私の修業時代

石井 昇先生(号:泰山)

東京農大で学んだ後、植木の生産を始め、造園業を営む。
禅の大家である高橋空山居士に師事。
秦野市議会議員を三期務めた後、難関と言われる樹木医試験に合格。
秦野市内の樹木の文化財の保護、樹林の調査、診断、治療を一手に引き受ける。
書では、秦野書道協会会長をはじめ神奈川県民書展会長の要職を務めながら、神奈川県内の様々な書展の審査員を務める。


1.空山先生との出会い

インタビュアー:石井先生は、造園業や樹木医としてだけでなく、書展の審査員を務められるなど、様々な分野でご活躍ですが、禅の大家である高橋空山先生の門下生として造園や書、剣について薫陶をうけられたと伺っております。本日は、空山先生の門下生時代のことを中心にお話をお伺いできればと思います。当時、秦野市に空山先生を知る人は多くなかったと思いますが、空山先生との出会いはどのようなものだったのでしょうか。

石井:私の家は、代々、農家でしたので、日中は畑仕事をしていました。あるとき、私が耕耘機で畑を耕していると、畑の傍に犬を連れて歩いている方がいらっしゃいました。当時、この周辺の地域は家も少なく、歩いている人を見ればどこの誰かがわかるような時代でした。その方は、初めてお目にかかる方でしたので、この辺りに住んでいる方ではないのかなと思ったのですが、そのとき、数日前に読んだ新聞の記事のことが頭を過ったのです。その記事には、“この地域に雪舟の絵を発見した人がいる”と書かれてありました。そこで、私は、「先日、新聞に掲載されていた方ですか?」と尋ねました。先生は、ご自身が北大農学部のご出身であり、農業にもご関心があることなどを話され、今度、自分の家に遊びに来るようにと声をかけてくださいました。それから数日が経って、畑仕事を終えたある夜、先生のお宅を訪問しました。私が通されたのは道場だったのですが、机の上に“鹿の遠音”と書かれた一冊の本があることに気づきました。その本は筆で書かれた素晴らしい写本でしたので「先生も書を習われているのですね。」とお伺いしました。既に、私は書の心得がありましたので、写本を見て、先生がお書きになったものではないかと思ったからです。
先生は、「私が書きました」とおっしゃったのですが・・・。
まさかその方が、書の大家であろうとは、そのときは夢にも思いませんでした。あの頃のことを思い出すたび、知らないということはどうしようもないことだなと思ったものです。これが先生との出会いです。


2.書の先生

インタビュアー:既に書についての心得があったとのことですが、書についてのご経歴をお教え頂けますでしょうか。
石井:私は、空山先生を含めて三人の先生のもとで書を学びました。最初の先生は、文部省(当時)で書の手本を書かれるような方でした。この先生は大変謙虚な方で、書を発表されるときには、“今回も上手く書けませんでした。皆さんどうぞ批評してください”というような文言を書の傍らに書き添えるような方でした。残念ながらその先生は、90歳を超えて亡くなられましたので、私は他の先生を紹介してもらうことになりました。二人目の先生は、東京にいらっしゃいました。普段はお弟子さんが指導されていましたので、私は長い間、先生のお姿を拝見することはありませんでした。
ある日、先生が稽古場にお見えになったのですが、私は先生のお姿を拝見して愕然としました。先生は新興宗教団体の教祖様かと思うような派手な衣装で登場され、私たちに、「私の書は神品(しんぴん)である。」とお話されるのです。お弟子さんは先生のお話に大変熱狂されていましたが、私は一人、冷めた気持ちで話を聴いていたのを覚えています。あるとき、隷書(れいしょ)が課題として与えられたのですが、他の生徒さんたちは隷書を書いたことがなく、どう書いてよいのかわからない様子でした。私は普段通りに書いていたのですが、周りの生徒さんが集まってきて、私に書き方を習おうとするのです。その光景をみて、ここが自分のいる場所でないことを確信しました。その後、空山先生に出会うことができたのです。

インタビュアー:書道ではこれまでどのような賞を受賞されたのでしょうか。
石井:私は賞をもらう側ではなく、あげる側が長かったものですから、賞をもらったことは、ほとんどありません。
秦野市では昨年(2020年)、市展が50周年を迎えましたが、市展とよばれるようになる50年以上前に銀賞を頂いたことがあります。このとき金賞を貰ったのは、秦野市の書道協会の二代目の会長になられた方でした。
また、21世紀国際書展(主催:産経新聞)の審査員をやっているのですが、この書展は審査員も賞をもらえるのです。私が審査員を始めて何年か経った頃に、グランプリという最高位の賞をいただきました。現在、神奈川県民書連の会長もやっておりますが、そこでも最初から審査員ですので、賞をもらったことはありません。


3.入門

インタビュアー:農場で先生に出会われて、道場を訪問されたとのことですが、その後、すぐに入門されたのでしょうか。

石井:

道場に出入りするようになった頃、「行事があるときは必ず来るように」と言われておりましたので、決まった日にお伺いするということはありませんでした。そのような状況は十年くらい続いたでしょうか。
ある日、私は決心をして、先生に「弟子にしてください。」とお願いしたのです。すると先生は「この道場は私のものではありません。一番上の弟子に手紙を出して入門の許可を得てください。」とお話されました。当時、一番上のお弟子さんは関西にいらっしゃいましたので、私は先生に住所をお伺いして、そのお弟子さんに手紙を書きました。するとそのお弟子さんからは「あなたのことは先生から伺っています。先生のもとで頑張るように。」とお返事を頂くことができました。私は急いでその手紙を先生にお見せして、ようやく弟子になることができたのです。入門をお許し頂いて初めて道場を訪れた日のことは今でも忘れません。これまで十年も訪れている場所です。私はいつものように、「先生、こんにちは!」と、ご挨拶をして道場に上がろうとしました。すると先生は、厳しい口調で「まて!!」とおっしゃり、道場に上げてはもらえませんでした。それは、礼の作法を知らなかったからです。そこではじめて、弟子になることの意味を知ったのです。

玄関先で何度も礼をやり直してから道場に上がることが許されると、先生は「今日は、礼について教える」とおっしゃいました。
その日は、目上の人に対する礼、同僚に対する礼、目下の人に対する礼など、様々な立場の人に対する礼の作法を教えて頂きました。礼は武道からきているので、隙があってはいけません。頭を下げていても、常に相手のことを意識して、静かに頭を下げ、静かに頭を上げます。また、畳の上で礼をするときには、畳に手を付けてはいけません。畳に手をついていては、即座に相手に対応することができないからです。畳の上ではわずかに手を浮かせる必要があるのです。
先生のご指導は大変厳しいものでしたが、その教えはちゃんと私の身について、私を助けてくれました。
その後、私は市会議員を三期、努めるのですが、議員とは大勢の人の前で話をする職業です。議会では礼をする機会があるのですが、大勢の議員の方々の前に立った時でも、礼について困ることはありませんでした。


4.兄弟弟子

インタビュアー:空山先生お弟子さんには著名な方も沢山いらしたと伺っておりますが、当時の鈴法庵にはどのような方がいらしたのでしょうか。

石井:私が通っていたころの鈴法庵は秦野市にありましたが、文京区の吉祥寺の境内に道場が設けられていた時代がありました。ある日、東京大学の剣道部の学生の一人が、「近くの道場に面白い人がいるから尋ねてみよう」と部員を誘い、先生に試合を申し込んだことがあったそうです。もちろん、先生の剣術に対して学生の剣道では全く歯が立たちませんので、学生たちは悉(ことごと)く敗れていったそうです。その後、その学生たちが鈴法道場に通い始め、卒業後も弟子として修業を続けられました。そのため、殆どの兄弟子は東大卒だったのです。
私が入門した頃には、実業界に出られた兄弟子の多くは、社長か役員をされていました。有名なところですと、建築資材メーカーの社長や建設会社の社長、研究者では、大学校の教授の方もいらっしゃいました。皆さん、私よりずっと年上であり、社会的地位の高い方ばかりでしたので、私は兄弟子のことも先生と呼んでいました。
また、私が知っている同年代の弟子は、私以外に二人いました。一人は藤由越山さんで、もう一人は農学の研究者の方です。北海道大学で博士号を取得された後、農業試験場で研究活動に従事されたと伺っています。当時、百科事典の樹木の所を開くと、殆どはその方が執筆されていましたので、その分野の権威でいらしたのだと思います。
また、私がお会いしたことのあるお弟子さんには、「参宝のこころ」「無門関のこころ」を著した曹洞宗の住職の原全忠さんがいらっしゃいました。この方のご本の奥付を見ると、“1941年~1976年、普化宗高橋空山居士に就いて禅を学ぶ”と記されていますね。

インタビュアー:有力なお弟子さんが沢山いらっしゃると、空山先生についての記録も少なからず残っているのではないかと思うのですが、当時の様子についてお弟子さんが残されたものはないのでしょうか。

石井:空山先生は、マスコミには出ないということを徹底されていました。これは兄弟子から伺った話ですが、ある弟子が先生のことをもっと知ってもらいたいと思って、マスコミに宣伝しようとしたことがあったそうです。残念ながらその弟子は破門になりました。そのため、それ以降、先生のことを宣伝しようとする弟子はおりませんでした。
ご生前の様子がうかがえる唯一の本である「高橋空山居士の世界」は先生がお亡くなりになられた後、白上一空軒さんが先生の奥様のご許可を得て、ようやく出版できたと伺っています。
また、書を習う際に先生が書かれたお手本を見て書くことはありましたが、稽古が終わると先生はお手本をすっと引かれました。私がお手本を頂けないかとお願いしても、「それは渡せません」とおっしゃいましたので、私も先生が書かれたものは、原則、持っていないのですが、弟子の中でただ一人、先生が終戦のときに詠まれた短歌で、変体仮名で書かれたものを戴いております。

”くにのため いのちささげし そのまこと よろずよまでも たたへゆきてよ 空山”


5.鈴法庵での修行

インタビュアー:「高橋空山居士の世界」には、鈴法道場が文京区の吉祥寺の中にあったときの様子が語られています。石井先生は道場を秦野市に移された後に入門されていますが、道場ではどのような稽古が行われていたのでしょうか。

石井:私は最初、門下生ではありませんでしたので、先生に呼ばれたときだけ訪問していました。ですから、最初の頃は、何かを習うというようなことはなくて、皆さんがやっていることを見ているだけでした。例えば、お正月ですと、皆で集まって食事会をするのですが、食事の前に、剣、尺八、書をやるのです。それは参加者が皆でやるというものではなく、その分野で一番の弟子が先生に選ばれてやるのです。私がいた頃は、剣は、材料関係の連盟の役員の方が選ばれました。尺八は、藤由越山さん、書は当時、学校の教頭先生をされていた方でした。
そして、食事会では、いつもうどんを頂くのですが、つゆがすごく美味しかったね。うどんは先生の奥様が茹でてくださったと思うのですが、うどんの食べ方も違うのです。当時、この辺りの地域では、うどんはつゆと一緒に煮てしまうのですが、先生の所では、うどんとつゆは別々に出されるのです。それはものすごく美味しいうどんでしたね。

私の場合、入門が許されてからは、一対一のお稽古の頻度は、週に一回から十日に一回くらいだったでしょうか。農業をやっていましたから、日曜日だからといって昼間は仕事を休めません。そこで、私が通うのはいつも夜でした。一回のお稽古は二時間くらいだったでしょうか。
そこで何を学んだかと言いますと、まず、造園です。私は基本的な技術は既に学んでいて、職業訓練指導員だったのですが、先生は、造園の理論や歴史についてお教えくださいました。
次に書です。先生は書を教えられるとき、私に相対するように座られ、私の手を持って指導をされるのです。ちょうど鏡文字を書くように、先生は左右逆に筆を動かされますので、最初はとても驚きました。
基本的な書の練習には“永”という文字を書くのですが、点ひとつ書かれるのにも、ものすごく複雑に筆を動かされるのです。先生は私の手を持って、何度も何度も指導してくださいました。ようやく先生の手が離れて私一人で書を書けるようになったのは、先生が亡くなられる三年前頃だったと思います。
また、先生の流派は“筆”という字を使って筆道家といいます。この筆道家は代々さかのぼると弘法大師にたどり着く流派です。筆道家には秘伝書があり、その秘伝書を書き写させて頂いたこともありました。

インタビュアー:鈴法庵では、禅、書、尺八、剣はそれぞれ必修だったのでしょうか。

石井:すべてが必修というわけではなかったね。でも、剣は必修でした。ですから私も剣は習いました。道場で稽古をするときは、他の弟子はいません、私一人なのです。先生が肩幅よりも短い竹刀を持たれて、私は通常の長さの竹刀を持ちます。そして「どこからでも打ってきなさい」とおっしゃるのです。
私は長い竹刀を持っていますから、最初はどうやっても私が勝つと思っていたのですが、竹刀は全くあたりませんでした。私が少し動いただけで、先生の竹刀は、私の目の前に達していたからです。

インタビュアー:道場に行く坂を上るとき当時のお弟子さんは大変緊張したというお話をお伺いしますが、実際どのようなお気持ちでしたでしょうか。

石井:「高橋空山居士の世界」にも、道場に行くときにはものすごく緊張して、稽古が終わって坂を下るときには、気持ちがすっとして、今日は良かったと思いながら帰途についた、というようなことが書かれていますが、ほかの弟子も同じようなことを語っていられました。私も“今日はどのようなことで叱られるのだろうか”と思いながら通うことは少なくありませんでした。普段はおおらかな先生でしたが、叱られるときはね、もう本当に厳しかったですよ。先生は禅の大家でしたから、先生のお姿を通して、禅の厳しさを教えて頂いたと思っています。
先生は常々、「日本一の先生に就かなくてはならない」とおっしゃっていました。だから私は先生の弟子になったのです。私の母も、道場に通うことをとても喜んでくれていました。


6.剣は備わるもの

石井:私は、剣術は少ししかやりませんでしたが、刀に関心があって、現在も刀の美術館の理事をやっています。
私が先生の道場に通っていた頃の話ですが、伊豆にある製薬会社の社員寮の庭の手入れをやったことがありました。私が休憩の際に廊下でお茶を頂いていると、床の間に一振りの刀が飾ってあるのに気付きました。それは一目見るだけで本物とわかるほど見事な刀でした。
そこで、そこの社長さんにお願いをして、「この刀を見せて欲しい」と伝えました。すると、「わかった。見せてあげるから着物に着替えてきなさい」と言ってくれました。
その夜、私は風呂に入って、着物に着替え、再び社員寮を訪問しました。社長さんは約束通り、私に刀を見せてくれました。
刀は私の予想通りの素晴らしいものだったのですが、残念ながら手入れがされていませんでした。
社長さんのお身体はご病気のために思うように動かなかったからです。そこで私は、「次に訪問する時には、私が刀の手入れをしましょう。そして、もし、この刀を誰かに譲られることがあるのでしたら、私に譲ってください」と申し上げました。すると、社長さんは、「わかりました。この刀は今すぐ持っていきなさい。」とおっしゃってくださいました。しかし私は刀のお礼をすることができません。そこで、その時は、刀を譲っていただくことをお断りしたのです。
その後、社長さんは療養を兼ねて、伊豆に新居を建てられることになり、私はお庭の仕事を頂くことになりました。そして、すべての仕事が終わった後、「仕事のお代の代わりに、刀を頂けませんか。」とお願いをしました。すると社長さんは、「それでは持っていきなさい。それからもう一振り短刀がありますからそれも持っていきなさい。」と二振りの刀を手に入れることになりました。

私は先生に、その刀をお見せして、手に入れた経緯をお話ししました。すると先生は「刀は買い求めるものではありません。人に備わるものです。」と私にお話になりました。最初、私にはその意味が解りませんでした。すると先生は、ご自身の刀を私に見せてくれたのです。私は先生の刀を拝見して、“刀は人に備わるもの”の意味を理解しました。その刀は大変に見事なもので、先生のような方でなければ決して巡り合わないだろうと思えたからです。

私は刀の美術館の理事をしていますが、“良い刀があるよ”といわれても、それほど良い刀に出会うことはありません。昔は“刀と城を取り替えた”という話があったくらい、刀は大切なものだったからです。私は先生の刀を全て拝見していますが、その中でもひときわ目を引く刀は、林銑十郎元首相から譲り受けた刀でしょう。先生は林元首相の禅の先生でしたが、あるとき、林元首相のご家族から先生に、墓碑の文字を書いてほしいと願い出たそうです。先生はお断りになられたそうなのですが、林元首相のご家族が「それならば、東京で爆弾が落ちたとしても私はここを離れません。(注:当時は戦争中でした。)」と言ったために先生は書くことにされたそうです。

刀はそのお礼として譲られたものですが、林元首相は陸軍大将だった方です。当然、普通の刀であるはずはありません。

皆さん、正宗の名はご存じでしょうか。刀は正宗の弟子である、正宗十哲の一人が造られた名刀でした。ですから、先生の刀は、普段、刀を見ている私の目から見ても格段にレベルの違うものばかりでした。


7.尺八の音色

インタビュアー:空山先生の尺八は、現在もYouTube等で聴くことができますが、それらは全てレコード時代に録音されたものです。実際に先生の尺八はどのようなものでしたでしょうか。

石井:皆さん、空山先生の尺八は直接お聴きになったことがないのですね。
例えば今、鶯(うぐいす)が鳴いていますね。鶯は“ホーホケキョ”と鳴きますが、最初の“ホ”の音はどこから始まるのでしょうか?“ホー”と聞こえ始めると鶯が鳴くのがわかりますが、“ホ”の音が聞こえ始める前に、どこから“ホー”と鳴き始めているのかはわかりません。先生の尺八を聴いていて、鶯の鳴き方と同じだなと感じたことがありました。
私自身は尺八を吹くことはないのですが、稽古場で他の弟子が吹いているのを沢山聴きますと、先生の尺八とはここが違うなというのは良くわかりましたね。

インタビュアー:現代では、門下生になって禅や芸道を学ぶ機会は非常に少なくなったように思います。お話をお伺いいたしまして、禅の精神が師から弟子へと伝わっていく様を垣間見させて頂きました。
本日は大変貴重なお話をお聞かせくださいまして誠にありがとうございました。


※)インタビュアー:嶋崎


8.書

石井泰山先生の書をご紹介いたします。(編集部)


1)秘書晁監の日本国に還るを送る_王維


2.無一物



3.随所楽



4.鶴寿


高橋空山

高橋空山記念館 Kuzan Takahashi Museum