方に帰って行った。真直ぐに研究室へ戻るのだと云って居た。その根の強さ、粘り強さ、エネルギッシュなことには驚くほかない。こちらの学者は、どこでも同じだ。研究室は夜通し明りが付いて居ることが多い。彼らにとっては、研究のうちに暮しがある。だから身なりも食物も寝りもない。日本の家では妻が、あれではみじめだと云ふが、向ふでは個人主義だから各々が、ちゃんとした生き方を持って居るので何んとも思はない。

博士は、後を振りかへり振りかへりして、別れを惜みコツコツと夜更けの町を帰って行った。その靴音が聞ゑなくなるまで、私は冷い宿の前に立って居た。明日の朝、と云っても、一時間後には、ウヰーンを飛行機で立たねばならない。三十分ばかり、腰掛にもたれて眠り、車に乗って飛行場に駈けつけた。飛行機のなかでは、フランクフルトに着くまで、すっかり眠りこけた。

フランクフルトに着いた。ベルリン行きの飛行機は夜なので、暫く間がある。日航の人に連れて行ってもらって私の娘へのミヤゲのタイプライターを買った。日航の人々には、どこでも、色々とこんな世話になった。心から有難く思って居るのに、向ふ様では、却って私を悪く云って居たとのこと。終戦後の日本は、何から何まで変った。芸術も、道徳も科学もない荒野になってしまった。私は天国より外に行く所はないかも知れない。

飛行機がフランクフルトを立って、ベルリンに近づくに従って、西と東とのいがみ合ひのことが気にかり、何んとなく気が引きしまり、心に波だつのを覚えた。飛行機のなかは、ガラ明きで、人が少い。

これまで、殆んどの国の飛行機に乗って来たが、その取扱ひ方は、至ってソッ気ない。日本のは、細かに行届いて居るが、それだけに乗る人に向っても、細かに眺めて居る。だから、来る人は日本のを、いやがるのも後味が悪いせいもあるだらう。なぜ日本人は、昔のようにもっと大らかな豊かな気持になれないのだらう。島国だから許りでなく、気の小さな者だけが生残ったのかも知れない。

   Berlin

ベルリンに十月廿八日夜十一時に着くと、領事館に告げ、迎への人を頼んでおいたら留学生をよこしてくれた。次の朝この男に連れられて、バスに乗り市の主な建物を見て歩いた。東西のベルリンの境に行くと、それが建物の壁になって居る所がある。その家の一階目の窓は板を張り釘付けなって居り、二階三階の窓も開かない。それでも、二階三階の窓から道に飛び降りた者があるのだらう。それは大方死んだようだ。窓が高い所に付いてるからだ。それで到る処の道に花輪が置いてある。何んとも言へない怒りと悲しみとを覚える。

東側は、人通りも極めて少なく、ひっそりとして何か死の国を思はせられる。

写真をとらうとして、作ってある台の前に立って並んだ。前に並んだ人たちが、「日本人だ日本人だ真先きに写させてやれ!!!」と叫んで、私を真先きにしてくれた。私は、心から有難く思った。写し終って台から降りて、その辺りに立って向側を眺めて居る人に、「どう思ふ?」と問ふと、皆、若い者も年寄りも等しく、顔を歪め、歯をむき出し、拳を振り振り「悪い!!!ルスキーめが悪いのだ!!!」の叫んで居た。そして彼らは、この恨みを永遠に忘れないと云ふ。粘り強いドイツ人は、いつかは、この恨みを晴らすだらう。かうやって人は、絶えず悲しみを繰返すのだ。その種をまいたサタンを、私は心から憤る。到る所の大通りでは、東西の戦車が向ひ合って屯ろして居た。

一日あちらこちらとバスで回り歩いて、少しくたびれた。バスから降りて、久し振りで支那料理屋に入って夕飯にした。留学生は、サッサと、好きなものを勝手にあつらへて、それが運ばれて来ると、物をも言はずにパクついた。腹が減って居るので、若い者は致し方がないにもしても、金は凡て私が出すのだ。一言、「お先に」とか、「頂きます」位、言っても良ささうなものだ。この留学生は、まことにおかしな男で、度々、変な事をしたり、生意気なことを言ふ。これが私に向ってだから、宜しいが、外の国の人々に、こんなザマをしたら笑はれる。国の辱にならぬようにと思って宿に帰る時に、よく言って聞かせた。彼は、思ったより素直に言ふことを聞いてくれたのは嬉しかった。昔の留学生と、今の留学生とでは、比べ物にならない程、頭の中味が違って居る。

次の日、領事館に行って礼を述べたり、講演の打合せしたりした後で、博物館を見に行った。ここで珍しかったのは、南米のインカ帝国の遺した物を色々と見たことである。またドイツの大昔の物も見て為になった。

名高い絵の前に来ると、田舎のお上りさんが、やはり数多く見に来て居た。彼らは等しく絵の前につつましやかに膝をついて、後から来る人の妨げにならないようにと心を配り、そして絵の側に分れて並んで、真中を明けて居る。これに向って、彼らを連れて来た人が絵について長々と説いて居る。その口振りが、まことに音楽的だ。ドイツ人は、二人で向ひあって話す時は、ドイツ言葉持前の強い弱いのアクセントでやるが、こんなにして多くの人々を前して話す時は、必ず、美しい節を付けて話す。これを側から見て居ると、絵と音楽を合せた芸術と云った美しくも楽しい心持になる。私は、度々、どこの美術館でも、この美しい様に、ウッとりさせられる。そして、彼らの会議の時も同じだ。どこかの国のように会議となると、鼠が締め殺される時のような金切声をあげ、喧嘩口調で相手をなじり合ひする修羅場には、つくづく愛想がつきる。

それは、さておいて、ウヰーンでのこともあり、懐が淋しくなったので、出来るだけ金は、費はぬように、しなければならない。それで博物館を見た帰りに、宿の近くの店でパンとハムとを買って来た。これから暫くは、こんな日々を送らねば、ならなくなった。それに物の値が、日本と比べて四倍から五倍高いから、尚更のことだ。これを食べて、ゆっくり寝て体を休めることにした。日本を出てから、体を休めたことが、殆んどなかった。

次の日も外に出ないで寝たら、風邪もやっと直り、咳も止った。外は寒いが室のなかは廿度位にしてあるから、シャツ一枚で居れる。窓から見える空は、いつもの通り侘しい灰色だ。

欧州では、どこでも、朝九時に勤め口が始まり、十一時で、一先づ切りあげ、三時まで昼飯と昼休で五時には退け時となる。だから一日に四時間しか仂かない。そして店も同じだから、物を買ふのに困る。それで、土曜日だけ、勤め人は昼までだから、店によって買物を一週間分する。それでも道は、少しも混まない。勤め人は、歩いて三四十分の所までに住むようにと、されて居るからだ。

それに道幅が広く、ベルリンの大通などは片側が六車路だから車も混まない。町角には、町の名でなく通りの名が書いてある札が立って居る。だから地図を見ながら、何処へでも行ける。車は、日本のように、むやみやたらと突走ることをしない。タキシーの運転手は大方、かなりの年かさの人が多いことにも依るだらう。従って、過ちも少い。昔の日本は、どこか、やはり、このように、しっかりした骨があった。今は、コンニャクのように、グラグラして居る。そして棘々しくて、すぐにカッとなって人殺しをする。全く、ひ弱な人種になってしまった。ドイツに来て、逞しいドッしりした昔の日本の姿を見るような気がした。

ある日、自由大学教授で知合ひのEckardt博士と共に、田中ミチ子さんから昼飯に招がれた。その時に、ある日本の女も来合せた。飯を食べて居る時に、この女は、日本で中学生が女教師を輪姦したとか、そのほか色々な、けがらはしいことを、ベラベラとまくし立てた。私は、気持が悪くなり、ドなり付けたくなったが、こらえた。前に書いた留学生と云ひこの女と云ひ、どうして、こんなに、たしなみのない毛物が日本に殖えたのだらう。

エッカード博士は、やはり、スラヰック博士と同じように、「あなたは、まことの日本人らしい日本人だ」と、私に後で話されたので、私は口惜しくて涙が出さうであった。いかに戦の後、ドイツに行く日本人の質が落ちて居るかが、これで良く解る。東方の君子国、それは今や、毛物の国となってしまった。私の後なる北大の学生よ!!!叫魂を新ひ起せ!!!と叫ばざるを得ない。

また或る日曜に、朝早く起きて、手が切れるような寒さのなかを、ルーテル教会に行って見た。落葉する並木道に響いて来る教会の鐘の音は、素晴しく美しい。教会に入って見ると、年寄りが多くて、若い者は殆んど居ない。昔の日本の寺参りの有様と、そっくりだ。牧師の教を説く有様も同じようで、慎んで聞いて居たら、いつの間にか居眠りしてしまった。これも昔の日本と同じだ。向ふに行って来た日本の牧師さん方は、とても向ふは宗教が盛んであると振れ歩くが、それはウソだ。どこの教会でも同じように年寄りが多い。居眠りも式が終り、帰る人のザワメキで、目が醒まされ、あはてて外に飛び出た。そして、その次には近くのカトリックの教会に飛込んだ。ここも前と同じだ。マイクを通じて教を説いて居た。教会のなかでは、冠り物を冠ったまま、外套も着たままだ。そして隣りに坐って居る者とは、全く話もしない。何の関りも持たない。まるでソッ気ないものだ。これは日本の寺参りのお互のなごやかさとは違ふ。個人主義の国であり、イエスの愛は、金を捧げることによって形の上から行はれると思って居るのかも知れない。昼近くに宿に帰り、女将に二つの教会を見て来たと言ったら、たまげて口をあんぐり明けて居た。

ある日のこと、弟新吾から頼まれたゾーリンゲンのナイフを買ひに朝の十時過ぎに、ベルリンで最も大きな、この会社の店に行った。ナイフは、一つ千円だ。次でに、皆にみやげに差上げようと思って、合せて十丁買って一万円を払った。

そして宿に帰って、試しに鉛筆を削ってみると、日本から持って行った安物の私のナイフよりも遙かに切れない。これは、をかしいと思って、試しにほかのでやってみると、やはり同じだ。よく考へてみて、バカらしくなり、ムダなことをし、却って、みやげにならず、そしられるのが関の山と思ったので、思ひ切って店の明く午後三時に、一丁だけ買ふことにし、残りの九丁を返しに行った。ところが僅か四時間余りしか立たないのに、店ではガンとして受取らない。色々と粘って話したがダメだ。仕方なく、田中ミチ子さんに電話して、話をしてもらったが、やはり、何として埒が明かない。田中さんは他の品を買ふからといって肩代りしてくれた。お蔭で助かりホッとした。後で、エッカード博士にも、この話をしたが、「それは、どうした事だらう。そんな筈はないが」と気の毒さうにして居た。本屋などは、本に障って見ることも出来ない。本の名を言ってそれを買ふだけだ。尤も手垢で汚れるから尤もなところもある。そのほかのところは殆んどが、セルフ・サービスだが、それでも、あれこれと品物を選んで、いぢくり回すことは、いやがられるから、よく見てだけ置いて、掴んだらそれでおしまいで、それを買ふよりほかない。よく考へて見れば、これにも尤もな所がある。

しかし、ナイフの場合は包紙も開けて居ないのだから違ふ。後で国に帰りしなに、飛行機のなかで、東北大の本田さんの所で鉄の研究した人に、ナイフのことを話したら、「今の日本の鉄は、ゾーリンゲンなどよりは上ですよ。日本のが劣って居たのは昔の話です」と云って笑はれた。「それでは、日本の鉄が世界一か」と尋ねると、「いや、スヱーデンが世界一です。原鉱石の質がいいのです。しかし、精錬の仕方で、間もなく追ひ越すでせう」とのこと。私は力強く思った。刀は、何んと云っても昔しから良いのに、ほかの物が悪いのは、どうした訳かと、兼ね兼ね思って居たからだ。

ある時、小公園の腰掛けに腰を下して、散り行く冬枯れの木の葉を見て居た。すると、ヨボヨボした婆さんが来て、やはり休んだので、話しかけた。この婆さんは一人で家に居るとの事だったので、淋しくないかと尋ねると、首を振って、少しも淋しくないと云ふ。日本では、こんな事は考へられない。個人主義の国だから、一人で生きて行く癖が付いて居る為だろう。自ら慰め、自ら励まして生き通して行き、ほかの人は親でも子でも夫でも妻でも何の関りも付けない、ただ力を合せてやるべき事だけは、さうする。そこに彼等の自由主義があるので、この自由は独り行ふと云ふことの反面であり、それによって裏付けられて居るのであって、日本での考の、勝手気儘で、人を押しのけて進むのとは凡そ違ふ。それは自由でなくて、暴力だ。日本は誤った考を説く学者によって、いよいよ汚されて行く。

この小公園を出て、あちらこちらと足の赴くままに任せて歩き回って居ると、屋台店の本屋にブツかったので新約と旧約とを合せた聖書を一冊買った。値は日本で新しいのを買ふのと同じ位だが、古い版なのが面白い。

聖書を抱えて、再びプラプラして居たら単科大学に行き当ったので、中に入って見ると、学生の騒いで居るのは、日本と同じようだった。ここを出て、宿に帰らうと思ったが、うっかりして地図を持って来なかったので、どうしても帰れなくなった。仕方なく、若い人に聞くとうなづいて黙って付いて来いと云ふ。するとスタスタと歩いて行って宿の近くまで連れて来てくれた。私は厚く礼を述べて宿にたどり着いた。人が道に迷って困って居る時、よくくどい程、教へてくれたり、連れて行ってくれる。これは、昔の日本と同じだ。今の日本はすっかり、すれっからしになって、碌に道を教へてもくれない。日本は堕ちて行くばかりだ。そして、どこまで、堕ちて行くのだらう。

同じく戦に負けたドイツと、日本とを比べて見て、いつも到る所で、こんなにも違ふものかと思はさせられる。日本人の心は抵抗力がなく、逞しさもなく、すさみ切って荒れに荒れた心になってしまった。暖かさや穏かさ、豊かさや安らかさ等は昔の夢だ。そして物に憑かれたように、ただただ前のめりになって、宛もなく突走り、あせり抜いて、せはしげに忙いで居る。それは地獄へ向って下り坂に居るのではないか、などと、夜眠りながら考へた。それは滅ぶ前の苦しみの悶えに似て居る。

私は、殆んど一月に渡る旅で得たことを、静かによく考へ抜き、それをまとめ上げて、読売に書かねばならない。それは日本を出る時に頼まれた事だからだ。室で考へたり、外を出歩いて考へたりして、その考へを、どうにかまとめ上げて、三日間費して、これを書き、やっと送ってホッとした。しかし、こんなに苦しみ、そして掛りがしたのに、これに向っては、金は何も払はない。私は、読売をそれからこの方信じない。

ところで、日本に居て、外の国の人に逢ふと、いつも受身の立場で、物を習ったり、客として取扱はねばならぬから、勢ひ、自づと彼らよりも劣って居るかのように思ふ。

しかし、こちらに来ると、立場が逆さになる。車の運転手も、床屋も、食い物屋の仂きも、皆が畏って仕へてくれる。それで、我々は劣って居るのだと云ふ心は、サッパリと消え失せる。それでも、これは日本人だからで、ロシア人や中国人、黒人などは、これとは違ふ。やはり、軽しめられ卑しい民として取扱はれて居る。その事は、彼等に聞いて見れば解る。日本人が重んぜられることは言ふまでもなく、戦の前に来た日本人や国が勝れて居た為である。そしてこれから後は、却って段々に卑しめられて行くのでないだらうか。そのことが戦の前に来た人は、立派だったと云ふ彼らの口裏から思ひやられる。どうか、後々の為にも良い人を選んで、こちらによこすように致したいものだ。

自由大学でも同じだが、十一月中頃まで、こちらの大学は休みだ。それまで、私は講演することを待たねばならなかった。講演は十三日の夜八時からだと、エッカード博士から電話があった。それで大学の近くの地下鉄の止り場まで行くと、わざわざ博士が、そこまで車で迎へに来て居てくれた。博士は若い頃に京都大学で講師をして居られ、こちらでは、やはり自由大学の日本研究所長をして居られる。日本の仏教音楽の声明の研究で学位を得た人で、田辺尚雄氏に導かれたと言って、田辺氏を敬って居られた。

車は、やがて大学に着いた。すると入口に背のスラリとした美しいドイツの若い女の人が、にこやかに私を待って居るのだった。私が近づくと、つつましやかに両手を膝の辺りまで下げて、しかも日本語で「いらっしゃいませ」と言ふではないか。トタンに私は、のけぞる程ビックリして、思はず「アッ!!」と叫んでしまった。居合術をたしなむ私も、だらしなく全くの不意打ちを食った形だ。

国を出てから、もう四十日を越ゑて居る。その間、こんなしとやかな女の人には初めてだ。日本の昔の女の良さは、ドイツに移ったのかも知れない。

私は、この人とエッカード博士の教へ子たちにだき抱へられるようにして、いたはられながら講堂に入った。聞き手が余りに多いので教授たちの椅子まで持って来る有様だ。そこで、私は、日本音楽史を述べた。そのうちに次のようなのがある。

日本音楽の基の音は、ハ調のreとrehとの間の一越(イチコツ)と云ふ音で、これは天地神明に和する音とされて居る。そして、いかにも男らしく力強い音だ。これに比べて、女の方の基の音はlaになって居る。これは陰であり、黄鐘(オオシキ)と云って居るが、日本の寺の鐘の音が、これだ。

ここまで話した時、フト聞き手の多くの女の人たちのことに思ひ当った。男の一越のうちに女の黄鐘が含まれるとまで云ってしまったが、これは聖書にあるアダムの脇腹の骨を抜き取って、イブを作り上げたと云ふ作り話に、相通点ものがある等と、ピンと来てはいけないし、そして母をこの上なく尊むの余り、女をないがしろにしないドイツ魂を傷つけるような、なめげなことを言ってはいけないと、チラと思った。

それで、ドイツの母は、すばらしく強い。昔、ローマ人が、ドイツ入を攻めた時に、ドイツの旗色が悪かったので、男に代って女軍が出て行ったと聞いて居る。そしてローマ人の首根っ子を一人一人チョイとつまんで、大空高く持ち上げ、これをブランブランさせて、口でフッと息を吹きかけ、吹き飛ばしたら、クルリクルリと木の葉のように舞ひ落ちて、ドサと音たてて土の上に落ち、泥だらけのツラを歪めてすすり泣きながら「お助け!!!お助け!!!」と二つの手を頭の上よりも高く上げて、降ったと云ふが、それは、まことか?と云った。そして、いちいちその身振りをして見せた。この脱線には、皆が腹を抱えて笑が止らなかった。

こんなにして、笑はせ笑はせ面白をかしく話し、禅の話も交ぜて話し終り、それから尺八を吹くことにした。

私の尺八は普化宗の尺八である。そのうちの名曲と言はれる≪虚空≫≪阿字観≫や、私の作った≪夜坐吟≫などを吹いた。とにかく、ひどく気に入ったらしく、夜坐吟は、四回も繰返させられた。その曲を、もう一度もう一度と云って、机をたたいて、せがんできかないから、致し方なかった。しまいには、吹きくたびれて、こちらが参ってしまった。それで、趣を変へて、一節切で≪虫の音≫を吹いたり、雅楽のヒチリや横笛を吹いたりした。まるで、一人八芸だ。序でに、ドイツのMerodikaまで吹きまくったら、たまげて拍手鳴りも止まずで、皆踊り出さん許りだ。エッカード博士は、大ニコニコで喜んで、この講演のした甲斐ありと後で、幾度も繰返して云った程だった。尺八ばかりでなく、日本の楽器は、動植物製品なので、金属製の洋楽器とは違って、音色が、極めて柔かで自然だ。これが、きは立って彼らに印象深かったようだ。

また、日本楽は、微分的な音階やリズム、表情を使ふ。微分音階と云ふのは、当り前の音階を、もっと細かに分けたもので、近頃、フランスのダニエル教授が、東洋の古い楽から暗示されて唱へて居る。微分リズムの方は、同じくフランスのメシアン教授が云って居る。それらの源のことを、私が尺八その他で、目のあたり示したので、彼らとしては、一しほ思ひを深くした訳だ。しかし、恩師であり大先輩の故松村松年博士は、カイゼルに尺八を吹いて聞かせ、宮廷を唸らせてゐる。

とにかく、かうやって音楽に限らず、東洋のものを、彼等は改めて見直さうとして居る。今に、すっかり良い所は、とられて吸ひ上げられてしまって骨すら残らなくなるかも知れない。彼らの例の凄い研究熱は、東西を合せ、それを一足出た世界の第三文化を新しく建てる為の備へである。資本主義の、共産のと云った前世紀の遺物はマンモスの骨程にも価値をおかず既に見切りをつけて居る有様だ。それにつけても明治四―五年頃に既にマルクスの資本論を読み終り、そして尚かつ≪武士道≫を書いた大先輩新渡戸稲造先生を、私は思ふ。それでこそ、ゴミ箱のなかからも、真理を探せと言はれたクラークさんの、まことの教へ子だ。

とにもかくにも、カルルスルーエの公園に厳として、日本の熱田神宮が建って居ることを前にも述べた。日本の魂ばかりでなく、神さままでが、ただ今、外遊中なのかも知れん。

私は三時間半にわたる長講を終ったが、人々は、なほも去らうとしない。すっかり弱ったエッカード博士と私は、入口に立って彼等に一人一人握手して、ムリヤリに帰ってもらった。残り惜し気にして、後を振り返り振り返りして話を楽しさうにしながら帰って行く姿に、私とエッカード博士は、何んとも言へない気持になって、ジッと後姿を暫く見送って居た。私も、ドイツまで、遥々と来た甲斐があった。学会代表として来たのだから、それに向っても申訳けが立つと云うものだ。

夜の十二時になってしまった。中国研究所長が車を動かせるので、助手を一人連れて送ってくれると云ふ。エッカード博士の代りにだ。私は、これから田中ミチ子さんの夫のKowaさんに合はねばならないのだ。コーワさんからは、前に招がれて、かれの芝居を見た。その芝居は、基督教の聖霊がなすところの奇蹟を折込んだものであった。彼はベルリンで名高い俳優なのである。俳優はこちらでは芸術家として扱はれ地位は極めて高い。彼は禅の話を、私から聞きたいと云って、田中さんと二人で夜食を共にすべく待って居てくれる。

車は、その家の近くまで行ったが、向ふで待って居ると云ふ車が見つからない。その辺りを、グルグル回って、やっと見つかった。大学の車から降りる時に、いとも恭々しく扉の所に助手が立て腰をかがめて居る。彼は私が乗る時も、さうだった。車のなかでの話でも、慎んで私に受け答へする。私は日本でよりも、却ってこちらで、いとも懇ろに礼を尽して取扱はれる。全く戦の前の日本と同じだ。ドイツは、かねがね少しも戦で心が痛んで居ないと聞いたが、やはり、さうだった。町を歩いて居る若い者でも、シャンとして堂々と歩いて居る。日本のようにグニャグニャした崩れ切った姿して歩く者など、ついぞ見掛けなかった。

車を迎へに来たコーワ家の二人の下僕も、極めて慎み敬って私に受け答へする。とにかく、私は支那研究所長の教授と助手とに、よく礼を述べて別れ、コーワ家へと向った。

コーワさんも、田中さんも待ちあぐねて居た。そして夜食を頂いた、パンの上に生肉のすったのを載せたものを、どうぞと云ふ。これは、エネルギーを増すとのこと。日本の魚の刺身と同じだ。そのほか色々と、たべ切れない程のものを、食べろと云ふ。楽しく話しながら、夜食を終り、禅の話をした。前にも自由大学での話の時に、同じ禅の話をしたが、先頃のコーワさんの芝居にあったその聖霊を、ハッキリと掴むことだと云った。これを牧師も神父もただ言葉だけ知って居て、それを身に感じて居ない。悟りとは、この霊感を得ることなのだ。さうすると、「まことに、さうでせう。私たちは、洗礼や按手の時に霊感を得なかった。それを得る遣り方を教へて下さい」と云ふ。それで、坐禅しなくても宜しいから腰掛に正しくり、下腹に力を入れ、手だけを坐禅の時のように組んで、「神とは何ぞ???」と、深く考へなさい。さうやって居ると、いつかは、ハッキリと神が解り、そして、その時に霊感を受けます、と答へ、腰掛に坐って居る姿、形を直してやった。痛く喜んで居られた。私は色々と、田中さんに、お世話になったので、お礼に尺八を吹いた。Sehr sanft! Und stark! 素晴しい素晴しいと心の底から動かされたようだった。禅尺八だから、さうだらう。彼らの求めて止まない東洋の奥深さ、それは、この尺八にも現れて居るのだ。それにつけてもドイツ人が禅を求めると云ふ心の落ち着きを、私はうらやましく思ふ。日本は、それどころでない。心がすっかり、デングリ返ってしまって、何もかにもない。禅僧それ自らが、もみにもんで大騒ぎして居る有様だ。

コーワさんは、「日本に行ったら、誰れに神を学んだらよいでせう」と尋ねた。私は首をかしげて、「まことに口惜しいことだが、誰れも、あなたに引き合せしたいような人は居ない」と答へる外なかった。

また、私は大昔の上著を日本で作って、それを持って行き、これを着て、いつも尺八を吹いた。日本人は、日本の着物を着るべきだ。どこの国でも、その国の着物を着て居る。その着物は、その国の気候に合ふようになって居るのだ。私の着物を着た姿が美しいと云って、ためつ、すがめつして、近よったり遠ざかったりして眺め、その上にスケッチまでして居た。さすがに名俳優だけある。私の考へたことは、報はれた。心の底から嬉しかった。

夜は更けて行くが、話は尽きない。私はテープを添へて、「虚空交響詩」の楽譜を渡し、これをベルリンの交響楽団でやるよう、シュトッケンシュミット博士とエッカード博士に話してくれと頼んで、ここの家を去ることにした。

コーワさんは、入口の所に立って、私の手を、左手を上から添えて握りしめ、「旅の間、お体に差障りのないよう、そして安らかな楽しい旅をして、お国に帰り着かれることを心から祈ります」と云はれた。その時の美しい姿、それは名優の生の姿であった。私は、今も、その美しく清々しい、その言葉と姿とを忘れない。それからは、人と握手する時には、これに習ふことにして居る。

彼は、田中さんから、色々と日本の美しい心を学んだと云って、日本に行って死にたいと言って居た。私は、日本を知った外の国の人々が、皆、日本に心から、あこがれて居ることを見た。そして、汚された神の国を思って、心で哭かざるを得なかった。

私は、明日の朝、と云っても、二時間後には、思い出の多かったベルリンを立たねばならない。もはや、夜中の三時だ。

コーワさんの甥に当る人が、わざわざ車で宿まで送ってくれた。さすがに夜中の町は、車も通らない。広い通りは、ガランとして、種々の色の灯だけが美しく輝いてゐた。

このコーワさんの甥は、日本のある娘に惚れて、どうしてもその子をもらひたいと言って居た。しかし私は新渡戸さんの話によって、余り、これをすすめる訳に行かない。

やがて宿についた。彼に厚く礼を述べて帰ってもらった。宿では、私の室を、ある時、訪ねてくれた早大の岡田幸一教授を起して、色々と尽きぬ話をした。この人は留学でMunchenに主に居た。私の「虚空」や「夜坐吟」を、二年前に、Munchenの放送局から放送したのを聞いたとのこと。これは、同放送局の求めにより、テープにして送ったものである。岡田氏は真面目な人で、よく話が合ふので、連れ立って外に出歩いたり、飯を共にしたりした。この人に別れの言葉を言ふつもりなのが、つい長話しになってしまった訳だ。限りがないので別れを告げ、室に帰り、またウヰーンの時のように腰掛けたまま一時間眠り、起きて、宿に金を払ひ、車を呼んでもらって、飛行場に駈けつけた。美しい女ではなかったが、極めて、まめやかに私に仕へてくれた女中に別れを告げ得なかったのは、惜しかった。それでも、前の日に、明日立つと言ったら、「御差障りなく......」と云って、向ふから握手を、ニコニコして求めた。私は、この女に、よく神のことを説いて聞かせたのである。信心深いと見えて、よく食い入るようにして、私の話を聞いて居た。また宿の女将は、美しい人と思って居たら、立つ朝、ねぼけ眼で出て来たのを見ると、何んと小ジワだらけの五十過ぎの婆さんだった。こちらでは、娘たちは、白粉を余りつけない。つけなくても色白だからだろう。こんな婆さんが、シワかくしの為つけるくらいなもんだ。その外、どえらいナリをし、白粉をつけ目の縁を青く塗って居るのは、大方、淫をひさぐ手あいだ。これを、そっくりそのまま真似て居るのが、田舎ッペーのヤンキーで、また、それを猿真似して居るのがどこかの国のメッカイだ。

なほ、次のドイツ語は、自由大学で禅の話の所に話が立ち到った時に云ったものである。その言は敵の馬を奪ひ、それに乗って敵を追ひ払ふ、生ける計り事だ。

Die Aufen- und Innenseite der Hand ist verschieden, aber sie sind die beiden Seiten einer Hand. Die linke Hand und die rechte Hand ist verschieden, aber beide sind Teile eines Korpers. Die Verhaltnisse zwischen dem Mann und der Frau, und zwischen den Stille und der Bewegung, und zwischen der ostlichen Kultur und der westlichen Kultur sind auch ganz gleich. Das ist nicht die Dailektik. Die Dialektik erloscht beide Seiten, aber “Zen” lasst beides so leben, wie es ist, und “Zen” sucht Verschmelzung und Einheit. Der Nerv und der Geist vereinheitlicht beide Hande. Was ist es denn, was alles vereinheitlicht? Das ist der Heilige Geist, uber den der Priester immer und gewohnlich spricht. Aber das ist nicht Worte und Taten, sondern die Begeisterung, die Eingebung. Das wirklich zu ergreifen und fest zu halten ist”Zen”.

(農学部卒)

発行所:北大季刊刊行会  1963年6月30日

その次の日、朝早くクレンプ先生が、わざわざ迎へに来て下すって、Badenbadenといふ名高い温泉地に行った。西欧の温泉地は、日本のと違って、凡て体をよくする為の所であり、従って町ぐるみ公園のようになって居て、極めて静かだ。小川が流れて居て、そこにかかって居る古い橋桁には、暮秋のツタカヅラが、紅にそめて、それが水に映って、たまらなく美しかった。

先生は、この川は《Ode》川と云ふのだと、いはれた。そして、その川に沿って、小春日の暖い光のなかを、色々な話を楽しくしながら歩いた。ところが、時々、先生は立ち止まって笑ひながら「高橋君! !この川の名は何んと云ひますか」と、学生の時のように、覚えて居るかどうかを験(ため)される。「ハア、オーデ川であります」と、椅子から立ったように、一つ武者振いして答へ申上げると、いとも満ち足りた御顔して、ニッコリして、「さうです」とゆっくり、うなづかれる。それは、昔を思ひ出されて、先生にとっては、いたく懐かしく、そして面白いのに違ひない。犬に芸を仕込む時のようにオーデ川の川ぶちを離れるまで、何度も何度もこの茶番劇を繰返させられ、繰返して、この二人の白髪の師弟は、心から喜び合った。まことに、たわいのない、上ずったことかも知れないが、今、思ひ出すと、私にとっては、たまらなく懐しい思い出であり、おのづと涙が出て来る。私は世界一の倖せ者である。こんな良い師や、母や家の者や友や教へ子に、いつもガッしりと囲まれて居る。そして、学校の時に、余りドイツ語をやらずに、先生方に御叱りを受けた償ひに、後の祭りではあるが、卒業してから、コツコツと一人でドイツ語をやった報ひもあって、かうやって、長い年月、あこがれて居たドイツの土を踏むことが出来たのであった。私は今天国に居るのだと思った。

さて、どこへ行くのかと、先生にお尋ねすると、女の修道院に、とても、うまい葡萄酒があるから、それを買ひに行かう、と云はれ、ものの四十分程も歩いた。その道は、全く公園のなかを歩いて居る時のような、あたりの眺めであった。時折り人にブツかる。そのなかに、やはり、若いドイツの男と女とが、腕を組み合せて、はしゃぎながら来るのに出合ふことがある。すると、ストイックで厳かなクレンプ先生は、お顔をしかめてクシャクシャにし、二目と見られない嫌な面持をして、お顔をそむけられる。

いとも滑稽であるが、そこは長の年月坐禅で鍛へた下腹に力を一つウンと入れてこらへ、吹き出して笑うような、なめげな振舞はしない。先生は、戦の前は、あんなブザマな真似をするドイツの若僧はなかったと、繰返し繰返しなげかれた。先生を悲しませない為に、日本にも、あんなアミーバが居ると、思ひ切って言ひだす程の勇ましさが出て来なかった。「悪貨は良貨を駆逐する」で、こんな米ソ仕込みのアミーバばかりが、拡がって、人のたぐひは、全て、この世から姿を消すのが間がないかも知れない。

かうやって、ブラブラ歩いて居るうちに、修道院に着いた。とても美しい尼さんが、窓から首だして、「何か」と云ふ。先生は、「例の葡萄酒を一本わけてもらひたい」と、云ふ。

尼さんは、ニコニコして、うなづき、やがて、それを持って来て渡し、あとは、ピシャリと、あっけなく元の通り小窓の戸を閉めてしまった。しかし、その清らかで、穏かな気分は、いつまでも後に残ってあたりに漂ひ、そして深く心に刻まれた。聖母マリヤに明け暮れ仕へて居る人、その人は、先程のアミーバとは、十万億土ほどの隔りがある。この音楽の対位法は成立たない。

ところで、このおいしい葡萄酒なるものは、いつか私の口にも入るものと、少なからず当にして居たのであったが、うまいうまいと先生がヨダレを流さんばかりにして長々と御話だけして、それを承っただけで、遂いに御別れするまで、味はうことが、出来なかったのは、いつまでも口惜しい気がする。けだし、博言学者の先生のことだから、何か博言学か道徳学的に見て、私には飲ますべからずと云ふ結論にでも至ったのかも知れない。

その代りに、とても、おいしい昼飯を料理屋で頂いた。その時に、タバコを吸って灰皿に消したのを置いておいて、再びそれに火をつけて呑む私の癖を、先生からたしなめられ、「そんなケチな真似をドイツに来て、日本人ともあろうものが、してはいけない」と云はれた。かしこまって、御教への通り、人の前では致しませんが、ドイツの物価は、日本の四五倍なので、タバコ好きの私のタバコ代も、ケチにしなければ、懐工合にさはるのですと、申上ると、だまって、うなづいて居られた。それから、その敵討ちではなしに、別れしなに、先生のお好きな葉巻タバコを駅の店で、求めて差上げた。これは皮肉でも何んでもない。教へ子たるものは、みづからをケチにしても、先生や親には、たっぷり、物を差上げて、喜ぶ顔を見たいと言ふのが、人の常である。その情に従ったに過ぎない。

先生は、その時、例によって、厳めしく御顔をしかめられて、困って気の毒がって居られた。いい先生であります。

その夜は、宿に帰り、先生の色々な御心づかひに向って御礼をも兼ねて、夕飯を差上げた。バーデンバーデン行きの全ての掛りは皆先生が出して払って下すったのである。

先生と色々の話をしながら、夕飯をたべて、この地における終りの夜を楽しく過したことは忘れられない。先生は、日本語の新しい仮名遺ひを、博言学の立場から、小間々々ときつく責め、且つ、なじって居られた。まことに、御尤ものことである。私もオッシロスコープまで使って、験(ため)して見たのであるが、全く先生の学説通りである。このことは、先生ばかりでなく、アメリカの大学の教授たちも、同じ結論に至って居る。そして戦が終った後の最も悪いことは、今まで問題にされなかった例外がはびこって、例外を一般原則にすることを米国の力をかりて強いて行なったことだ。だから、全く科学をなみし、直して却って悪くしたのである。いよいよもって私は、仮名遣ひまでも、フラ付いた考を止めて、思ひ切って、昔通りにし、押通すことに心を堅く決めたのである。真理に生きることは、死をもって通さねばならない。楡の木の木蔭で、友と共にちかひ合ったことは、死んでも後に残さねばならないのだ。私たちは曲学阿世のヘッポコ学者やジャーナリストとは、違ふのだ。クラークさんからの筋金入りだ。

大いに先生の御話しに心を強くし、また申し訳なく思った。私はドイツに来て、日本を遠くから見直す折を与へられ、そして心は戦の前に前にと還らせられること許りだ。何かしらモヤモヤが取れて、スッキリし、本来の面目に還って行くやうな気ばかりする。日本人は、日本人に還ることが、最も安らかで正しいことなのだ。狂って居るとロクなことはない。なほ、仮名遺ひについての詳しい話は、「政治経済新論」にのせてある。

とにかく、夜遅くまで先生と話した。先生は夜霧の街を、幾度も幾度も振りかへっては手を振りながらお帰りになられた。私は街に立ったまま、涙がポタポタと土に落ちるのを、どうしようもなかった。

その夜は、お蔭で、どうしても寝つかれない。それに隣室での話声が気になって、なおさら眠れない。しかたがないから枕もとにあったラヂオを、聞えるか聞えないかぐらいの微かな音にして見た。そうすると、流れ出して来たのは、ドイツ音楽である。

私は、その時、初めてドイツ音楽を、身をもって少し解る事が出来た。と云ふのは、ここは、まぎれもなくドイツであり、その環境と、ドイツ人のなかにあり、そして、この環境と人とから、かもし出されて来る気分と云ふものは、この地に行ったものでないと、味はふことの出来ないものである。即ち音楽は人と土から離し得ないものなのである。私は、この辺りの気分のうちに、すっかり溶かされてゐる。だから少しも頭を、ことさら使って、頭で解ることはいらない。体の凡ての所からドイツ音楽が、入って来て、それに溶かされてしまった。それは何の不自然さもない、極めておのづからなものである。学生の頃、今は亡き森田海鳥から、難曲であるスクリアビンの《法悦の詩》のレコードと、スコアを無理々々押込まれて教はったりしたのであるから、洋楽には若い頃から親んで来たし、また和声・対位・旋律・楽式......と云った専門的なことも、一通りやったのである。そして、ひとっぱし、洋楽通のつもりでゐたのである。ところが、ここに来て、初めてドイツ楽を解ったやうに思ふやうになったのである。何んでも、やはり本場で聞き味はねば、解らぬものだ。何んと云っても、その環境の気分が物を云ふのである。

アルプスを越してから、晴れた青空は一回も見ず、来る日も来る日も灰色の空ばかりであって、気温はまだ十月なのに十度前後で厳しい寒さだ。そして秋から冬にかけて、春までは、こんな空の有様だとのことである。だから、ドイツ音楽のあの灰色で冷たい、そして厳しい気分が、そこに現はれて来るのであった。そして、ドイツ人といふ堅苦しく、ゴツゴツした威(い)かめしい民の心持も、この環境のお蔭をたっぷり受けて育って居るのである。

この土と人とからドイツ音楽が生れて来たのである。これと同じことがオーストリヤでも、イギリスでも、フランスでも云へることが、あとで身をもって解った。

しかしである。わたしはドイツ人ではなく、またドイツに生れたのでない。やはり外から見てゐるのであって、内から見てゐるのでない。だから真にドイツ楽が解ったとは言へない。そこにドイツ楽のこの世に占める場があるのだ。

汲めども底に至らぬ深さ、それを日本で汲んだよりも、深く汲んだと云うに過ぎない。まして日本の座敷や日本式洋間で、ほかの国の音楽を聞いても、それは冷凍ニシンを食べたやうなものである。そして、今、日本に帰って、ほかの国の音楽を聞くと、その時のことが色々と思ひ出されて、身も心も、彼の地に飛んで行き、懐しさに胸が熱くなる。それは民謡を聞いて、その古里や旅した数々の思出になつかしむ心持ちと同じである。

ここで序でに、民謡のことに触れておきたい。音楽は、土と人とから離れられないものであることは、前にも述べたが、その土と人とから音楽として、先づ初めに生れ出て来るものは、民謡である。だから民謡は音楽における母である。ドイツの民謡は、最もよく、ドイツ音楽の気分を現してゐる。これを大きくしたのが、室内楽や交響楽だと云へる。もっとも、他の国の音楽のお蔭を蒙ってはゐるが、何にしても、その底に流れてゐるものが、ドイツ魂であることは間違ひない。

このことは、日本にも当てはまる。人は民謡などは低い卑しいものだと考へるかも知れない。しかし、宮中や社寺で神仏に奉ってゐる催馬楽は、みな古の民謡である。この飾り気のない素直ほな野の叫びを歌ひあげて、神や仏と共に人々が、相なごみ、相楽しむのである。お盆には、今は亡き懐しき人々と共に慰め相ひ、楽しみ相ふのだ。これは礼記にもある通りであり、また古のインドでも仏典によれば同じであり、西洋でもさうである。これは、民族学の上からも、あらゆる民と土とにおけるものであることが知らされてゐる。だから民謡は、民族学・音楽学の上から云っても、徒らに卑しむべきものではないのだ。

それで、わが国では、却って神楽のうちに、これを入れて正楽としてゐる。そして、そのほかのお座敷唄や乞食唄、盲人唄など芸人のやるものを宴楽として、正楽の下において居るのである。

だから民謡は、卑しむべきものではない。これを卑しんで、はかの国の民謡の、例へば「螢の光」、「庭の千草」、「ロンドンデーリー」などをあがめ奉ってゐるのは、私にとって解らない事柄だ。まして、その我が国の民謡を基にして、室内楽や交響曲を作ること、チャイコウスキー、リスト、ベトフェン、モツァルト、グリーク、バルトーク等々の如くでなくて、ほかの国の出店のように、ほかの国の音楽に肩を入れ、それを伸してゐるのは、余りに、ほかの国に手伝ひ、筋を立て通して、己れを忘れてゐる訳の解らない担ひ商人の押売り見たいに見える。星ばかり見て歩いて井戸にたたき落ちた賢い人のようにならねばいいがと、少なからず心を痛めてゐる訳である。

とにかく、民謡の野の叫びは、最も多くの国民に歌はれ親しまれてゐる。それは、魂をその本領に還らせ、その心の古里に立ち還らせる。最も健かな心へ向ふことをなさしめる。これを歌ってゐる時は、文句なしに、いい気持になり、心がセイセイして晴れやかになる。ことに、戦の後で狂って、いつも難しい渋い顔して口尖らして額に八の字をよせてゐる学者、ジャーナリストなどは、民謡を歌ふべきだ。赤旗かついで労仂歌をうたって蛇のように街を、のたうち回ってゐる者たちも、民謡を歌って、少しのほほんとノンビリした、ゆとりのある構へをしたらどうか。この町練り歩きも、ほかの国の出店での真似だ。日本人とは、オランウータン族なのだらうか。もっと、ほかに為すべき大事なことがあるのだ。それを忘れて、心をうはつかせ、眦をつりあげて、のぼせ上ってはなるまい。

とにかく、民謡は、心から大らかに、しっとりと何のこだわりもなく、人々の心を溶かし、心を振ひたたせる母の乳である。これを基にして、室内楽や交響曲を作って行くのが、音楽としての本筋である。普化宗尺八曲には、こんな編曲が、数多いのであり、三絃の名曲の琉球組や箏の組歌にも、こんなのがある。それを伸して行くのが、音楽人としての務めでなければならない。最も多くの国民に親しまれ、そして、その編曲を望んでゐる国民の心を、顧みずに、あらぬ方に音楽を持って行き、国民から離れて浮き上ったアイマイ屋の顔色ばかり気にしてゐると云ふことは、頭が少しどうかして居ないか。とにかく、国民を相手にせず、無国籍のさ迷へるオランダ人の人民ばかり相手にしてゐる手合ひは、やがて国民から消されてしまうだらう。それとも、このコレラ菌は、国民を凡て滅すだらうか。例外を一般原則とする誤りを、ここにも見出すのである。

とにかく、民謡はいい、耻かしがらずに一ぺん、とっくと歌ってごらんなさい。悪いことは申しません。

私は、演奏会で交響楽団が民謡の伴奏をやって、聞いてゐる人々が皆で、民謡を唄って共になごやかに相和し、相喜び、相楽しむようであってほしいと思ふ。「至楽は、天下の民和す」、「楽」は「仁の和なり」である。人は心から打ちとけて相和する時は、手を拍って、体を振り振り歌ふものである。そして笑ひさざめくのだ。世界の平和を叫ぶ前に、先づ日本人は皆、かうやって、溶け合ひ許し合って和を保ち、心を一つにして、それから、これを世界に押し進めて、真の平和をうち立てねばならない。その為にこそ、ほかの国の民謡も役立つのだ。そして、私は、これを歌ってパリで、狂った若い男女を、なごやかにしたのである。

民謡は、その国民を育てる子守唄である。

先づ、限りがないので、民謡より初まる音楽のことは、この位にして止める。なほ民謡については、先輩の権平昌司教授がゐられるから、とくと、その話を承り、そのお人柄の温やかな気分にふれて下さい。きっと、心がなごやかに広々とします。誰れでも、この先輩にお逢ひして、少し話して居ると、気分がよくなるでせう。この先輩は民謡そのものです。

さて、話は元に還る。私はラヂオのドイツ音楽で気持がよくなり、安らかになって、ねむりについた。次の朝早く、荷物を取りにクレンプ先生のお家に行かうと思ってゐたら、重い荷物を二つの手にブラさげて先生がわざわざ持って来て下すった。そして、「行ったり来たりして、煩はしいだらうから、わしが持って来た」と汗をふきふき云はれた。私は目の奥が再びジーンとして来て、物が言へえなかった。だまって頭をさげ、先生の手にしがみついた。

宿の払のことも、先生が仲に入って下すって済ませ、宿の掛りの人々や給仕にも別れの言葉を、親しく交して、先生と二人で駅に急いだ。そして、ハイデルベルク行きの列車に乗った。先生は荷物を、車内まで運び網棚にまで乗せて下すった。ホームに立って、ニコニコして居られたが、列車が出て、段々遠ざかるに従って、真面目なお顔になった。そしてクルリと後向きになって歩まれた。恐らく、ストイックの厳しい先生は、悲しそうなお顔を見せたくなかったのだらう。どんな悲しい終戦の時の話を申上げても、カッと大きな目を、ことに開き、その巨眼がうるむだけで、ジーッと歯を食ひしばり、口をへの字にして、こらへにこらへてゐられる先生のことだからである。先生と云ふ方は、さうしたお人柄なのである。まことのドイツ魂を持った、男らしい方なのだ。私は、先生のお姿が見えなくなるまで、ジッと涙をこらへて窓から見てゐた。先生が、いつもサッポロにゐられた頃、繰返し繰返し叫ばれたSind Sie echte Japaner?の言葉を、心のうちで繰返して叫び続けながら......。

Heidelberg

あこがれのハイデルベルクへと列車は進む。あたりの眺めは、北海道とよく似てゐる。前に坐ってゐる若い人と、色々な話をしてゐるうちに、やがて目指す所に着いた。荷物を駅に頼んで町に出たが、ハイデルベルクのまことの町は、ここから電車で二分ぐらい行かねばならない。そこに着くと、まだ朝が早いので誰れも通ってゐない。終点まで行って、ネッカー川のふちで降りた。そして川の眺を橋の中程に立って眺めた。この川沿の眺めのことは、しばしば書物で美しいことを読んでゐたが、来て見れば、それ程でもなく、川水は濁って居り、極めて当り前のもので、少しガッカリした。引き返して町中をブラついて本屋により、私の専門の造園学の新しい本を買った。本屋のオバさんは、ニコニコしてゐて親しげにしてくれた。遠い日本から来たせいもあるだらうし、また日本は戦の時に仲間だったので、ドイツ人は凡て日本人には、よくしてくれる。私はこの心をいつまでも共に、末長く裏切ってはならないと思った。

この町の名高い古い城を見ようと思って、この町のしるしである古い狭い路々を通って、山に登りかけたが、余り遠いようなので半ばで坂を下りて引きかへし、再び町中をブラついた。大学は、あちらこちらに散らばって立ってゐる。全くの学都である。その古めかしい町、狭い昔ながらの道々は、ことに心に残る。ものの一時間ばかり、町をブラついたので、もうこの位でと思って、再び電車で駅に引き返した。荷物を受取らうとして、預り証を探したが、どうしても見つからない。私は困った。Frankfurt行きの列車が、間もなく来る。それにどうしても乗らねばならないのだ。ジリジリして探したがない。致し方なく駅の掛りの人に訳を話すと、「宜しい宜しい」といって、その訳を書き、サインをさせられて、荷物を渡してくれた。その時である。荷物扱ひの、この人がスーッと出て来て、重い私の二つの荷物を軽々と持って、私について来いと云ふ。そしてホームまで持って来てくれ、ここに列車が来るから待って居ろと云ふ。お礼の金を渡さうとすると笑って手を振って要らないと云って、幾度も後ふりかへり、ニコニコして階を昇って帰って行った。私は何んとも言へない有難さの心で胸が一杯になった。私は生れてから既に六十年だ。その間に、日本の駅員で、こんな人に一人もブツかった試しがない。皆厳つい顔して、ブツキラ棒で、形だけ言葉がうやうやしくて、人を罪人扱ひしてゐる。ある時などは、たまりかねて、怒鳴り付けたことも、しばしばある。おまけに、赤旗ばかり担ぎ廻ってストばかりして、我々を困らせて許りゐる。そして、列束の時間が正しいことだけただ一つの誇りにしてゐる。こんなのはない。荒々しい雲助や狼よりも、もっと劣ったケモノに過ぎない。私は、この事を思ひだし、胸糞が悪ままにフランクフルトに着いてしまった。

Frankfurt, Dusseldorf Koln

フランクフルトは、昔からの古い町である。駅前にあると云ふ日本航空の支店を、重い荷物をブラさげて、やうやう探し当てたが、家移りして居て、どこに行ったのか、さっぱり解らない。日本人のする仕事は、凡てこんなものだ。

ボンヤリ立って居ると、通りがかりの人が、ツカツカと来て、日航支店へ行くのかと云ふ。さうだと云ふと、手控へを開いて、その所を教へてくれた。そして、ニコニコして去って行った。お蔭で助かり、車に乗って、そこまで行った。そして、手続きしてもらひ、車で飛行場まで序があったので送ってもらった。飛行場のターミナルの食堂で、この送ってくれた人に礼として、夕飯をあげた。その時に食べた魚のヒラメは、何の味もない。もとより、ヨーロッパの野菜でも肉でも果物でも、凡て何の味もなく、うま味などは更にない。土がひどくやせて居るためである。私は札幌で学んだ時、西欧の土が、こんなにまで、やせて居ることは習はなかった。明治の日本の学者たちは、西欧の最も進んだ良い模範的な試験場や大学の試地のやり方だけを、持って帰ったことが解る。この事は敢へて土壌学や肥料学に限ったことではない。凡てにおいてさそうなのだ。だから、西欧々々と云っても、押しなべて凡てが進んでゐる訳ではないのだ。むしろ国が小さいだけに日本は、すぐに何んでも広まるので、食物なども、こんなに良いうまい物が、出来るようになったのだ。いう迄もなく、寒さ暑さの移り変りや、日の照り様などが大いに響いてゐる。

とにかく、西欧の食物はうまくなく、日本のはおいしい。と云つて、少し日本のことをほめると、すぐに己惚れて、更に前に進むことを忘れて、ピンボケになる、オッチョコチョイが、日本人の悪い癖だから、これは慎しまねばならない。

とにかく、それは、それとして、飛行機に乗って、四十分程でDusseldorfに着いた。日航の人に迎へられ、その支店に行き、更に支店長の私宅に招かれた。この家は、市で建てたものとのことであるが、室のなかの窓ぎはに、それに沿って温床が作ってあり、そこに草花を植えてあるのは、新しいやり方だった。何の事はない植木鉢を大きくしたようなものだ。しかし、室に蒸気が通って居ていつも暖いから温室と同じだ。だから、こんなことも出来る訳で、これは段々日本でも行はれるようになるだろう。色々と楽しい話をして、ビールをのみサメの卵を食べたが、これはうまかった。北海道の筋子を思ひ出した。

そして別れを告げ、車で送って頂いて、夜更けにケルンの宿を、やうやう探し当て落ちつき、疲れ果ててゐたのでグッスリ寝込んだ。

次の朝早く起きて、東京で知合ひになり、私を招いてくれたDr.Mersmanを訪ねる為に音楽相談所を訪れた。仝氏とは、武蔵野音大で逢った。それは音楽学会の頼みで、仝氏に私の普化尺八を聞かせてあげる為だ。その時、彼は世界一と云はれる音楽学者であり、評論家であるにも関らず、首を深く椅子に埋めて、感に堪へぬようにして聞いてゐられたが、曲が終ってつと首を上げると、物につかれたように、暫しその評語を夢みるような目ざしをして談られた。そして、そのうちで最も心に残ったのは「天の楽とも、はた地底の楽とも分ちがたい」といふ言葉であった。

そして、ドイツに来て各音楽大学で日本音楽の話をし、また尺八を吹き放送もしてほしいとのことだった。私は、その前に来たDr.Stuckenschmidtからも、ほぼ同じような讃め言葉をもらった。そしてシュ博士の如きは、わざわざそのことを芸術新潮に書いた程である。かやうになるには東京芸大の野村良雄教授や日大の土田貞夫教授や立大の辻壮一教授らの学会の主だった友の御力によるものである。

私は学生の頃から既に四十年、邦楽の専門誌に筆をただで執って来た。それは日本楽を伸さんが為である。どこの国だって、己が国の音楽を重んじない国はないのだ。ドイツなどでは、ドイツ楽をイギリス人やフランス人がやっても、しっくり来ない。まして日本人などがやって聞いていて辱かしい思ひをする楽にして欲しくない。ドイツに辱をかかしてくれるなと頼む。まことに尤のことだ。また、ある日本の交響楽団がドイツに行って、彼の地の楽をやった時ドイツの人々は「我々は、我々の楽を、わざわざ遠い日本から来てやってもらはなくても、もっと本場ものが、こちらにあるのだから、敢へて聞きに行くことは要らない。やるなら日本の楽をやって欲しいものだ」といった。これも尤もな話だ。しかし、ドイツその他の国へ行って、雑り気のない生粋の日本交響楽をやるとしたら、それは一つもないのだ。はばかりながら、私が北大に捧げた「虚空」の外にはないのである。

私は大学出た時に、虚無僧をして歩いて、中里介山氏に知合ひとなり、氏は、私の尺八を日本一だと云って新聞にもかき、また「大菩薩峠」のなかにも書いた。然るに芸人どもは、よってたかって、これをつぶす為にあらゆる手立をした。私は尺八吹きではないから何んともない。宮城県の名高い松島公園の新しい設計を県庁に務めながら、ノン気にやり、松島の月夜にひとり尺八を吹きすさみ、瑞厳寺で坐禅して暮した。しかし、日本音楽についてのことは、更に深く考へてゐたのだ。

そして、戦になり、シナの南京の大民会主席顧問を軍から頼まれてやり、日本に帰ってからは、もと北大教授だった恩師森本厚吉博士のやっておられた女子経専(今の女子短大)で教へる側ら道場を開いて剣禅笛の普化宗を広めたのであった。

そして戦が終ると共に、凡て公職を退き、孔子にならふ訳ではないが、「退いて楽を正す」仕事を十有余年つづけて来たのである。それは、日本のインテリが余りに冷たくて血の気がないのを、何んとか目ざめさせたいと思ったのでもある。それで本腰しを入れて、広く世界といふ立場から日本楽を見直すことをしたのであった。よく夜明しして真鶴の山の家で日々を送った。母や妹や妻子や友は、この金にならない仕事を、よく助けてくれた。そのお蔭で、かうしてドイツに来ることも出来たのである。

私は、メルスマン博士たちによって、世界的たることを認められたのである。それは専門の造園学で世界的たることを認められたのと同じだと、恩師伊藤誠哉前学長が後で慰めて下すった。至らぬ教へ子は涙ながらに伊藤先生にお礼を申上げた次第である。

それは、とにかくとして、私はメルスマン博士の御言添へで、ケルン音大に行って日本音楽の講演をテープ入りでし、また普化尺八を吹いた。曲は「虚空」。拍手鳴り止まずであったが、病のあとと旅の疲れとで、心残りであったが、もっと吹いて、これに応へることが出来ない。止むなく、持って行った絵を、好きな人にやることにし、手をあげろと云ったら皆あげた。

絵の数は少ないので困って、早く取りに来た人から差上ると云ったら、蟻のように急いで列をなした。限りある絵なので皆に渡らない。終りの多くの人々は口惜しがって、その代りにサインだけでもしてくれと云って動かない。私は芸人でないから、サインすることなどは好まぬのだが、気の毒に思ひ致し方なくサインしてやった。

私は、ドイツに入って初めて、音楽の専門家たちに講演をし、尺八を吹いて聞かせたのである。しかし、シュ博士、メルスマン博士といふ世界的な学者に既に聞いてもらったのだから、気安すかったが、それでも、これ程、ドイツの音楽人たちが狂った様に熱くなってくれるとは思はなかった。やはり、音楽については、ドイツ人は深いたしなみを持ってゐることが解った。日本のインテリは、まだまだダメである。そして、下らぬソネミ根性が先に立って、己れが利益にならぬと、何事も感心しない。そこには真も善も美も何もない。あるのは最も卑しむべき名をうることだけである。私は、私と仝じ同胞の一部の者をかく罵るのは、まことに口惜しいことなのだが、どうもさうなのだから、致し方がないのだ。私は西欧を歩いてゐて、ほんの束の間も淋しい空ろな思ひをしなかったが、日本に勢ひ込んで帰ると共に、これを書ゐてる今まで、どこへ行っても、淋しい空ろな日が日々続いている。日本は砂漠だ。しかし、私たちの仲間は世に勝たねばならない。

私の最も好きなスェーデンのグリークは、多くの名曲を作ったが、それを少しも解らない国人を悲しんで、作曲を止めて、ただひたすら、音楽を教へて人々の目を開いた。そして、年老ひてから再び、美しい名曲を作って世に残してゐる。私も、これにならはねばならないと、若い頃から心を決めて、今既に六十を過ぎんとしてゐる。わが国民のうちインテリ族は、美しさを知らない哀れな野の人なのである。美ばかりでなく、真も善も知らない。ただ、真似が、大方の者よりうまいだけで、ケモノのように食って、争ってこの世を終る未だ人のうちに入らぬ者たちが多いのだ。人権を言張れる程にも至っていない。そんなことは、とんでもない話だ。こんなことを書くと、必ず怒って、私をはりつけにするかも知れない。しかし、私はウソを言ふ訳にはいかない。それだからこそ、かうやって忍んで、この世には美しいものがあるのだ、美しいものとは、どんなものか、美しいものを感ずるには、かう心を進め開かねばならぬのだと、宣べ伝へて止む時がないのである。

身近かにある我国の天才が残した美しい曲すら解らない者たちが、どうして物遠いほかの国の美しい音楽が解るだろう。ただそれは、解った振りするインテリのダテのミエに過ぎないのだ。そんな偽りの心は棄てて、初めから出直さねばならぬのだ。

話は元に戻る。私が、このケルンの音大で話をすることを、そこの教授は、廊下をブラブラしていた日本の女の留学生に知らせ、これを伴って来て、講演会場の私の坐る椅子の側に坐らせた。この美しい娘さんは、ビックリしながら、辱かしそうにして、モヂモヂし私の傍に坐ってゐたのである。横浜のある医博の娘さんで、芸大のヴァイオリン科を出て、すぐに、こちらに来たばかりだとのこと。おとなしくて、しかもシッカリしたやうな子である。しかし、初めて私にあったのであり、洋楽畑で学校を出た許りなので、邦学畑の私の名などは、言ふまでもなく知らない。

だから、大いに怪ったいに思ひ、気を引きしめてゐるようにも見受けた。それに教授や学生や楽人たちを、しり目にして講壇に私と共に坐らせられたのだから、訳が解らなくなり、心のうちで冷汗だったらう。

拍手鳴り止まぬ様で会が終ったあと、ホッとした面持ちで、私について来て、「日本音楽といふのは、こんなに美しいものだと云ふことは初めて知った」と繰返し繰返し独り言のようにして、つぶやいてゐた。まことに、そうなのである。そして、どうして、まことの美しい日本楽があることを、大学を初め小・中・高校では耳を、ふさがせて教へないのだらう。つまりは、これらで教へてゐる教師たちが、まことの美さを知らないのだと云ふほかない。

そして、ヤミクモに、外国のものは馬の糞まで、よいものと思ひ込んでゐるに過ぎない。まことの美しさとは、どんなものかを、知らない音痴なのである。

それにつけても、小さい時からヴァイオリンを弾いて来たのに、日本楽の美しさが解る、この娘さんを、私は不思議な物を見るような気をして、ポカンとした。どうも解らない。

しかし、このことは、日本に帰り、その親御さんの、博士にお目にかかった時に、ヒョックリ、解った。同博士は、音楽家になりたかったのだと云ふ。そしてギターのまれに見る隠れた名手であった。その血を受けてゐるので、生れつきの楽人であり、音楽美のことは、直観的に解るのである。

夕飯をともにして、色々と話しすると、ビックリすること許りだ。先づ、楽人として世に立つつもりかと問うと、「いや嫁に行きます」と、事もなげに言ふ。それでは、お婿さんを世話しませうかと言ふと、「いいえ、私の父が選んでくれます」と云ふ。私は目を丸くして、飛び上らん許り驚いた。まだ、こんな日本人が、この世にあるのだ。なぜ、お父さんに選んでもらうのかと云ふと、「私のような世の中のを知らない者が、人を選ぶことは間違いです」と云ふ。私は、歯が立たない。すっかり、この賢こい答に、うれしくなった。これは父の博士に説いて、私の最も愛する北大の後輩の内の誰れか勝れた者に、め合せたいと思った。ほかの者には、奪はれたくない。私の娘のような気がした。

それに、ドイツに来て「風呂に入る度びに、湯槽のなかで、オ父サン、オ母サンと云って声をあげて泣く」と云ふ。「なぜなら、こんな個人主義の国に来て、初めて、日本の家族制度の良さが身をもって、シミジミと解ったからだ」と云ふ。芸術家は情に生きて居るのだ。個人主義などと云ふ狭い牢屋(シトヤ)に閉されてゐるのでない。この牢は、孤独であり、限りなく淋しいものなのだ。このことを知らずにゐる片輪の日本の学者は、まことに刑務所の独房に入って見るがいい。必ず、人は個人主義では生きられないことが解るだらう。犬猫みたいに、己が女と許りいちゃつく金はあっても、親を追放ふバカ者はオランウターン時代の代物に過ぎない。何かと言ふと、こいつらは損得のことを持ち出す。そして、親を養ふには金がかかると云ふ。だから、これをほり出して、皆の金で養ってもらいたいといふ。それは、己が責めも務めも棄てて凡て人にその尻をぬぐはせやうとする卑劣極まる心根でしかない。親の為に、もっと仂けば良いではないか、もっと金もうけすれば良いではないか。また親子のことは法的に定めなくてもよい、愛情の問題だ等と云ふバカ者も居る。法は義理人情を認めるべからざるものなのか。それなら何故、夫婦間のことを法的に定めるか、愛情は人の持ってゐる人の心の一部である。もしもこれを認めぬなら、罪人でない人の半端な部分だけ認めて、人の凡てを認めぬことになる。それが法か。それは凡そ論理学的でない。以って真ではない。そして美でもない。パリを去って暗い北極を通ってゐる飛行機のなかでも、ある大学の法学部長をつかまへて、このことを話合ったが、この人は同じ考へだった。とにかく前に述べた奴らは、例外で国民が行なって居ない事を法律にまでして一般原則としようとする。私は、近衛文麿、林銑十郎大将らの元首相たちに請はれて禅を説いた身である。だから、これら凡ての肩書でおどす愚論には、ひけをとらない。そして、この考へは古いのではない。却って、彼らの考こそ、類人猿の時に古めかしくもあとしざりしてゐるのだ。私は常に国の永遠のことを考へてゐる。とにかく、戦後には何事でも、例外を一般原則としようとする最も悪い癖がはやってゐる。僅かの学問にのぼせ上って気が少し変になってる證だ。頭に氷枕でもかぶせて、少し冷してやらねばなるまい。とにかく、大方の人々の心持を少しも知らず、象牙の塔に閉ぢこもってゐて、気が狂って居り、全く常識と云ふものを欠いてゐる者たちのことを罵ることは、先づこの位。

次の日は、メルスマン博士が、わざわざ手引きの人をつけてくれて、その上に小費として多くの金をくれた。それで、前に述べた娘さんや、その外の留学生を誘ひ出して、食事をしたり、博物館や全欧に名高い古教会に行ったり、映画を見たりした。

つつましやかにして留学してゐるのが、今の留学生なのだから、出来るだけ、彼らを賑はしてやるべきである。日本の代議士のように、あごで彼らを使ひ、車代まで出させ淫売買ひ許りして、西欧の淫売賃を釣上げたりするのは、国の辱だ。その為に募金にひどく差支へると、日本から来たカトリックの尼さん達が、こぼしてゐた。これはケルン駅前の尼さんたちが泊ってゐる所で聞かされた話である。

次の朝は、再び音楽相談所にメルスマン氏を訪ねた。それは放送の打合せの為である。ところが、私は三度、ここを訪れる訳だが、その度に、車賃が違ふ。同じ道を同じ所まで行くのだから、車賃も同じであるべきなのに、それが車によってメーターに出て来る数が違ふ。これに出て来るのだから、仕方なく払うが、何んとも割り切れない。つまりは、正しく確しかだと思ってゐたドイツの計量器も、作る所がマチマチであったりするので、さう確しかなものでないことが解る。これは敢へて計量器ばかりのことではない。それを作る所のドイツ人でも、ピンからキリまであり、どこの国の人々も大方同じなのである。そのことは、段々に解って来た。よその国の人や物だと神仏よりも尊しとする輩は、どうも頭がおかしいと云ふことを、ここでも、しみじみと考へさせられた。彼らは常に観念的で空想のみ多く、その真の姿を知らず験さうともせず、いつも懐手して空ばかり渋い顔して見つめながら、あらぬことを考へてゐるのだ。

それはとにかくとして、メルスマン氏に伴われ、昼近くに教会の近くにある放送局へ行った。メルスマン氏は、私のために廿分も解説を吹込み、その後で普化尺八曲「虚空」を吹込んだが、もっと吹いて欲しいとのことで、自ら作曲した「夜坐吟」を吹いた。これは芸大の野村教授を通してMunchenの放送局から前年頼まれて、テープにして送り、既に放送されたものである。そして好評を得て試験済みのものだから、安んじて吹込める訳だ。なほこれらは凡て、知っての通り録音しておいてあとで放送するのである。

私が吹込む時に、傍のピアノにもたれて、ウッとりして夢みるような目をして聞いてゐられたメルスマン博士は、吹き終ると、ニンマリと笑って、感激して手を私に差しのべられた。私もまた胸ふるわせて堅く同博士の手を握って、あつくお礼を申しのべた。世界一といはれる音楽学者で評論家が、わざわざ廿分も私のために解説して下すったのだ。このことは、ドイツにおいても無いとのことだ。

私は日本で二人の首相から師として尊ばれた。そして今また、遥々ドイツに来て、こんな取扱ひを受け、世界的たることを認められた。私は敢へて名を求める為にやったのでない。苦しんで努めて来たに過ぎない。その果が、ただそう成ったのだ。これで報はれたのだと思って、何んとも言へない気持になり、ボーッとした。世には名や金を得んが為に、学に勉める者が居る。だから名を得ると学を止めてしまって、こんどはそれを使って金儲けにかかる。学はその為に新たな面を少しでも開くから宜しいが、その人は学を悪く使うことになる。死ぬまで学を止めてはならない。それが義務だと同じ北大出の弟新吾が学位をえた時も、堅く戒めた。

そして私は、いよいよ研究に励んで弟にこれを身をもって示さねばならないと思った。これが兄としての厳しい務めである。幼くして父を失った弟にとっては、私は親代りである。しかし、私は母や弟妹や友に何一つ与へるものはない。ただ身を以て、しくじりと、よかったことを示し、嘆きと喜びとを与へてゐるに過ぎない。私は、メルスマン博士と別れての帰り道に、こんなことを考へてゐた。遠く古里を去ってゐて、思ひ出すのは、やはり、身の廻りについてゐる人々のことだ。それは、凡てがどこへ行っても、私から離れない大きな私なのである。その夜は、留学生たちに囲まれて、乾杯したかったが、止めて慎んで夕食を共にしニュース映画を見た。

先々の旅を思って私は、宿の近くの店からパンとハムと果物と牛乳、それに瓶づめの水を買って来ては、ひとり食べてゐたのであるが、いつも、この店の者と冗談をとばし仲よくなった。ある時、店に素張らしく肥った大きな婆さんと、私より小さなやせた婆さんとが買物に仲よく来てゐた。その和音法が頗る妙だったので、その二人に向って序でに冗談を飛した。ドイツでは、年とる女は大方肥る。それを肥ってゐる丈夫そうだ等と、おべっかを使ったら、たちどころに、お冠りが斜めになり、二目と見られない凄い顔付きされる。そこで百貨店でも肥った者向きの衣類にはstark用と書いてある。それで、私は「あんたは、とてもstarkで、まごまごすると、私の首根っこをつかんで釣し上げて、道におっぽりださないとも限らない。さうすると私は紙のように平たくなってしまう。あなたは、それを包み紙にして、ジャガ芋を包んで、その手さげ籠に入れて持って帰り、後はポイと塵箱に棄るかも知れない。だから恐しくて側に近よれない」と身振ひして見せた。店中の者は横腹をたたいたり、飛上って笑ひこけた。そして次の朝早く、宿の表に立ってゐると、後から私の背中をドヤシて、声高に笑って通り過ぎる婆さんがある。ビックリして後を向くと。昨日の婆さんの敵打ちだった。

ドイツ人は、理屈っぽく気むづかしい民である。だから、冗談は、それを補って釣合を保つ。これは全く理屈とは別な世界だ。そこでホッと彼らは息を抜くのだ。

クレンプ先生が、これだけは覚えておいて、度々使へ、そうすると、そのしるしの、あらたかなことが、すぐに解ると云って教へて下さった言葉がある。それは、Rotwein ist fur alte Knaben, Eine von den besten Gaben.

わたくしは、宿に夜遅く帰ることがある。疲れ切って居るので、前の酒場で一杯のビールを傾ける。そこには、十五、六の子供も来てゐて。フラフラに酔ぱらって、やはりクダを巻いてゐる。西欧人は酔ってふらつかない等と云ふのは、いやに取りすました公式の神士淑女の集りにしか出ない通り一ぺんの、日本の偉い学者先生や実業家や代議士のいふ言葉だ。私のように場末の安宿に一人でポツンと泊り、当り前の、そこらの人々とつき合ってゐたものとは見方が、まるで違ふ。どこの国の人だって同じ人なのだ。酔っぱらって夜更けの道に長々とイビキをかいて寝てゐたり、塀にもたれて腕組し、口をムニャムニャさせてるドイツ人を、行く先き先きでこの目で見てゐる。

とにかく、ビールを一杯だけ呑んで、いい気持になって宿に帰ると、帳場の爺さんが、鼻眼鏡越しにジロリと見る。それで、クレンプ先生から教った例の名句を、爺さんに云って、そのはてに、「いつか一杯一緒に飲まう!!」とやると、爺さん、この句を繰返し繰返し口の中で言って見て、室が割れるような声を出し、アッハハと笑ひこけて、立ったり坐ったりして、ゐたたまらぬやうにして、笑ひ出し、私が三階の階段を昇り終るまで、その笑声が続いてゐた。それから、すっかり、この爺さんと仲よしになり、互に肩をたたきながら話合ふ友達になり、何んでも私のいふことを聞いてくれた。凡ては和だ。和によってこそ、凡ては栄え喜び生々として行くのだ。日本のインテリは、いつも角つき合せ、腹を探り合ひし、競馬馬みたいに、いつも相手に勝って、それを誇りにしたい気持で一杯だ。何んと云ふイヤらしいバカ気たことか。私は、かれらと話すよりも、犬猫と遊んだ方が、まだ肩がこらなくていいから、研究の合間には、犬猫と遊んで気を安めてゐる。そして、ドイツ人も、まことに無邪気なころがあって面白い。話せる所がある。

私は、この親しくなった人々と別れを告げねばならぬ朝が来た。その朝は、例の爺さんは居ず、知らない初めての者が帳場にゐた。こいつは、いやな奴で、約束通りの宿料よりも高くして支払はさせられた。ドイツでも、やはり、こんな奴もゐるのだ。それからタクシーを呼んでもらうと、呼ぶ金と電話料とを取られた。朝早いのにわざわざ迎へに来てくれたあの娘さんたち留学生に伴はれ駅にかけつけて、Bonn行きの列車に乗った。所が、後で解ったのだが、それは急行でBonnに止まらないのであった。留学生たちは、目に涙を浮べて、いつまでも手を振ってゐた。

「人にして仁なくんば、礼を如何せん。人にして仁なくば、楽を如何せん」。鳥すらも情けの枝に止るのだ。この最も高い心の仁に腰を据へずに、つまらぬことに、義人ぶるのは、人から煙たがられるだけだ。私は元禄時代からの学者の家柄に生れたのだが、「学者とパリサイの徒は」イエスの言った通り真平らだと、ドイツの大学で臆面もなく至る処で言って歩いたが、皆が大笑してゐた。かくして空山、ヨーロッパをまかり通るだ。

Bonn

ボンに降りるつもりだったのが、急行だったので、そこには止まらずに、行過ぎてしまひ、次の駅で降りて、ボン行きの列車に乗った。その為に料金を多く支払った。ボン駅で下りて、車に乗って大使館に行く、それはウヰーン行きのことを旅券に付け加へてもらう為だ。序でに、ケルンの留学生たちから頼まれたことを云ふ。それは京大出のある留学生がベルリンに行った時に、懐かしいままに領事館に立寄って一寸挨拶をしたら、館員は「我々は忙しいのだ。君らのような者の相手して居れん。挨拶など来なくても宜しい。さっさと帰り給へ」とケンもほろろに言はれたとのことで、プリプリして居た。忙しいのだらうが、そこは、やさしく諭してやればいいのだ。何も悪いことをしたのでない。明日たべる米のない苦しみを知らぬ金持の子で、世の中のことは何一つ知らず、大学を出て直ぐに、役人などになったものは、人の気持など思ひやる心は少しもない。己れは懐手してゐて何もせず、人のやったことにケチ許りつけ、己れが気に食はぬと、上でも下でもつっかかる。我儘坊っちゃんのせいだ。

そして、内から物事を味って見ずに、外からグルグル回りながら見て、形の上のことばかりしかつかまへず、何の役にも立たない屁理屈を並べ立てる。これは、ただ人々の妨げになる許りだ。音楽に向ってもそうだ。ことに日本音楽などになると習って見て初めて、その妙所が解る。それを何んの足しにもならない四度構成だの五度構成だのと騒いで学者ぶって、青二才の癖に、六十過ぎたこの私に君づけして呼ぶ無礼な奴もある。二言めには教養々々というが、礼の仕方も知らない。いはんや茶道のフクサさばきをやだ。あきれ反って物も言へない。戦が終ってから民主々義の名によって、ミンもクソも同じ質のものだと心得てゐる非科学な者が、大きな面して世にのさばってゐる。人たるの権利は頭は持って居ず、足だけが持ってあると考へるのが民主主義だ。君主だの、民主だのといふ役にも立たない観念遊戯は止めるべきだ。上下心も一つにし仲よくすべきだ。権利は上にも下にもあるのだ。

とにかく、政治屋・役人・学者などという者たちは、あまり威張り散さず、思ひやりと云ふものをもっと持つがいい。これらに逢ふと氷枕みたいに冷んやりして、思はず寒気がし身の毛がよだつ。こんな風なことを大使館の者に向って話し、この後とも領事館員によく気をつけさせるよう話した。その人は、おとなしい人だったのでよく解ったらしく、仰言の通りにすると誓つてゐた。序でに、クレンプ先生がスシを食べたいと、幾度も繰返し繰返し絶叫されてゐたので、もし大使館で、何かの集りの時、これを作るようだったら、クレンプ先生を、よんでやって欲しいと、よく頼んだ。これも引受けてくれた。大使館の車を出してくれたので、それに乗って駅にかけつけ、再びフランクフルト行きの列車に乗った。目指す所に着いたが、ウヰーン行きの飛行機の都合で、その夜は、ここに泊ることになった。

日航の人に頼んで駅前に宿をとってもらひ、夕飯を、日航の人から頂いた。支店長は、私の知合の神奈川県教育長に使はれた人とのことで、色々と世話してくれた。

次の朝早く起きて、ブラブラ歩きしほがらGoetheの居た家を見に行った。そこで珍しく思ったのは、彼がピアノの原形の古い楽器を二つも持って居て、それを弾いて心を慰めながら本を書いたことだ。この家は、まことによく昔のままに残されて居て、家具などもそのまにしてあり、ただゲーテが居ないばかりであった。その夜の飛行機で、ウヰーンへ立ち。十二時過ぎにウヰーンに着いた。

Wiener

迎へに来てくれる筈の大使館の人が来ない。あとで解ったことだが、この言伝てを頼んだ日航の人が内田大使に伝へてくれなかったのだ。この為に宿をとるにも困り、また、ウヰーン行きの凡ての掛りを持つから来るようにと言はれたハンガリヤの公使小川清四郎氏が、金を持って来る隙がなく、そのために大方の金を私が出すことになり、それで後々の旅の金が乏しくなって甚だ困った。日本のインテリは、責任と義務とは果さず、権利ばかりわめき立てるのは、世界でも名高い。いつも懐ろ手ばかりして、金ばかりねらってゐるハゲタカである。またしても、私はシテやられたのだが、恐らくこの事は死ぬまで続いて、そして私の命を縮める最も大きな因となるだらう。今までの凡ての苦しみは、彼等のムゴタラしさから来てゐる。そして私を助けてくれたのは、いつも名もなき民であった。まことに知慧の木の実は、人の類を天国から突き落す。

とにかく困って、飛行機会社の人に頼んで宿に泊り、次の朝、大使館に電話したら内田大使みづから電話に出て、気の毒がり、直ちにBudapestの小川公使に電話し、すぐ来るようにしてくれた。小川公使は、ビッくりして次の日の昼に、四時間車を飛ばして、かけつけてくれた。

それで、とにかく、その日は町を見て歩くことにし、留学生を大使館でつけてくれた。彼につれられてBeethovenの住んだ所や議事堂そのほかの所を見て歩いた。ところが、電車の腰掛けは凡て、公園のベンチのやうな板張りの粗らいものだ。花のウヰーンなど言はれたのは、古のことで、今は何のことはない、ありふれた西欧の町々と同じだ。

この電車のなかで、留学生にイキナリ老婆がしがみついて嬉し泣きをした。ビッくりしたので、後でその訳をきくと、この留学生は前に、この婆さんの家に泊めてもらってゐたのだが、ある時に、婆さんが悪い風邪をひいた。ところが、別れて住んでゐる息子も娘も、この風邪がうつると云って誰れ一人よりつかない。婆さんは、三度々々の食物にも、ことかいて日乾しになり、弱り果てて死を待つ許りになった。このことを知った留学生は、乏しい金のうちから出して食物を買って来ては食はせて、風邪が治るまで、それを続け何くれとなく世話したと云ふ。それから、その家を出て外の宿に移ったが、三年たって、初めてたまたまヒッコリ、この電車のなかで婆さんに遇ったとのこと。婆さんは、その時のことを忘れられず、かうやって人目も憚からず涙を流して喜んで感謝したのだ。

私は、この心のやさしい若いチェロ弾きの留学生を、心の底からはめたたえた。西欧では、二十歳過ぎると親子の縁が切れ、あかの他人になってしまふ。その後は、互にどうなっても構はないのだ。しかし、こんなことを、日本に採入れなかった明治の留学者は、賢こく偉らかったと思ふ。ところが、それより頭のよいとは思へぬ今の学者や政治家は、これを新しいとして、鵜呑みにしようとする。「学者元来、世を誤る」とは、このことだ。

しかし、わが友なる北大教授には、こんな手合ひは居ないだらう。

(農学部卒)未完

北大季刊刊行会 発行日:1963年12月25日