イスラエルと西欧への旅 ~高橋空山~

昭和三十六年十月二日、小雨そば降る昼十二時頃、琵琶の名手で新聞社長の辻東舟氏、幼な友達で古河アルミの重役大場衛(ただし)君、芸大の野村教授、日大の土田教授、上垣侯鳥画伯、内藤茂君、弟子の防衛大教授の押本工学博士、弟の提琴家の衛三男と甥姪、それに愚妻、女婿といふ極めて内輪で身近の人々にだけ送られて、私は羽根田の飛行場から渡欧の旅に登った。身近の人々からだけと云ふのは、もとより、送り迎への為に人々を煩はすことは好まぬので凡て断った。これは先師松原盤竜禅師の教でもある。

香港に着くまで、雲の波の上を飛んでみて下の島山や海は、雲の切目から時々見えるだけ。いつもながら、飛行機の旅は短い時間で目指す方に着くのと、揺れが少ないのとが好いだけで、眺めと云ふものが少しも利かず、何の事はない空と睨めっくらしてあるようなもの。それに爆音がいやにやかましくて話も何も出来ず、頗るもって味気ない。

香港は、箱庭みたいな所であり、頗る暑い。一時間ばかり休み時間があったが、喉が乾いて仕様がないので、休憩室の係の人に頼んでガブガブ水を飲んだ。その係の人は支那人で戦の時は、日本に力を合はせた為に、戦の後、中共にも国民政府にも仕へることが出来ず日本航空に使ってもらってるのだとのこと。私は痛々しい思をしてその話を聞いた。

香港の次は、東京から五時間ばかりかかってバンコックである。日航機は、ここまでしか行かず、後はシンガポールの方に行ってしまふので、南廻りの西欧行は、ここで乗換へねばならず、その為に一夜ここに泊ることになる。飛行場から宿までの間の自動車から見るタイ人の家と人とは、全く日本と同じである。ことにその顔付が似て居て、凡そよその国に来たといふ気がしない。夕方に町に散歩に出て見たが、盛り場の店は、殆んど支那人で英語で話が足りる。絵葉書を買ったら馬鹿高いので、いやになった。宿も支那人がやってゐて英語だ。タイ人は貧しげであった。散歩がつまらなかったので、日本料理屋に入ってソーダ水を飲んで宿に帰り、継ぎ水で体を洗って、早々と眠りに就いた。

次の朝、大使館員に導かれ、日航の車をかりて、王宮と博物館とを見た。王宮の芸術的に美しいことは、後で見たFranceのVerseille宮殿より上であった。何処からともなく船祭の音楽が、あたりに木魂して響いて来た。辿って行くと回廊の隅であった。その美しい旋律は何とも言へない。私はこと分けて頼み、繰返し繰返し聞き惚れた。こんなに美しい楽が、アジヤにあるのに、どうして洋楽だけに日本はあこがれるのだろうと思った。

博物館では、色々な楽器があることに驚いた。その内に竪笛があった。これは尺八の良い比べ物になると考へたので、後で似たものを街で探して買求めた。竹の節間は、南の国の為に長いので、いくらでも長いものを作れるからその竪笛は長い。だから、竪笛の源は短いものであった等と、正倉院御物の尺八から許り割り出して判(き)められない。このことは後で見たTeheranの博物館、Berlinの博物館でのインカ帝国時代の物、また大英博物館やleLouvres博物館で見たEgyptの葦作りの竪笛でも同じだった。孔数も四から八まで、色々であった。だから雅楽の六孔尺八が元で、今の五孔尺八が後の世の物だ等とは言へない。この長さと孔数に対する新しい古いの説に対しては、長い間、疑はしく思ってゐたが、それがハッキリ・したことは、この度の旅の一つの獲物だった。やはり広く世の中を見てから、何事も考へて定めるべきだと思った。

それはさておいて、もう一つタイ国で心を打たれたことがある。それは町を歩いている人々は、年寄りも若い者も暑い国なのに身なりがキチンとし、身振り仕ぐさも美しく立派であることだった。これは全く思はぬことだった。聞けば、その事は幼ない頃からの、極めて厳しい躾であって、学校でも就職時でも、えらくその点数を重く見てゐるとのことだった。道理でタイ国からの留学生は身なりも仕ぐさも、キチンとしてゐて清らかで立派だと思った。ヤボなヤンキーの真似さへすれば、それで進んでゐるとして土面とりみたいに赤セーターなど着込んで、カウボーイみたいな帽子をかぶって町をのして歩くいとも低く劣った芸術心の持主は、タイ国には凡そ見当らなかった。

それからキチンとして碁盤の目のように水路があり、そして一定の間隔をおき、水路に沿って農家がある田園風景を珍しく思った。これで、日本の稲作りの勝れた技を採り入れて質の良い米を作ったら、更に良いだろう。私を連れて歩いた大使館員が、月給の少ないことを口説くので町外れのタイ料理店で昼飯を振舞ふ事にした。ここの前の主人は日本人だったとのこと。息子は日本人とタイ人との混血児であった。彼の物腰は、心から恭々しげで何か哀れな気がした。タイ大学の女学生が三人やはり何か食べに来てゐた。これに話かけると、日本の女の子と物腰、身振りが全く同じようであった。ただ言葉だけが、タイ語であるだけ。言うまでもなく私との間では英語である。よって、この子らに頼んで、大学に、北大交響楽団演奏するところの「虚空」その他の曲の入ったテープを届けてもらいそして聞いてもらうことにした。ここの料理屋で出してくれた器は日本の古代の彌生式の土器と形が全く同じものであることには驚いた。タイでは、人々が今でも、これを使ってるとのことだった。家はわが神社のような建て方だった。これも、タイ振りとのこと。

ところが、ここで食べたものが、腹に当って、その後イスラエルを経てローマに着くまで、烈しい腹痛と下痢に悩まされた。その十日間は、殆んど物を口にせず頑張り通した。よくも通せたものと、後になって振りかへって、我ながらビックリした。日本の神々の御守りによるものだろう。

エア・フランス機で午後六時頃にバンコックをたって、NewDelhiで一時間休み、全行程五時間を経てTeheranに夜遅くついた。そこの宿に泊ったが、腹痛と、しきりなしの下痢で眠ることが出来ず、夜が明けるのを待って、通りや遙かに見える山々などを眺めて、心を紛らはした。八時過ぎに大使館に行き、車で博物館に連れて行かれた。この地まで来ると、もう日本や支那的な文化との似寄りが著しく薄くなる。さすがに、絨氈は御国がらで、一きは目立って美しかった。博物館を出て見ると、待ってゐる筈の車がゐない。飛行機は午後一時に立つので後一時間しかない。流しの車を呼び止めて、英語で話したが通らない。Iran語だ。ひどく困ってみたら偶々、日本の商社の人が来合はせたので話すと掛合ってくれておまけに金まで出してくれた。全くホッとして宿に帰ると、飛行機の立つ時間が夜八時まで延びたとのこと。ヤレヤレと思って再び歩いて大使館に行き、礼を述べて、ホテルに帰り時を過した。

ここの町を歩いて心を打たれたことは、通りに煙草の吸殻も紙屑も落ちてないこと。それは、掃く人が夜明に奇麗に町を掃いてゐる為と、人々が散らさない為だった。石油を世界に売って金が豊かに入るので、こんなことも出来るし、また建物も真新しい良い物を建て得るのだとのこと。通りの清々しいことは、ここ位なもので、Zurichでも、ドイツの至る処、London,Paris,Wien,Amsterdam,Kopenhagenでも、東京と同じに路に紙屑や吸殻が散らばってゐて汚なかった。

Israel

飛行機は、二時間半評りで夜十時半にイスラエルのTelAvivに着いたが、その着く前から乗合はせた人々が、どこへ行くのかと尋ねる。イスラエルだと言うと、ニコニコして、色々と皆で話しかけて来る。彼らはイスラエル人、即ちユダヤ人であった。彼らは、日本人には極めて当りが好い。けだし、ユダヤ人を虐げなかった文化国家は、日本だけだったからだろう。

TelAvivに着くと、イスラエル外務省文化部の若い女の人が、待ってゐてくれた。この人はドイツ語を話す。ようやくドイツ語に巡り合ってホッとしたが、ユダヤ人のドイツ語なので、発音がよく解らないのには少し弱った。

それでも、どうにか通ってJerusalemまで車で行くことにした。道が悪いので車の揺れが甚だしい。それが腹痛にこたえて、道で幾度も車を止めて休ませてもらった。我々と、乗合わせた支那人が、よく心を配り労わってくれた。国境を越へての温い心は、旅の空ではことに身に沁みるものである。

宿に着いて寝についたが、腹痛と下痢で眠れない。これで二夜夜明しである。「明る朝、長谷川君という同県人が、文化部の若い女の人に伴はれて室に入って来た。彼はヘブライ語をやりに来てゐるとのこと。これから七日の間、彼の御蔭を蒙った。とても人のよい、そして真面目な若者である。イスラエルでは、ヘブライ語を二千年にして甦らせ、国語としてゐる。どこへ行っても、ヘブライ語なので、長谷川君が居なければ全く困ったろう。

私はイスラエル外務省文化部の招きによって、日本の音楽学会を代表して、イスラエルに日本音楽の講演に行ったのである。それでJerusalemの音楽大学で、朝から講演を行った。集まった人々は音楽の専門家ばかりである。私はドイツ語で話したが、質問はヘブライ語なので、長谷川君が間に立ってくれた。

日本音楽の歴史と楽理とを述べ、その間に持って行ったテープを挿し挾んだ。そのテープは

正楽――神楽の清掻(小島吉太郎)祇園囃(祇園社中)

宴楽――雅楽の還城楽(宮内庁雅楽部)

宗教楽――声明の時宗念仏踊(川越祐兼) 

交響詩虚空(北大管絃楽団)

武楽――能、琵琶の門琵琶と明寿(江東川)

俗楽――歌沢の木曽の山、恋すてふ(湯沢三千男)

 筑紫箏の輪説(井上ミナ)

 三弦の琉球組(荻原正吟)地唄の冬草菊原初子

新曲――春宵、惜春(尺八と箏)池田逸漣

それに私の普化尺八を吹かうとしたが、さすがに旅の疲れと病の為に、惜しかったがこれだけは出来得なかった。

この夜は、この国の随一の音楽学者であり、作曲家であるTal博士の招きで、イスラエル交響楽団の演奏を聞きに行った。その初めにやったイスラエル国歌は、まことに力強さがこの上もなかった。その後のBeethovenのものなどとは比ぶべくもなく力が籠ってゐた。私はタール博士に、「イスラエル音楽はイスラエルで、そしてドイツ楽はドイツでやる方が宜しい。何事も本場ものが、ピッタリする」と言ひ、「イスラエルでは、純らイスラエル音楽を伸ばして行くことを望む」と述べた。同氏も、これに深くうなづいてゐた。腹痛が甚だしい為に、会の終らぬうちに宿に帰った。この夜はタール博士が自宅の夕食に招いてくれた。その食卓での祈りは実に明るく力強い歌であった。他の宗教のようなメソメソしたものでなく如何にも喜びに満ちた歌だった。

その身振りは、子供が飯前に喜んで走り回るようなあどけなさがあり、いかにも自然に思はれた。私はおいしそうな食物を前にしてジャガ芋を少し口にすることが出来た位。その夜は夜更までテープの順をタール氏は正してくれ宿まで送ってくれた。

明くる日は、朝早くから長谷川君に伴はれて、Sion山に登ることにした。この山は町の西南にある。日が昇ると先ずこの小山に映える。

シオンよ、醒めよ

醒めて力の衣を着よ

聖なる都、エルサレムよ

光り輝き、粧はれよ

と、Jesajaによって歌はれた山である。この小山には、イエス・キリストが最後の晩餐会を開いたといふ室がある。石作りの為に、今も残った訳である。ところが室の西側は回教徒らによって改められ祭壇を設けた跡が残ってゐる。まことに惜しいことをしたものである。私は深い思いで、暫し、この室に立ってみた。そこを出て、今はカトリックの聖堂となってゐる会堂の地下室に行った。そこは、聖母マリアが亡くなった室と伝へられ身丈の大きさのマリアの永の眠りについた石の像がおかれてあった。そこを出て、この度の欧州大戦の時に、ナチス・ドイツから虐げられて殺された時の色々な証しとなる品の飾ってある薄暗い洞穴のような建物の中に入った。ユダヤ人を殺して、それを煮て油をとり、それから作った石鹸とか、痛ましく引きちぎられた旧約聖書で作った色々の品などがあった。

一体、西の国の人たちは、何んで、こんなむごたらしい死像や品物を飾っておくのだらう。私は清々しさを好み汚れを忌み嫌う日本人である。いやな気持、吐気を催す気持になって、さっさと、ここを出て屋上に昇った。

遙かに東の方を眺めると、Shelomohの神殿跡には、ドーム型の回教の会堂が秋空に聳え立ってゐた。また、その左に当ってイエスが磔けにされたGolgothaの丘が見える。

しかし、これらの地は凡て回教を信ずるArabia人のJordan領である。私が立ってゐる屋上の境目から既にヨルダン領で、バラ線がいやらしく張られてある。聖都エルサレムは、この様に真二つにされてゐるのである。

私は密かに膝まづいて、平和のうちに再びこの地がイスラエルびとのものになり、真に古の如く聖都となることを神に祈って、この屋上を去った。

それから、このシオン山を下り、サンヒドリンの司祭たちの岩に掘られた墓を見て、イエスの葬られた墓を偲んだり、ヘブライ大学で湖の岸の岩窟から出た最も古い旧約聖書の切端しなどを見て、一たん宿に帰った。

エルサレムは頗る山坂の多い町である。地は赤白色の堅い岩石からなってゐる。そしてイスラエル人は、再び祖先の地に還ったといふ喜びに溢れて、新しく町造り、国造りをしてある。「楡瘤の葉の茂り、牛の乳のしたたる国」と、その古に云はれた所のこの国は、荒々しいアラビヤ人によって、彼らの故国の如く、全くの大砂原にまでされてしまった。それに対し、Galilee湖から大きな鉄の管で水を引き、アウシヰッツで殺された六百万人の名によって、六万本の木を植え終り、それが既に二米ぐらいに伸びてゐる。私が、この国を訪ずれた時は、既に初秋だったので木の葉がソロソロ散りかかってゐた。秋の熱帯に近い地の強い光が、木の間を通して赤白い地に濃い影をしてゐるのはいかにも印象的だった。

それは、とにかくとして、その夜はエルサレム随一といはれる画家の家に集まりがあり、色々な話をし、上垣画伯や内藤茂君が描いた色紙を見せた。外務省の女の部長が来て居り、その色紙を売ってくれとのことだった。それほど欲しいなら差上げようと云って好きな絵を選ばせて贈った。その宵は尺八を吹く気力が出て、虚空を一曲だけ吹いた。皆は感に堪へたように身動きもせずに聞いてくれた。色々な四方山話に花が咲いて、夜更けまで和やかに皆で話し合ったのは楽しかった。その夜の夕食時にタール博士がわざわざジャガ芋をゆでて自ら持って来てくれた思ひやりの深さは忘れられない。

次の日はユダヤ教の会堂巡りをした。会堂に入って行かうとしたら、その辺りに遊んでゐた小供たちが猿のように垣根にブラさがりにこにこし、「シャロムシャロム」と云ふ。原題は「平和にあれ!!」という意だが、「今日は!!」といふ時に使ふヘブライ語である。これを云ふ子供たちは、イエスの幼い時のような清らかなメンコイ顔をしてゐる。イスラエル人の子供は、とても人なつこくてたまらなく可愛いとは、皆が言ふ所である。こんな子供たちまで、どうしてなぶり殺しにしたのだらう。それは幽鬼、悪魔としか思へない。

会堂の内陣には、旧約聖書の大きな巻物が据え置かれて居り、その前に円形の少し高い壇があり、そこで長老が司祭するのだとのことだ。回りの壁は色々な色の模様をした美しい壁紙がはってあり、その前に長椅子が多くおかれてあった。色々の国々から帰って来た人々は、己が元ゐたお国振りを取入れて会堂を飾ってゐる。しかし最も頑なに古振りを、守り通したのは、アラビヤ地方にいたユダャ人で、これのやり方が、凡ての基とされてゐるとのこと。

回教徒との信仰上の違ひや文化が勝れてゐた為に古へを守り通せたのだろう。これに比べると西欧にゐた者達は、その文化に押されて彼らの真似をし崩れた訳だ。もっと多くの会堂を見たかったが、歩いても腹に響く腹痛なので、止めて宿に帰り、医者に見てもらった。そして五ドル支払ったが、薬は何も利かなかった。長谷川君はいたく心を痛めて、日本から持って来た取っときの腹薬を色々とくれたが、何れも何の利目もなかった。

その夜、ベングリオン大統領あてに辻東舟氏から頼まれた日本人形と、博物館あての私の贈物の雅楽尺八を、外務省の例の若い女の人に頼んだ。

次の朝、長谷川君に伴はれて、テルアビブに引返した。その車の中で、彼と色々な話をした。

西欧の基督徒は、幾世紀もの間、ユダヤ人に向って国際的極悪犯罪者、高利貸、搾取者としての汚らはしい名を着せ、サタンとして憎み侮りそして虐げ切った。しかし、それに値するほど極めて悪い民なのだろうか。

ユダヤ人は、古くから宗教的な民であり、神によって選ばれたものと信じて来た。

旧約聖書は、この宗教史であり、そして民族史である。この過ぎ去った前の歴史を基として、明日の道を開いて行かうと云ふのが、ユダヤ教となってゐる。これは極めて合理的なことである。だからユダヤ教は合理的民族宗教だと言へる。この点は、古事記、日本書記、祝詞を聖典とし、過ぎ去った歴史によって道を新たに開いて行かうといふ我国の神道と同じである。

こんな訳で、イスラエルでは、他の宗教を信ずる者は殆んどなく凡てがユダヤ教徒だと云って差支へがない。このユダヤ教の新しい教とでも云ふべき基督教徒すら極めて僅かであって、しかも、これをヒタかくしにかくしてゐるとのことだ。

それは、二千年近くもの長い間、神の子救主イエスを殺すと云ふ罪を犯した者として、ユダヤ人はうとまれ白い眼をもって視られて来た為もある。

しかし、イエスを殺したことについては、ユダヤ側にも、それだけの言分がある。それを少し述べると、イエスは、その国がローマから支配されてゐる時に、心の上での王だと自ら称へた。しかし、実際的なこの民は、そんな抽象的なものでなく、如実に具体的に王であり、ローマの属国の位から、この国を解き放つ救主を求めてゐたのである。また民族宗教を他の民族に伝へなくても良いとも考へた。その外、奇蹟を行なふとか、色々なことがあって、ユダヤ人たちはイエスを磔けにしたのだと言ふ。

とにかくイエスを殺したのは、見方の違ひによってであることには間違ひないだらうが、それにつけても、イエスを殺したのは遠い彼らの組のうちの一部の者のしたことである。この一部のしたことをしかも二千年近く、その民族全体を責めるといふことは、余りにも非合理的すぎる。「人を許すべし」と叫ぶ基督教徒は、まづ自ら、これを行って、ユダヤ人を許すべきではないか。イエス。自らが、「彼等は、その為すべきことを知らぬのだ、神よ彼らを許し給へ」と云ってゐるではないか。

また西欧人のうちには、「イエスは世を救はんが為に、凡ての人々の生れつきの罪を身をもって背負って、磔けにされた」と云ってゐるが、それなら既に罪は世にないことになり、従ってユダヤ人にもこれが最早ない筈である。

また西欧人はユダヤ人を排けるが、イエスもまたユダヤ人である。それをイエスは神の子であってユダヤ人ではないと、スリ代へることは、あまりに非現実的な神懸りである。また、ユダヤ人が、イエスを殺したのが悪いと云って内政干渉をしながら、そのユダヤ人を虐げ殺すのは、明らかに手前ミソだ。」

......これらは凡て、ユダヤ側に立っての言分である。これに就いては西側の言分も山ほどあるだらう。しかし、今までユダヤ側に立っての言分を述べたものが余り少ないので、それをここにわざと挙げた訳である。

ところで、第三者である我々日本人は、この双方の言分をよく考ヘて何れにも傾らない平らな新しい神学を立てるべきであろう。

それにつけても、全く西洋神学に頼らずに、独自の考の許に独立教会を建てた新渡戸・内村両先生を創めとする諸先輩を心から敬う次第である。それと共に、我々は儒・仏・基・回を消化しての新なる民族宗教である我が神道、即ち国民精神に深く思ひを至すのである。それは世界性を持った上での民族的特色を明らかにしたものであることは言ふまでもない。

こんなことを考へ、また話しながら、私たちは、テルアビブに帰って宿に着いた。すると、女性で交響楽の指揮者であるPiattelli女史が己が家に来てくれと招かれた。行くと、暫くベットに休んでゐるように、さうすればジャガ芋を煮てやる、これなら腹によいだらうと言ってくれた。そのお心を有難くうけ、猫を沢山飼ってゐるので侯鳥画伯の猫の色紙と、北大交響楽団のテープを贈った。夕飯は大使館員宅で、僅か頂いて、その夜の私の講演会に出た。聞手は二百人許りで、川上公使も列席してくれた。タール博士がわざわざかけつけて来てくれ、色々とピアッテリー女史と共に手伝ってくれた。

前に述べた通りのプログラムでやり、終りに「虚空」を尺八で吹いた。幾度もやる事を求められたが、体が弱ってゐてとてもそれに応へられなかった。会が終ってから、茶話会をしてくれたので別れの挨拶をした。明る朝十時半にローマ行飛行機に乗るからだ。最も世話になったタール博士とは同胞のように親しくなり、抱き合って別れを惜しんだ。

そして、前に挙げたイザヤの詩を、皆に声高に述べて別れの言葉とした。

明る朝十時半に公使館の人に送られて車で飛行場まで行ったが、運転手がトランク一つを積込むのを忘れた。この為にローマで一日余分に泊らねばならなくなり、飛行機の都合もありひどく困った。

Roma

飛行機は、Athenaiで一時間休んで、あとはRomaに真直ぐ向った。飛行場からAthenaiの町を遠く眺めただけで、詳しく見なかったのは、かへすがへすも名残り惜しかった。

Romaまで四時間かかって午後二時過ぎに着いて、飛行場から町まで行く間の、強い南国の秋陽を受けて建ってゐる巨大な廃墟は、心を深く打った。

宿について、昨晩別れ際に長谷川君からもらった薬を飲んだ。それは東京の四谷駅近くにある北大出の医者がくれた粉末剤とのこと。これを飲んだら、腹痛も下痢もピタリと夢のように止んだ。私は北大のお蔭で生命拾ひしたような気がし、ホッとして久しぶりで夕方早くから寝入った。

明くる朝は、早くから観光バスに乗って町を見歩いた。Vatican宮殿では、與に乗り美しい色彩の儀仗兵にまもられて法王が出て来たのに、うまくぶつかった。私は何の感激も覚えなかった。聖霊に満ち満ちた人とは、どうしても思へなかった。見てゐる人々は、日本の御輿を見る時の如くザワめいてゐた。

美術館では、Michelangeloの作などを見たが、頭に何も残らない。速見御舟の孫弟子に当る私には、やはりもっと力強く象徴的な東洋の絵や像に、ドイツ人と共により引かれる。イタリヤの古画は支那の北画や我が土佐絵と全く同じである。それは、絵が東洋からローマに入ったことを証してゐる。そして東洋画のツケタテ法から写実的なものが発達して行ったのである。その後、チューリッヒ、ケルン、ベルリン、ロンドン、パリと必ず行く先々の美術館はかかさず詳しく見て歩いたが、心に深く刻まれたのは、ロンドンの美術館で見たTurnerの絵と、ルーブル博物館でのLeonardo da Vinciのモナリザだけだった。それもターナーのは、その色彩の美しい点だけだった。それは凡てが灰色な英国において、反抗的に色における理想を示したものと思はれた。モナリザの色彩は、全く古東洋的なものである。だから神秘感が伴ふのであることが解った。そしてバラバラで統一のない意識分裂を、わざとキザに真似たような、いやらしさ、ドキツさを示した現代抽象画なるものは、核爆発を作りあげた白人の分解主義、解体主義の行詰りでしかない。故に私は永遠の正自然に還れと叫ぶ。

それはともかくとして、私はローマでは何物も得る所はなかった。宿に帰り、大使館に電話して、私のトランクが、届いてゐるか否か、言葉をいとも懇ろにして尋ねた。すると「何!!大使館というものは、そんな下らぬことに、掛り合ってる所でない。勝手に自ら探し給へ」とのこと。すっかりムカツいた私は、直ちに車を飛して大使館に乗り込んだ。そして「大使館は、日本の為にあるのか、君らの立身出世の為にあるのか、先ず答へ給へ。私のトランクの中には学会から頼まれたものが一杯詰ってゐるのだ。それを、宿に行き忘れたのは、イスラエル公使館の責任である。そのおかげで一日余分にローマに居ることになった。わたしは君等に厄介になりたくないから、大臣らの名フダも持って来ない。しかし、本省からは知らせが来てゐる筈だ。あまりおかしなことを言ふと、新聞雑誌でたたくぞ。代議士ばかりに恭々しくして何だ。」とタンカを切った。そして電話に出た者を出せと迫ったが出さない。ほかの者が恐れをなして代って平あやまりに、あやまって直ちにトランクを探したら、チャンと来てゐる。

それで再び押した。「何んだこれは!!!一体君はどこの学校出だ。」すると東大だといふ。それで「東大出の者にはね、わしの弟子がおびただしくおるが、頭ばかり進んでゐて、情意、即ち芸術と道徳とが、ゼロだ。君もこの後気をつけ給へ」と訓示を与へ、大使館の車で悠々と宿に帰った。腹痛と下痢との腹いせでもある。少しセイセイした。

飛行機は次の朝十時だ。朝八時にこの地にある千葉画伯が訪ねて来られた。洋画の始まりはイタリアだからここに来た。フランスには行く気もしないといふ。好い若い人である。わたしは、その志を盛んなりとして、宿に払った残りのリラを全て、辞退する慎ましやかな、この人の研究費の片端として贈った。彼氏と、駅で飛行場行きの車を待つ間の一時、楽しく話した絵の話の思い出は忘れられない。

Zurich

飛行機は一時間ばかりでZurichに着いたので車に乗って、亡きKoller先生の家を、訪ずれた。これは東京に居られる思師の成田auch先生の御言付によるものである。

Koller先生のお宅は、眺の美しい湖のすぐ近くにあったが、奥さんは居られない。暫く待ってゐると、娘さんが帰って来られて、奥さんに電話して下すったので、間もなく帰って来られた。日本語で凡てを話される。うまく向ひの家が、食料品店だったから夕飯の材料を買って来て、太郎さん、花子さん、花子さんの小さなお子さんそれに奥さんと共に、楽しい夕餉をした。太郎さんは、サッポロの頃には、まだ小さな子供だった。小児麻痺のために足が利かなかったので、よく窓から首を出して、我々学生に手を振ったりしてゐたことを思ひ出し、それを話した。その人がもう四十近くで、スイス政府の課長をしてゐられるとのこと。しかし、独身で先生の奥さんが凡て御面倒を見てゐられる。花子さんは、二階に住んで居られてテープレコーダーを作る会社の技師をしてゐられるおとなしい御婿さんがあり、可愛い五、六歳のお嬢さんが一人ある。その会社のテープは、切れないのが特徴だといって、その切れはしを少しくれた。

お婿さんの外は、皆よく日本語を話され、その行なひも全く日本的である為に、外人とは思へない。そして太郎さんも花子さんも、どんな小さなことでも、奥さんに相談して、一々その通りにする。それがとても和やかに、共にニコニコして嬉しさうにやってゐられる。あまりに不思議なので、私はアッケにとられポカンとして、とまどひした。と云ふのは戦後の日本には、こんな有様を見ることが少なく、また外人の家庭には絶へてこんなことがないからだ。

わざとさうしたのかと思って見たが、それが余りに板について居る。しかし念には念を押せで、奥さんに「いつも、こんな風なのですか」と尋ねると、「ええ、そうですよ。親孝行は、日本の最も良い点です。太郎も花子も、私に対し、本当によい子たちで親孝行をしてくれます。日本で育ったお蔭です。私はほかの西洋人のように、淋しい思ひを少しも致しません。心から満足してゐます。それに物質的にも、何の不自由もありません。子供たちが皆してくれます。こんなことも西洋にはないことです。私は日本から帰って来て、すぐに夫のコーラーに亡くなられ、三人の子を抱へて、本当に困りました。そして駅で新聞売りまでしました。その時に北大出の方に偶々逢ひました。その方が、日本に帰って多くのお金を集めて送ってくれました。そして、日本にもう一度来るようにと言ってよこしましたが、私は三人の子をスイスの学校に入れねばなりませんので、行く事は出来ませんでした。そうすると、そのお金を自由に費ってくれと日本から言って来ました。私は勿体ないので、凡て銀行に預けて仂きました。そして、今の家をなほし、間貸しをするようにしました。私は、日本人が本当に先生に尽す、即ち師弟の間の情が厚いことを思ひます。日本は情の国です。幸をもたらし、救ひを与へる国です。それですから、私はこちらの教会などに行きません。絶対行きません。私が困って居た時に何をしてくれましたか。偽善者ども。あなたも絶対に教会などに行ってはなりませんよ。私は亡きKollerに代って、あなたに、その事を言ひ聞かせます。日本を愛することです。私たち親子と共に。いいですか。」と、後は涙で顔をおはわれた。私も感極って泣いた。

親鸞は「よき人の仰を蒙りて、念仏申すなり、たとへ地獄に入るとも、このことを止めず」といった。私はとうとう日本における家族制度廃止に対して、生命を棄てて戦う気にさせられてしまった。

その夜、奥さんが電話で方々のホテルを聞いて下すったが、室がない。止むなくこの家のあいてる室に泊めて頂いた。

明くる朝、早く起きて湖のほとりを散歩し、食料品店に立寄って、皆の分の朝食を買って届けてもらった。奥さんは痛く恐れ入って居られた。皆で再び面白く尽きせぬ札幌の思ひ出を話しながら爽かに朝食をとり終ってから、奥さんと御孫さんとの御導きで、美術館へ行った。奥さん達は見終る頃に再び迎へに来るといって帰って行かれた。私は一人で、ブラリブラリと絵や彫刻を見てみると、一人の日本人がタメツスガメツやはり見てゐるのにブツかった。声をかけ話してみると北大の医学部の教授だった。彼はドイツに行って来たといふ。その大学は何れもたいしたことはなかったが研究所は、仲々やってる。しかし、到る処の研究所で議論を戦はせてヤツけて来たと、意気頗る盛んだった。さすがに北大なるかなと、この後輩を頼もしく思ひ、それからは仲よく何んとかかんとか二人で絵の悪口しながら見て歩いた。その絵のうちに日本人のがあった。余りに下手糞なので、少なからず辱かしい思ひをした。もっと上手な人が沢山ゐるのだから、こんな観光地の美術館には、よい物を掲げて欲しかった。

見終って暫くすると奥さんが来られた。よって、やはりコーラー先生の生徒だったこの教授をお引合せし今度は三人で、湖の全景やアルプスの山々が遥かに見えるという山の上に電車で昇った。ところが運わるく霧で何も見えない。奥さんの御言葉で、料理屋に入り昼食を頂いた。大変おいしい料理であった。まことにお気の毒した。

そこから山を降り、御宅に帰り、荷物を持って駅にかけつけ、飛行場行きの車を待った。かの教授も、わざわざ送ってくれて有難かった。私は宿に泊らず、色々御厄介になったので、辞退する奥さんに少し許りの金を無理に差上げた。

車が出る時、奥さんは涙ぐんでいつまでも手を振ってゐられた。

飛行機は、午後四時頃に立つことになった。乗込む時に、帽子も冠らず、カイゼルひげをはやした赤ら顔で、背のチンチクリンの風ていの悪い毛唐が、私の顔を見ていやにニヤニヤしてゐる。こいつ怪しげ気な奴と思って、用心して座席も遠ざかって乗った。飛行機がアルプスの山々を越ゑて四十分でドイツのStuttgartに着くと、この怪しげな奴が、後からノコノコ付いてくる。そして税関で荷を解かせられ荷物を調べられてゐる間も、色々と手伝ってくれる。これが終ると、一杯一緒に飲まうといふ。いよいよ来たなと思ったがイザとなったり柔道でブン投げるつもりで腹を決めて今度は彼の後にくっついて行くと、ターミナルの中の酒場でビールを二杯もって来て飲めといふ。そして金は俺が払ふから遠慮するなとのこと。少し変な気になって少々警戒心を解くと、「俺はアメリカ人だが女房が日本人なので、日本人を見ると、なつかしいのだよ」と云ふ。なーんだと思ってホッとしたトタンに旅に出てから始めて酒を口にしたので酔が廻って好い気持になった。近くローマに行くとの事だったので、千葉画伯に名刺で紹介状かいて、堅い握手を交し別れてひとりで駅に向った。

車は駅の向側に止った。重い荷物を二つ持ち、それに肩から楽器袋をさげてゐる。一人では、とても交通烈しい大通りを渡って駅に入れない。すると一緒に下りた婦人で二人の子を連れた人が、親切に「私が手押車を押し荷を運ぶ人を呼んでくるから、この二人の子と荷とを頼むといふ。有難く承って暫く待ってゐると運ぶ人を連れて、ニコニコして帰って来た。そのお蔭で悠々として大通を押し渡って駅に入り得た。そこで運び賃を私が出すと言ふと、彼女きかずに自ら出してくれた。その上に私に何処まで行くか、切符を売る所に行ってあげるといふ。そして切符を買ひ終るまで付いてゐてくれた。そして、さよならをして、二人の子を連れニコニコして去って行った。かねてドイツの母親は敬ふに値すると聞いてゐたが、成程と思った。日本人は懇ろだといはれてゐるが、この様にこまかに行届いた懇ろさを外入に示して居るだらうか。一寸考へて、あまりドッとしなかったので、あはてて、心から、こんなことを払ひのけた。いやなことは、心に長く止めておくと腐るから、いち早く払ひのけて澄まして顎を突き出して、ホームに向ひKarlsruhe行きの列車に飛び乗った。

Karlsruhe

私が何故、まっすぐ飛行機でFrankfurtに行かずに、この様にわざわざ横道にそれるかと云ふと、Karlsruheには、北大予科時代の思師のあの巨大な御体の持主であり、無暗に恐ろしかったKremp先生が居られるからである。先生は、ドイツの大学を御出になられると、すぐに札幌にお出になられた。ニコリともせず、ギューギュードイツ語をドイツ流にいとも甚だ厳しく注ぎ込まれた。ドイツ語の苦手の私は、ことの外まいって、しこたま恐入った。完全にギウジられた訳であって、全く頭が上らない。後の方に座って、遠くから目をパチパチして先生の恐るべき巨眼を時々垣間見てゐた位だった。

そのコワイ先生に、なぜ敵意を持たずにワザワザ横道してまで逢ひに行くかと、いふ人もあるだろう。いったい人間といふものは、そんなものである。コワイもの見たさと云ふこともあるだろうではないか。

それはともかくとして、夜十時過ぎに、Karlsruheに着いてしまった。さあ大変、先生の巨眼が飛び出る程、またまた叱られはしないかと思って、ヒヤヒヤし、ひどくおびえた犬のようになって、車でかけつけ先生のお室のベルを三度お定まり通り鳴らして、顔をブルンと手でなでて待ってみた。一向に手応へがない。御留守かも知れない。これは弱ったことになったぞと思って、とにかく暫くして念の為と考へ、もう一度ベルを押すと、トタンに二階の窓から、夜の静まり返った街に木魂する破鐘のような大きな声で、「誰だ」と来た。勇気を振い起したが蚊のなくような我ながら情ない声で、「空山でござい......」と恐る恐る上を見上げてお答へ申し上げた。

すると。バタバタ急いで降りて来られパッと戸が開く。トタンにニコニコした御顔で、しかも和服姿の先生だ。私は二重にビックリして口あんぐり。といふのは、何しろ先生の笑顔を拝見したのは、生れて始めてだ。それに意気に和服を着こなしてシューッとしてござる。これが本当のイカスだ。「とにかく御入り、今寝ようと思って和服に着代へてユックリしてゐたところだ。君が今来るとは知らなかった。よく来た。」と、生粋の江戸弁でまくし立てられて、胸なで降した。一語一語またドイツ語を直されるのでないかと、心のうちでビクビクしてゐたからだ。

先生は四間の室をとって一人で住んでゐられる。ストイックな先生は、毎朝相不変、冷水浴を続けてゐられるとのこと、ツヤツヤした御顔だ。博言学者で博士の先生は、Heidelberg大学で、日本語や日本文化の講座と、この地の専門校でギリシャ語やラテン語を教えてゐられる。色々と思出話しを少ししたが、夜も遅くなるので宿を探しに行かうと言はれた。「洋服に着代へて来るから待って居ろ」とおっしゃる。その間に私は、成田先生から託された扇、私が先生に捧げる鳩居堂の香や、侯鳥画伯の絵、筆墨紙、北大の岡教授から頂いた北海道の燻製などを、ゴソゴソ荷物から出して、先生に差上げるべく机の上に並べた。飛行機で荷は二〇キロまでであり、テープや講演材料が多いので、禄なミヤゲを持たらし得ない。ホンの志の印だけだ。それでも先生は喜んで下すった。よって私も嬉しかった。

夜更の町に一緒に出て、先生はわざわざ二、三軒宿を聞いて下すって、ようよう三度目にありつき、明日朝来るからと言って、トコトコと夜更の町をひとりで帰って行かれた。

明る朝、宿で朝食をとり、お待ちしていると先生が迎へに来られて先生のお宅に行き、色々と話しをし、それから王城跡の公園に連れて行って頂いた。それは、造園学上でいうドイツの森林公園であり、これを初めて見た訳だ。王城は古い建物であるが、一部爆撃でやられたので、直してゐた。そこの公園に、日本の熱田神宮の写しの神社が、厳として建ってゐたのには驚いた。熱田の神もまた御外遊中かも知れない。近頃の日本の様を見ると、全く芯がぬけて、ボヤボヤッとしてるからだ。そして、逆に大和魂を持ってゐるかと、ドイツ人からドヤされる始末だ。

それから動物園を見せられた。東洋のものが色々入ってゐる。これを見てゐるドイツ人は、如何にも面白そうで心を引かれてゐるのには妙な気がした。彼らは、動物がたまらなく好きらしい。相通う所が、大ありと云ってはイカンだろう。

そこから帰り道で、先生は戦の時にどこへ行っても日本で、憲兵や巡査につけ狙はれて、誠にいやだったと話された。先生は大のヒットラー嫌ひであった為である。といって先生は自由主義者でも社会主義者でもない。厳然たる生粋のドイツ主義であり、そして心から日本主義を慕ってゐられる方である。とにかく、ひどく純粋を好まれ、そしてストイックである。

その夜、私の宿に来られ、夕食を振舞って下すった。そして「日本人は、こんなにして三十年にもなるのに忘れずに、その師を慕って来る。親が子を思ひ、子が親を慕ふ心、それは自然の情だ。君を思ひ、友を思ひ、夫婦が互に思ひ合ふのも自然の情だ。この正しい自然さを屈げてはならない。日本はいい。ドイツには、こんなことはないのだ」と巨眼に涙ぐまれて話された。私はあはてた。そして先生の涙によって、再び家族制、天皇制に対するモヤモヤを清らかに洗はれた。予科生の時の如く六十歳の私は下腹に力をこめて「先生大いにやります」と、東の方を望んで叫ばざるを得なかった。先生は、ニッコリされて喜んで、見守ってゐられた。

(農学部卒)

北大季刊刊行会 第22号 発行日:1962年6月25日