イスラエルと西欧への旅(二) ~高橋空山~

その次の日、朝早くクレンプ先生が、わざわざ迎へに来て下すって、Badenbadenといふ名高い温泉地に行った。西欧の温泉地は、日本のと違って、凡て体をよくする為の所であり、従って町ぐるみ公園のようになって居て、極めて静かだ。小川が流れて居て、そこにかかって居る古い橋桁には、暮秋のツタカヅラが、紅にそめて、それが水に映って、たまらなく美しかった。

先生は、この川は《Ode》川と云ふのだと、いはれた。そして、その川に沿って、小春日の暖い光のなかを、色々な話を楽しくしながら歩いた。ところが、時々、先生は立ち止まって笑ひながら「高橋君! !この川の名は何んと云ひますか」と、学生の時のように、覚えて居るかどうかを験(ため)される。「ハア、オーデ川であります」と、椅子から立ったように、一つ武者振いして答へ申上げると、いとも満ち足りた御顔して、ニッコリして、「さうです」とゆっくり、うなづかれる。それは、昔を思ひ出されて、先生にとっては、いたく懐かしく、そして面白いのに違ひない。犬に芸を仕込む時のようにオーデ川の川ぶちを離れるまで、何度も何度もこの茶番劇を繰返させられ、繰返して、この二人の白髪の師弟は、心から喜び合った。まことに、たわいのない、上ずったことかも知れないが、今、思ひ出すと、私にとっては、たまらなく懐しい思い出であり、おのづと涙が出て来る。私は世界一の倖せ者である。こんな良い師や、母や家の者や友や教へ子に、いつもガッしりと囲まれて居る。そして、学校の時に、余りドイツ語をやらずに、先生方に御叱りを受けた償ひに、後の祭りではあるが、卒業してから、コツコツと一人でドイツ語をやった報ひもあって、かうやって、長い年月、あこがれて居たドイツの土を踏むことが出来たのであった。私は今天国に居るのだと思った。

さて、どこへ行くのかと、先生にお尋ねすると、女の修道院に、とても、うまい葡萄酒があるから、それを買ひに行かう、と云はれ、ものの四十分程も歩いた。その道は、全く公園のなかを歩いて居る時のような、あたりの眺めであった。時折り人にブツかる。そのなかに、やはり、若いドイツの男と女とが、腕を組み合せて、はしゃぎながら来るのに出合ふことがある。すると、ストイックで厳かなクレンプ先生は、お顔をしかめてクシャクシャにし、二目と見られない嫌な面持をして、お顔をそむけられる。

いとも滑稽であるが、そこは長の年月坐禅で鍛へた下腹に力を一つウンと入れてこらへ、吹き出して笑うような、なめげな振舞はしない。先生は、戦の前は、あんなブザマな真似をするドイツの若僧はなかったと、繰返し繰返しなげかれた。先生を悲しませない為に、日本にも、あんなアミーバが居ると、思ひ切って言ひだす程の勇ましさが出て来なかった。「悪貨は良貨を駆逐する」で、こんな米ソ仕込みのアミーバばかりが、拡がって、人のたぐひは、全て、この世から姿を消すのが間がないかも知れない。

かうやって、ブラブラ歩いて居るうちに、修道院に着いた。とても美しい尼さんが、窓から首だして、「何か」と云ふ。先生は、「例の葡萄酒を一本わけてもらひたい」と、云ふ。

尼さんは、ニコニコして、うなづき、やがて、それを持って来て渡し、あとは、ピシャリと、あっけなく元の通り小窓の戸を閉めてしまった。しかし、その清らかで、穏かな気分は、いつまでも後に残ってあたりに漂ひ、そして深く心に刻まれた。聖母マリヤに明け暮れ仕へて居る人、その人は、先程のアミーバとは、十万億土ほどの隔りがある。この音楽の対位法は成立たない。

ところで、このおいしい葡萄酒なるものは、いつか私の口にも入るものと、少なからず当にして居たのであったが、うまいうまいと先生がヨダレを流さんばかりにして長々と御話だけして、それを承っただけで、遂いに御別れするまで、味はうことが、出来なかったのは、いつまでも口惜しい気がする。けだし、博言学者の先生のことだから、何か博言学か道徳学的に見て、私には飲ますべからずと云ふ結論にでも至ったのかも知れない。

その代りに、とても、おいしい昼飯を料理屋で頂いた。その時に、タバコを吸って灰皿に消したのを置いておいて、再びそれに火をつけて呑む私の癖を、先生からたしなめられ、「そんなケチな真似をドイツに来て、日本人ともあろうものが、してはいけない」と云はれた。かしこまって、御教への通り、人の前では致しませんが、ドイツの物価は、日本の四五倍なので、タバコ好きの私のタバコ代も、ケチにしなければ、懐工合にさはるのですと、申上ると、だまって、うなづいて居られた。それから、その敵討ちではなしに、別れしなに、先生のお好きな葉巻タバコを駅の店で、求めて差上げた。これは皮肉でも何んでもない。教へ子たるものは、みづからをケチにしても、先生や親には、たっぷり、物を差上げて、喜ぶ顔を見たいと言ふのが、人の常である。その情に従ったに過ぎない。

先生は、その時、例によって、厳めしく御顔をしかめられて、困って気の毒がって居られた。いい先生であります。

その夜は、宿に帰り、先生の色々な御心づかひに向って御礼をも兼ねて、夕飯を差上げた。バーデンバーデン行きの全ての掛りは皆先生が出して払って下すったのである。

先生と色々の話をしながら、夕飯をたべて、この地における終りの夜を楽しく過したことは忘れられない。先生は、日本語の新しい仮名遺ひを、博言学の立場から、小間々々ときつく責め、且つ、なじって居られた。まことに、御尤ものことである。私もオッシロスコープまで使って、験(ため)して見たのであるが、全く先生の学説通りである。このことは、先生ばかりでなく、アメリカの大学の教授たちも、同じ結論に至って居る。そして戦が終った後の最も悪いことは、今まで問題にされなかった例外がはびこって、例外を一般原則にすることを米国の力をかりて強いて行なったことだ。だから、全く科学をなみし、直して却って悪くしたのである。いよいよもって私は、仮名遣ひまでも、フラ付いた考を止めて、思ひ切って、昔通りにし、押通すことに心を堅く決めたのである。真理に生きることは、死をもって通さねばならない。楡の木の木蔭で、友と共にちかひ合ったことは、死んでも後に残さねばならないのだ。私たちは曲学阿世のヘッポコ学者やジャーナリストとは、違ふのだ。クラークさんからの筋金入りだ。

大いに先生の御話しに心を強くし、また申し訳なく思った。私はドイツに来て、日本を遠くから見直す折を与へられ、そして心は戦の前に前にと還らせられること許りだ。何かしらモヤモヤが取れて、スッキリし、本来の面目に還って行くやうな気ばかりする。日本人は、日本人に還ることが、最も安らかで正しいことなのだ。狂って居るとロクなことはない。なほ、仮名遺ひについての詳しい話は、「政治経済新論」にのせてある。

とにかく、夜遅くまで先生と話した。先生は夜霧の街を、幾度も幾度も振りかへっては手を振りながらお帰りになられた。私は街に立ったまま、涙がポタポタと土に落ちるのを、どうしようもなかった。

その夜は、お蔭で、どうしても寝つかれない。それに隣室での話声が気になって、なおさら眠れない。しかたがないから枕もとにあったラヂオを、聞えるか聞えないかぐらいの微かな音にして見た。そうすると、流れ出して来たのは、ドイツ音楽である。

私は、その時、初めてドイツ音楽を、身をもって少し解る事が出来た。と云ふのは、ここは、まぎれもなくドイツであり、その環境と、ドイツ人のなかにあり、そして、この環境と人とから、かもし出されて来る気分と云ふものは、この地に行ったものでないと、味はふことの出来ないものである。即ち音楽は人と土から離し得ないものなのである。私は、この辺りの気分のうちに、すっかり溶かされてゐる。だから少しも頭を、ことさら使って、頭で解ることはいらない。体の凡ての所からドイツ音楽が、入って来て、それに溶かされてしまった。それは何の不自然さもない、極めておのづからなものである。学生の頃、今は亡き森田海鳥から、難曲であるスクリアビンの《法悦の詩》のレコードと、スコアを無理々々押込まれて教はったりしたのであるから、洋楽には若い頃から親んで来たし、また和声・対位・旋律・楽式......と云った専門的なことも、一通りやったのである。そして、ひとっぱし、洋楽通のつもりでゐたのである。ところが、ここに来て、初めてドイツ楽を解ったやうに思ふやうになったのである。何んでも、やはり本場で聞き味はねば、解らぬものだ。何んと云っても、その環境の気分が物を云ふのである。

アルプスを越してから、晴れた青空は一回も見ず、来る日も来る日も灰色の空ばかりであって、気温はまだ十月なのに十度前後で厳しい寒さだ。そして秋から冬にかけて、春までは、こんな空の有様だとのことである。だから、ドイツ音楽のあの灰色で冷たい、そして厳しい気分が、そこに現はれて来るのであった。そして、ドイツ人といふ堅苦しく、ゴツゴツした威(い)かめしい民の心持も、この環境のお蔭をたっぷり受けて育って居るのである。

この土と人とからドイツ音楽が生れて来たのである。これと同じことがオーストリヤでも、イギリスでも、フランスでも云へることが、あとで身をもって解った。

しかしである。わたしはドイツ人ではなく、またドイツに生れたのでない。やはり外から見てゐるのであって、内から見てゐるのでない。だから真にドイツ楽が解ったとは言へない。そこにドイツ楽のこの世に占める場があるのだ。

汲めども底に至らぬ深さ、それを日本で汲んだよりも、深く汲んだと云うに過ぎない。まして日本の座敷や日本式洋間で、ほかの国の音楽を聞いても、それは冷凍ニシンを食べたやうなものである。そして、今、日本に帰って、ほかの国の音楽を聞くと、その時のことが色々と思ひ出されて、身も心も、彼の地に飛んで行き、懐しさに胸が熱くなる。それは民謡を聞いて、その古里や旅した数々の思出になつかしむ心持ちと同じである。

ここで序でに、民謡のことに触れておきたい。音楽は、土と人とから離れられないものであることは、前にも述べたが、その土と人とから音楽として、先づ初めに生れ出て来るものは、民謡である。だから民謡は音楽における母である。ドイツの民謡は、最もよく、ドイツ音楽の気分を現してゐる。これを大きくしたのが、室内楽や交響楽だと云へる。もっとも、他の国の音楽のお蔭を蒙ってはゐるが、何にしても、その底に流れてゐるものが、ドイツ魂であることは間違ひない。

このことは、日本にも当てはまる。人は民謡などは低い卑しいものだと考へるかも知れない。しかし、宮中や社寺で神仏に奉ってゐる催馬楽は、みな古の民謡である。この飾り気のない素直ほな野の叫びを歌ひあげて、神や仏と共に人々が、相なごみ、相楽しむのである。お盆には、今は亡き懐しき人々と共に慰め相ひ、楽しみ相ふのだ。これは礼記にもある通りであり、また古のインドでも仏典によれば同じであり、西洋でもさうである。これは、民族学の上からも、あらゆる民と土とにおけるものであることが知らされてゐる。だから民謡は、民族学・音楽学の上から云っても、徒らに卑しむべきものではないのだ。

それで、わが国では、却って神楽のうちに、これを入れて正楽としてゐる。そして、そのほかのお座敷唄や乞食唄、盲人唄など芸人のやるものを宴楽として、正楽の下において居るのである。

だから民謡は、卑しむべきものではない。これを卑しんで、はかの国の民謡の、例へば「螢の光」、「庭の千草」、「ロンドンデーリー」などをあがめ奉ってゐるのは、私にとって解らない事柄だ。まして、その我が国の民謡を基にして、室内楽や交響曲を作ること、チャイコウスキー、リスト、ベトフェン、モツァルト、グリーク、バルトーク等々の如くでなくて、ほかの国の出店のように、ほかの国の音楽に肩を入れ、それを伸してゐるのは、余りに、ほかの国に手伝ひ、筋を立て通して、己れを忘れてゐる訳の解らない担ひ商人の押売り見たいに見える。星ばかり見て歩いて井戸にたたき落ちた賢い人のようにならねばいいがと、少なからず心を痛めてゐる訳である。

とにかく、民謡の野の叫びは、最も多くの国民に歌はれ親しまれてゐる。それは、魂をその本領に還らせ、その心の古里に立ち還らせる。最も健かな心へ向ふことをなさしめる。これを歌ってゐる時は、文句なしに、いい気持になり、心がセイセイして晴れやかになる。ことに、戦の後で狂って、いつも難しい渋い顔して口尖らして額に八の字をよせてゐる学者、ジャーナリストなどは、民謡を歌ふべきだ。赤旗かついで労仂歌をうたって蛇のように街を、のたうち回ってゐる者たちも、民謡を歌って、少しのほほんとノンビリした、ゆとりのある構へをしたらどうか。この町練り歩きも、ほかの国の出店での真似だ。日本人とは、オランウータン族なのだらうか。もっと、ほかに為すべき大事なことがあるのだ。それを忘れて、心をうはつかせ、眦をつりあげて、のぼせ上ってはなるまい。

とにかく、民謡は、心から大らかに、しっとりと何のこだわりもなく、人々の心を溶かし、心を振ひたたせる母の乳である。これを基にして、室内楽や交響曲を作って行くのが、音楽としての本筋である。普化宗尺八曲には、こんな編曲が、数多いのであり、三絃の名曲の琉球組や箏の組歌にも、こんなのがある。それを伸して行くのが、音楽人としての務めでなければならない。最も多くの国民に親しまれ、そして、その編曲を望んでゐる国民の心を、顧みずに、あらぬ方に音楽を持って行き、国民から離れて浮き上ったアイマイ屋の顔色ばかり気にしてゐると云ふことは、頭が少しどうかして居ないか。とにかく、国民を相手にせず、無国籍のさ迷へるオランダ人の人民ばかり相手にしてゐる手合ひは、やがて国民から消されてしまうだらう。それとも、このコレラ菌は、国民を凡て滅すだらうか。例外を一般原則とする誤りを、ここにも見出すのである。

とにかく、民謡はいい、耻かしがらずに一ぺん、とっくと歌ってごらんなさい。悪いことは申しません。

私は、演奏会で交響楽団が民謡の伴奏をやって、聞いてゐる人々が皆で、民謡を唄って共になごやかに相和し、相喜び、相楽しむようであってほしいと思ふ。「至楽は、天下の民和す」、「楽」は「仁の和なり」である。人は心から打ちとけて相和する時は、手を拍って、体を振り振り歌ふものである。そして笑ひさざめくのだ。世界の平和を叫ぶ前に、先づ日本人は皆、かうやって、溶け合ひ許し合って和を保ち、心を一つにして、それから、これを世界に押し進めて、真の平和をうち立てねばならない。その為にこそ、ほかの国の民謡も役立つのだ。そして、私は、これを歌ってパリで、狂った若い男女を、なごやかにしたのである。

民謡は、その国民を育てる子守唄である。

先づ、限りがないので、民謡より初まる音楽のことは、この位にして止める。なほ民謡については、先輩の権平昌司教授がゐられるから、とくと、その話を承り、そのお人柄の温やかな気分にふれて下さい。きっと、心がなごやかに広々とします。誰れでも、この先輩にお逢ひして、少し話して居ると、気分がよくなるでせう。この先輩は民謡そのものです。

さて、話は元に還る。私はラヂオのドイツ音楽で気持がよくなり、安らかになって、ねむりについた。次の朝早く、荷物を取りにクレンプ先生のお家に行かうと思ってゐたら、重い荷物を二つの手にブラさげて先生がわざわざ持って来て下すった。そして、「行ったり来たりして、煩はしいだらうから、わしが持って来た」と汗をふきふき云はれた。私は目の奥が再びジーンとして来て、物が言へえなかった。だまって頭をさげ、先生の手にしがみついた。

宿の払のことも、先生が仲に入って下すって済ませ、宿の掛りの人々や給仕にも別れの言葉を、親しく交して、先生と二人で駅に急いだ。そして、ハイデルベルク行きの列車に乗った。先生は荷物を、車内まで運び網棚にまで乗せて下すった。ホームに立って、ニコニコして居られたが、列車が出て、段々遠ざかるに従って、真面目なお顔になった。そしてクルリと後向きになって歩まれた。恐らく、ストイックの厳しい先生は、悲しそうなお顔を見せたくなかったのだらう。どんな悲しい終戦の時の話を申上げても、カッと大きな目を、ことに開き、その巨眼がうるむだけで、ジーッと歯を食ひしばり、口をへの字にして、こらへにこらへてゐられる先生のことだからである。先生と云ふ方は、さうしたお人柄なのである。まことのドイツ魂を持った、男らしい方なのだ。私は、先生のお姿が見えなくなるまで、ジッと涙をこらへて窓から見てゐた。先生が、いつもサッポロにゐられた頃、繰返し繰返し叫ばれたSind Sie echte Japaner?の言葉を、心のうちで繰返して叫び続けながら......。

Heidelberg

あこがれのハイデルベルクへと列車は進む。あたりの眺めは、北海道とよく似てゐる。前に坐ってゐる若い人と、色々な話をしてゐるうちに、やがて目指す所に着いた。荷物を駅に頼んで町に出たが、ハイデルベルクのまことの町は、ここから電車で二分ぐらい行かねばならない。そこに着くと、まだ朝が早いので誰れも通ってゐない。終点まで行って、ネッカー川のふちで降りた。そして川の眺を橋の中程に立って眺めた。この川沿の眺めのことは、しばしば書物で美しいことを読んでゐたが、来て見れば、それ程でもなく、川水は濁って居り、極めて当り前のもので、少しガッカリした。引き返して町中をブラついて本屋により、私の専門の造園学の新しい本を買った。本屋のオバさんは、ニコニコしてゐて親しげにしてくれた。遠い日本から来たせいもあるだらうし、また日本は戦の時に仲間だったので、ドイツ人は凡て日本人には、よくしてくれる。私はこの心をいつまでも共に、末長く裏切ってはならないと思った。

この町の名高い古い城を見ようと思って、この町のしるしである古い狭い路々を通って、山に登りかけたが、余り遠いようなので半ばで坂を下りて引きかへし、再び町中をブラついた。大学は、あちらこちらに散らばって立ってゐる。全くの学都である。その古めかしい町、狭い昔ながらの道々は、ことに心に残る。ものの一時間ばかり、町をブラついたので、もうこの位でと思って、再び電車で駅に引き返した。荷物を受取らうとして、預り証を探したが、どうしても見つからない。私は困った。Frankfurt行きの列車が、間もなく来る。それにどうしても乗らねばならないのだ。ジリジリして探したがない。致し方なく駅の掛りの人に訳を話すと、「宜しい宜しい」といって、その訳を書き、サインをさせられて、荷物を渡してくれた。その時である。荷物扱ひの、この人がスーッと出て来て、重い私の二つの荷物を軽々と持って、私について来いと云ふ。そしてホームまで持って来てくれ、ここに列車が来るから待って居ろと云ふ。お礼の金を渡さうとすると笑って手を振って要らないと云って、幾度も後ふりかへり、ニコニコして階を昇って帰って行った。私は何んとも言へない有難さの心で胸が一杯になった。私は生れてから既に六十年だ。その間に、日本の駅員で、こんな人に一人もブツかった試しがない。皆厳つい顔して、ブツキラ棒で、形だけ言葉がうやうやしくて、人を罪人扱ひしてゐる。ある時などは、たまりかねて、怒鳴り付けたことも、しばしばある。おまけに、赤旗ばかり担ぎ廻ってストばかりして、我々を困らせて許りゐる。そして、列束の時間が正しいことだけただ一つの誇りにしてゐる。こんなのはない。荒々しい雲助や狼よりも、もっと劣ったケモノに過ぎない。私は、この事を思ひだし、胸糞が悪ままにフランクフルトに着いてしまった。

Frankfurt, Dusseldorf Koln

フランクフルトは、昔からの古い町である。駅前にあると云ふ日本航空の支店を、重い荷物をブラさげて、やうやう探し当てたが、家移りして居て、どこに行ったのか、さっぱり解らない。日本人のする仕事は、凡てこんなものだ。

ボンヤリ立って居ると、通りがかりの人が、ツカツカと来て、日航支店へ行くのかと云ふ。さうだと云ふと、手控へを開いて、その所を教へてくれた。そして、ニコニコして去って行った。お蔭で助かり、車に乗って、そこまで行った。そして、手続きしてもらひ、車で飛行場まで序があったので送ってもらった。飛行場のターミナルの食堂で、この送ってくれた人に礼として、夕飯をあげた。その時に食べた魚のヒラメは、何の味もない。もとより、ヨーロッパの野菜でも肉でも果物でも、凡て何の味もなく、うま味などは更にない。土がひどくやせて居るためである。私は札幌で学んだ時、西欧の土が、こんなにまで、やせて居ることは習はなかった。明治の日本の学者たちは、西欧の最も進んだ良い模範的な試験場や大学の試地のやり方だけを、持って帰ったことが解る。この事は敢へて土壌学や肥料学に限ったことではない。凡てにおいてさそうなのだ。だから、西欧々々と云っても、押しなべて凡てが進んでゐる訳ではないのだ。むしろ国が小さいだけに日本は、すぐに何んでも広まるので、食物なども、こんなに良いうまい物が、出来るようになったのだ。いう迄もなく、寒さ暑さの移り変りや、日の照り様などが大いに響いてゐる。

とにかく、西欧の食物はうまくなく、日本のはおいしい。と云つて、少し日本のことをほめると、すぐに己惚れて、更に前に進むことを忘れて、ピンボケになる、オッチョコチョイが、日本人の悪い癖だから、これは慎しまねばならない。

とにかく、それは、それとして、飛行機に乗って、四十分程でDusseldorfに着いた。日航の人に迎へられ、その支店に行き、更に支店長の私宅に招かれた。この家は、市で建てたものとのことであるが、室のなかの窓ぎはに、それに沿って温床が作ってあり、そこに草花を植えてあるのは、新しいやり方だった。何の事はない植木鉢を大きくしたようなものだ。しかし、室に蒸気が通って居ていつも暖いから温室と同じだ。だから、こんなことも出来る訳で、これは段々日本でも行はれるようになるだろう。色々と楽しい話をして、ビールをのみサメの卵を食べたが、これはうまかった。北海道の筋子を思ひ出した。

そして別れを告げ、車で送って頂いて、夜更けにケルンの宿を、やうやう探し当て落ちつき、疲れ果ててゐたのでグッスリ寝込んだ。

次の朝早く起きて、東京で知合ひになり、私を招いてくれたDr.Mersmanを訪ねる為に音楽相談所を訪れた。仝氏とは、武蔵野音大で逢った。それは音楽学会の頼みで、仝氏に私の普化尺八を聞かせてあげる為だ。その時、彼は世界一と云はれる音楽学者であり、評論家であるにも関らず、首を深く椅子に埋めて、感に堪へぬようにして聞いてゐられたが、曲が終ってつと首を上げると、物につかれたように、暫しその評語を夢みるような目ざしをして談られた。そして、そのうちで最も心に残ったのは「天の楽とも、はた地底の楽とも分ちがたい」といふ言葉であった。

そして、ドイツに来て各音楽大学で日本音楽の話をし、また尺八を吹き放送もしてほしいとのことだった。私は、その前に来たDr.Stuckenschmidtからも、ほぼ同じような讃め言葉をもらった。そしてシュ博士の如きは、わざわざそのことを芸術新潮に書いた程である。かやうになるには東京芸大の野村良雄教授や日大の土田貞夫教授や立大の辻壮一教授らの学会の主だった友の御力によるものである。

私は学生の頃から既に四十年、邦楽の専門誌に筆をただで執って来た。それは日本楽を伸さんが為である。どこの国だって、己が国の音楽を重んじない国はないのだ。ドイツなどでは、ドイツ楽をイギリス人やフランス人がやっても、しっくり来ない。まして日本人などがやって聞いていて辱かしい思ひをする楽にして欲しくない。ドイツに辱をかかしてくれるなと頼む。まことに尤のことだ。また、ある日本の交響楽団がドイツに行って、彼の地の楽をやった時ドイツの人々は「我々は、我々の楽を、わざわざ遠い日本から来てやってもらはなくても、もっと本場ものが、こちらにあるのだから、敢へて聞きに行くことは要らない。やるなら日本の楽をやって欲しいものだ」といった。これも尤もな話だ。しかし、ドイツその他の国へ行って、雑り気のない生粋の日本交響楽をやるとしたら、それは一つもないのだ。はばかりながら、私が北大に捧げた「虚空」の外にはないのである。

私は大学出た時に、虚無僧をして歩いて、中里介山氏に知合ひとなり、氏は、私の尺八を日本一だと云って新聞にもかき、また「大菩薩峠」のなかにも書いた。然るに芸人どもは、よってたかって、これをつぶす為にあらゆる手立をした。私は尺八吹きではないから何んともない。宮城県の名高い松島公園の新しい設計を県庁に務めながら、ノン気にやり、松島の月夜にひとり尺八を吹きすさみ、瑞厳寺で坐禅して暮した。しかし、日本音楽についてのことは、更に深く考へてゐたのだ。

そして、戦になり、シナの南京の大民会主席顧問を軍から頼まれてやり、日本に帰ってからは、もと北大教授だった恩師森本厚吉博士のやっておられた女子経専(今の女子短大)で教へる側ら道場を開いて剣禅笛の普化宗を広めたのであった。

そして戦が終ると共に、凡て公職を退き、孔子にならふ訳ではないが、「退いて楽を正す」仕事を十有余年つづけて来たのである。それは、日本のインテリが余りに冷たくて血の気がないのを、何んとか目ざめさせたいと思ったのでもある。それで本腰しを入れて、広く世界といふ立場から日本楽を見直すことをしたのであった。よく夜明しして真鶴の山の家で日々を送った。母や妹や妻子や友は、この金にならない仕事を、よく助けてくれた。そのお蔭で、かうしてドイツに来ることも出来たのである。

私は、メルスマン博士たちによって、世界的たることを認められたのである。それは専門の造園学で世界的たることを認められたのと同じだと、恩師伊藤誠哉前学長が後で慰めて下すった。至らぬ教へ子は涙ながらに伊藤先生にお礼を申上げた次第である。

それは、とにかくとして、私はメルスマン博士の御言添へで、ケルン音大に行って日本音楽の講演をテープ入りでし、また普化尺八を吹いた。曲は「虚空」。拍手鳴り止まずであったが、病のあとと旅の疲れとで、心残りであったが、もっと吹いて、これに応へることが出来ない。止むなく、持って行った絵を、好きな人にやることにし、手をあげろと云ったら皆あげた。

絵の数は少ないので困って、早く取りに来た人から差上ると云ったら、蟻のように急いで列をなした。限りある絵なので皆に渡らない。終りの多くの人々は口惜しがって、その代りにサインだけでもしてくれと云って動かない。私は芸人でないから、サインすることなどは好まぬのだが、気の毒に思ひ致し方なくサインしてやった。

私は、ドイツに入って初めて、音楽の専門家たちに講演をし、尺八を吹いて聞かせたのである。しかし、シュ博士、メルスマン博士といふ世界的な学者に既に聞いてもらったのだから、気安すかったが、それでも、これ程、ドイツの音楽人たちが狂った様に熱くなってくれるとは思はなかった。やはり、音楽については、ドイツ人は深いたしなみを持ってゐることが解った。日本のインテリは、まだまだダメである。そして、下らぬソネミ根性が先に立って、己れが利益にならぬと、何事も感心しない。そこには真も善も美も何もない。あるのは最も卑しむべき名をうることだけである。私は、私と仝じ同胞の一部の者をかく罵るのは、まことに口惜しいことなのだが、どうもさうなのだから、致し方がないのだ。私は西欧を歩いてゐて、ほんの束の間も淋しい空ろな思ひをしなかったが、日本に勢ひ込んで帰ると共に、これを書ゐてる今まで、どこへ行っても、淋しい空ろな日が日々続いている。日本は砂漠だ。しかし、私たちの仲間は世に勝たねばならない。

私の最も好きなスェーデンのグリークは、多くの名曲を作ったが、それを少しも解らない国人を悲しんで、作曲を止めて、ただひたすら、音楽を教へて人々の目を開いた。そして、年老ひてから再び、美しい名曲を作って世に残してゐる。私も、これにならはねばならないと、若い頃から心を決めて、今既に六十を過ぎんとしてゐる。わが国民のうちインテリ族は、美しさを知らない哀れな野の人なのである。美ばかりでなく、真も善も知らない。ただ、真似が、大方の者よりうまいだけで、ケモノのように食って、争ってこの世を終る未だ人のうちに入らぬ者たちが多いのだ。人権を言張れる程にも至っていない。そんなことは、とんでもない話だ。こんなことを書くと、必ず怒って、私をはりつけにするかも知れない。しかし、私はウソを言ふ訳にはいかない。それだからこそ、かうやって忍んで、この世には美しいものがあるのだ、美しいものとは、どんなものか、美しいものを感ずるには、かう心を進め開かねばならぬのだと、宣べ伝へて止む時がないのである。

身近かにある我国の天才が残した美しい曲すら解らない者たちが、どうして物遠いほかの国の美しい音楽が解るだろう。ただそれは、解った振りするインテリのダテのミエに過ぎないのだ。そんな偽りの心は棄てて、初めから出直さねばならぬのだ。

話は元に戻る。私が、このケルンの音大で話をすることを、そこの教授は、廊下をブラブラしていた日本の女の留学生に知らせ、これを伴って来て、講演会場の私の坐る椅子の側に坐らせた。この美しい娘さんは、ビックリしながら、辱かしそうにして、モヂモヂし私の傍に坐ってゐたのである。横浜のある医博の娘さんで、芸大のヴァイオリン科を出て、すぐに、こちらに来たばかりだとのこと。おとなしくて、しかもシッカリしたやうな子である。しかし、初めて私にあったのであり、洋楽畑で学校を出た許りなので、邦学畑の私の名などは、言ふまでもなく知らない。

だから、大いに怪ったいに思ひ、気を引きしめてゐるようにも見受けた。それに教授や学生や楽人たちを、しり目にして講壇に私と共に坐らせられたのだから、訳が解らなくなり、心のうちで冷汗だったらう。

拍手鳴り止まぬ様で会が終ったあと、ホッとした面持ちで、私について来て、「日本音楽といふのは、こんなに美しいものだと云ふことは初めて知った」と繰返し繰返し独り言のようにして、つぶやいてゐた。まことに、そうなのである。そして、どうして、まことの美しい日本楽があることを、大学を初め小・中・高校では耳を、ふさがせて教へないのだらう。つまりは、これらで教へてゐる教師たちが、まことの美さを知らないのだと云ふほかない。

そして、ヤミクモに、外国のものは馬の糞まで、よいものと思ひ込んでゐるに過ぎない。まことの美しさとは、どんなものかを、知らない音痴なのである。

それにつけても、小さい時からヴァイオリンを弾いて来たのに、日本楽の美しさが解る、この娘さんを、私は不思議な物を見るような気をして、ポカンとした。どうも解らない。

しかし、このことは、日本に帰り、その親御さんの、博士にお目にかかった時に、ヒョックリ、解った。同博士は、音楽家になりたかったのだと云ふ。そしてギターのまれに見る隠れた名手であった。その血を受けてゐるので、生れつきの楽人であり、音楽美のことは、直観的に解るのである。

夕飯をともにして、色々と話しすると、ビックリすること許りだ。先づ、楽人として世に立つつもりかと問うと、「いや嫁に行きます」と、事もなげに言ふ。それでは、お婿さんを世話しませうかと言ふと、「いいえ、私の父が選んでくれます」と云ふ。私は目を丸くして、飛び上らん許り驚いた。まだ、こんな日本人が、この世にあるのだ。なぜ、お父さんに選んでもらうのかと云ふと、「私のような世の中のを知らない者が、人を選ぶことは間違いです」と云ふ。私は、歯が立たない。すっかり、この賢こい答に、うれしくなった。これは父の博士に説いて、私の最も愛する北大の後輩の内の誰れか勝れた者に、め合せたいと思った。ほかの者には、奪はれたくない。私の娘のような気がした。

それに、ドイツに来て「風呂に入る度びに、湯槽のなかで、オ父サン、オ母サンと云って声をあげて泣く」と云ふ。「なぜなら、こんな個人主義の国に来て、初めて、日本の家族制度の良さが身をもって、シミジミと解ったからだ」と云ふ。芸術家は情に生きて居るのだ。個人主義などと云ふ狭い牢屋(シトヤ)に閉されてゐるのでない。この牢は、孤独であり、限りなく淋しいものなのだ。このことを知らずにゐる片輪の日本の学者は、まことに刑務所の独房に入って見るがいい。必ず、人は個人主義では生きられないことが解るだらう。犬猫みたいに、己が女と許りいちゃつく金はあっても、親を追放ふバカ者はオランウターン時代の代物に過ぎない。何かと言ふと、こいつらは損得のことを持ち出す。そして、親を養ふには金がかかると云ふ。だから、これをほり出して、皆の金で養ってもらいたいといふ。それは、己が責めも務めも棄てて凡て人にその尻をぬぐはせやうとする卑劣極まる心根でしかない。親の為に、もっと仂けば良いではないか、もっと金もうけすれば良いではないか。また親子のことは法的に定めなくてもよい、愛情の問題だ等と云ふバカ者も居る。法は義理人情を認めるべからざるものなのか。それなら何故、夫婦間のことを法的に定めるか、愛情は人の持ってゐる人の心の一部である。もしもこれを認めぬなら、罪人でない人の半端な部分だけ認めて、人の凡てを認めぬことになる。それが法か。それは凡そ論理学的でない。以って真ではない。そして美でもない。パリを去って暗い北極を通ってゐる飛行機のなかでも、ある大学の法学部長をつかまへて、このことを話合ったが、この人は同じ考へだった。とにかく前に述べた奴らは、例外で国民が行なって居ない事を法律にまでして一般原則としようとする。私は、近衛文麿、林銑十郎大将らの元首相たちに請はれて禅を説いた身である。だから、これら凡ての肩書でおどす愚論には、ひけをとらない。そして、この考へは古いのではない。却って、彼らの考こそ、類人猿の時に古めかしくもあとしざりしてゐるのだ。私は常に国の永遠のことを考へてゐる。とにかく、戦後には何事でも、例外を一般原則としようとする最も悪い癖がはやってゐる。僅かの学問にのぼせ上って気が少し変になってる證だ。頭に氷枕でもかぶせて、少し冷してやらねばなるまい。とにかく、大方の人々の心持を少しも知らず、象牙の塔に閉ぢこもってゐて、気が狂って居り、全く常識と云ふものを欠いてゐる者たちのことを罵ることは、先づこの位。

次の日は、メルスマン博士が、わざわざ手引きの人をつけてくれて、その上に小費として多くの金をくれた。それで、前に述べた娘さんや、その外の留学生を誘ひ出して、食事をしたり、博物館や全欧に名高い古教会に行ったり、映画を見たりした。

つつましやかにして留学してゐるのが、今の留学生なのだから、出来るだけ、彼らを賑はしてやるべきである。日本の代議士のように、あごで彼らを使ひ、車代まで出させ淫売買ひ許りして、西欧の淫売賃を釣上げたりするのは、国の辱だ。その為に募金にひどく差支へると、日本から来たカトリックの尼さん達が、こぼしてゐた。これはケルン駅前の尼さんたちが泊ってゐる所で聞かされた話である。

次の朝は、再び音楽相談所にメルスマン氏を訪ねた。それは放送の打合せの為である。ところが、私は三度、ここを訪れる訳だが、その度に、車賃が違ふ。同じ道を同じ所まで行くのだから、車賃も同じであるべきなのに、それが車によってメーターに出て来る数が違ふ。これに出て来るのだから、仕方なく払うが、何んとも割り切れない。つまりは、正しく確しかだと思ってゐたドイツの計量器も、作る所がマチマチであったりするので、さう確しかなものでないことが解る。これは敢へて計量器ばかりのことではない。それを作る所のドイツ人でも、ピンからキリまであり、どこの国の人々も大方同じなのである。そのことは、段々に解って来た。よその国の人や物だと神仏よりも尊しとする輩は、どうも頭がおかしいと云ふことを、ここでも、しみじみと考へさせられた。彼らは常に観念的で空想のみ多く、その真の姿を知らず験さうともせず、いつも懐手して空ばかり渋い顔して見つめながら、あらぬことを考へてゐるのだ。

それはとにかくとして、メルスマン氏に伴われ、昼近くに教会の近くにある放送局へ行った。メルスマン氏は、私のために廿分も解説を吹込み、その後で普化尺八曲「虚空」を吹込んだが、もっと吹いて欲しいとのことで、自ら作曲した「夜坐吟」を吹いた。これは芸大の野村教授を通してMunchenの放送局から前年頼まれて、テープにして送り、既に放送されたものである。そして好評を得て試験済みのものだから、安んじて吹込める訳だ。なほこれらは凡て、知っての通り録音しておいてあとで放送するのである。

私が吹込む時に、傍のピアノにもたれて、ウッとりして夢みるような目をして聞いてゐられたメルスマン博士は、吹き終ると、ニンマリと笑って、感激して手を私に差しのべられた。私もまた胸ふるわせて堅く同博士の手を握って、あつくお礼を申しのべた。世界一といはれる音楽学者で評論家が、わざわざ廿分も私のために解説して下すったのだ。このことは、ドイツにおいても無いとのことだ。

私は日本で二人の首相から師として尊ばれた。そして今また、遥々ドイツに来て、こんな取扱ひを受け、世界的たることを認められた。私は敢へて名を求める為にやったのでない。苦しんで努めて来たに過ぎない。その果が、ただそう成ったのだ。これで報はれたのだと思って、何んとも言へない気持になり、ボーッとした。世には名や金を得んが為に、学に勉める者が居る。だから名を得ると学を止めてしまって、こんどはそれを使って金儲けにかかる。学はその為に新たな面を少しでも開くから宜しいが、その人は学を悪く使うことになる。死ぬまで学を止めてはならない。それが義務だと同じ北大出の弟新吾が学位をえた時も、堅く戒めた。

そして私は、いよいよ研究に励んで弟にこれを身をもって示さねばならないと思った。これが兄としての厳しい務めである。幼くして父を失った弟にとっては、私は親代りである。しかし、私は母や弟妹や友に何一つ与へるものはない。ただ身を以て、しくじりと、よかったことを示し、嘆きと喜びとを与へてゐるに過ぎない。私は、メルスマン博士と別れての帰り道に、こんなことを考へてゐた。遠く古里を去ってゐて、思ひ出すのは、やはり、身の廻りについてゐる人々のことだ。それは、凡てがどこへ行っても、私から離れない大きな私なのである。その夜は、留学生たちに囲まれて、乾杯したかったが、止めて慎んで夕食を共にしニュース映画を見た。

先々の旅を思って私は、宿の近くの店からパンとハムと果物と牛乳、それに瓶づめの水を買って来ては、ひとり食べてゐたのであるが、いつも、この店の者と冗談をとばし仲よくなった。ある時、店に素張らしく肥った大きな婆さんと、私より小さなやせた婆さんとが買物に仲よく来てゐた。その和音法が頗る妙だったので、その二人に向って序でに冗談を飛した。ドイツでは、年とる女は大方肥る。それを肥ってゐる丈夫そうだ等と、おべっかを使ったら、たちどころに、お冠りが斜めになり、二目と見られない凄い顔付きされる。そこで百貨店でも肥った者向きの衣類にはstark用と書いてある。それで、私は「あんたは、とてもstarkで、まごまごすると、私の首根っこをつかんで釣し上げて、道におっぽりださないとも限らない。さうすると私は紙のように平たくなってしまう。あなたは、それを包み紙にして、ジャガ芋を包んで、その手さげ籠に入れて持って帰り、後はポイと塵箱に棄るかも知れない。だから恐しくて側に近よれない」と身振ひして見せた。店中の者は横腹をたたいたり、飛上って笑ひこけた。そして次の朝早く、宿の表に立ってゐると、後から私の背中をドヤシて、声高に笑って通り過ぎる婆さんがある。ビックリして後を向くと。昨日の婆さんの敵打ちだった。

ドイツ人は、理屈っぽく気むづかしい民である。だから、冗談は、それを補って釣合を保つ。これは全く理屈とは別な世界だ。そこでホッと彼らは息を抜くのだ。

クレンプ先生が、これだけは覚えておいて、度々使へ、そうすると、そのしるしの、あらたかなことが、すぐに解ると云って教へて下さった言葉がある。それは、Rotwein ist fur alte Knaben, Eine von den besten Gaben.

わたくしは、宿に夜遅く帰ることがある。疲れ切って居るので、前の酒場で一杯のビールを傾ける。そこには、十五、六の子供も来てゐて。フラフラに酔ぱらって、やはりクダを巻いてゐる。西欧人は酔ってふらつかない等と云ふのは、いやに取りすました公式の神士淑女の集りにしか出ない通り一ぺんの、日本の偉い学者先生や実業家や代議士のいふ言葉だ。私のように場末の安宿に一人でポツンと泊り、当り前の、そこらの人々とつき合ってゐたものとは見方が、まるで違ふ。どこの国の人だって同じ人なのだ。酔っぱらって夜更けの道に長々とイビキをかいて寝てゐたり、塀にもたれて腕組し、口をムニャムニャさせてるドイツ人を、行く先き先きでこの目で見てゐる。

とにかく、ビールを一杯だけ呑んで、いい気持になって宿に帰ると、帳場の爺さんが、鼻眼鏡越しにジロリと見る。それで、クレンプ先生から教った例の名句を、爺さんに云って、そのはてに、「いつか一杯一緒に飲まう!!」とやると、爺さん、この句を繰返し繰返し口の中で言って見て、室が割れるような声を出し、アッハハと笑ひこけて、立ったり坐ったりして、ゐたたまらぬやうにして、笑ひ出し、私が三階の階段を昇り終るまで、その笑声が続いてゐた。それから、すっかり、この爺さんと仲よしになり、互に肩をたたきながら話合ふ友達になり、何んでも私のいふことを聞いてくれた。凡ては和だ。和によってこそ、凡ては栄え喜び生々として行くのだ。日本のインテリは、いつも角つき合せ、腹を探り合ひし、競馬馬みたいに、いつも相手に勝って、それを誇りにしたい気持で一杯だ。何んと云ふイヤらしいバカ気たことか。私は、かれらと話すよりも、犬猫と遊んだ方が、まだ肩がこらなくていいから、研究の合間には、犬猫と遊んで気を安めてゐる。そして、ドイツ人も、まことに無邪気なころがあって面白い。話せる所がある。

私は、この親しくなった人々と別れを告げねばならぬ朝が来た。その朝は、例の爺さんは居ず、知らない初めての者が帳場にゐた。こいつは、いやな奴で、約束通りの宿料よりも高くして支払はさせられた。ドイツでも、やはり、こんな奴もゐるのだ。それからタクシーを呼んでもらうと、呼ぶ金と電話料とを取られた。朝早いのにわざわざ迎へに来てくれたあの娘さんたち留学生に伴はれ駅にかけつけて、Bonn行きの列車に乗った。所が、後で解ったのだが、それは急行でBonnに止まらないのであった。留学生たちは、目に涙を浮べて、いつまでも手を振ってゐた。

「人にして仁なくんば、礼を如何せん。人にして仁なくば、楽を如何せん」。鳥すらも情けの枝に止るのだ。この最も高い心の仁に腰を据へずに、つまらぬことに、義人ぶるのは、人から煙たがられるだけだ。私は元禄時代からの学者の家柄に生れたのだが、「学者とパリサイの徒は」イエスの言った通り真平らだと、ドイツの大学で臆面もなく至る処で言って歩いたが、皆が大笑してゐた。かくして空山、ヨーロッパをまかり通るだ。

Bonn

ボンに降りるつもりだったのが、急行だったので、そこには止まらずに、行過ぎてしまひ、次の駅で降りて、ボン行きの列車に乗った。その為に料金を多く支払った。ボン駅で下りて、車に乗って大使館に行く、それはウヰーン行きのことを旅券に付け加へてもらう為だ。序でに、ケルンの留学生たちから頼まれたことを云ふ。それは京大出のある留学生がベルリンに行った時に、懐かしいままに領事館に立寄って一寸挨拶をしたら、館員は「我々は忙しいのだ。君らのような者の相手して居れん。挨拶など来なくても宜しい。さっさと帰り給へ」とケンもほろろに言はれたとのことで、プリプリして居た。忙しいのだらうが、そこは、やさしく諭してやればいいのだ。何も悪いことをしたのでない。明日たべる米のない苦しみを知らぬ金持の子で、世の中のことは何一つ知らず、大学を出て直ぐに、役人などになったものは、人の気持など思ひやる心は少しもない。己れは懐手してゐて何もせず、人のやったことにケチ許りつけ、己れが気に食はぬと、上でも下でもつっかかる。我儘坊っちゃんのせいだ。

そして、内から物事を味って見ずに、外からグルグル回りながら見て、形の上のことばかりしかつかまへず、何の役にも立たない屁理屈を並べ立てる。これは、ただ人々の妨げになる許りだ。音楽に向ってもそうだ。ことに日本音楽などになると習って見て初めて、その妙所が解る。それを何んの足しにもならない四度構成だの五度構成だのと騒いで学者ぶって、青二才の癖に、六十過ぎたこの私に君づけして呼ぶ無礼な奴もある。二言めには教養々々というが、礼の仕方も知らない。いはんや茶道のフクサさばきをやだ。あきれ反って物も言へない。戦が終ってから民主々義の名によって、ミンもクソも同じ質のものだと心得てゐる非科学な者が、大きな面して世にのさばってゐる。人たるの権利は頭は持って居ず、足だけが持ってあると考へるのが民主主義だ。君主だの、民主だのといふ役にも立たない観念遊戯は止めるべきだ。上下心も一つにし仲よくすべきだ。権利は上にも下にもあるのだ。

とにかく、政治屋・役人・学者などという者たちは、あまり威張り散さず、思ひやりと云ふものをもっと持つがいい。これらに逢ふと氷枕みたいに冷んやりして、思はず寒気がし身の毛がよだつ。こんな風なことを大使館の者に向って話し、この後とも領事館員によく気をつけさせるよう話した。その人は、おとなしい人だったのでよく解ったらしく、仰言の通りにすると誓つてゐた。序でに、クレンプ先生がスシを食べたいと、幾度も繰返し繰返し絶叫されてゐたので、もし大使館で、何かの集りの時、これを作るようだったら、クレンプ先生を、よんでやって欲しいと、よく頼んだ。これも引受けてくれた。大使館の車を出してくれたので、それに乗って駅にかけつけ、再びフランクフルト行きの列車に乗った。目指す所に着いたが、ウヰーン行きの飛行機の都合で、その夜は、ここに泊ることになった。

日航の人に頼んで駅前に宿をとってもらひ、夕飯を、日航の人から頂いた。支店長は、私の知合の神奈川県教育長に使はれた人とのことで、色々と世話してくれた。

次の朝早く起きて、ブラブラ歩きしほがらGoetheの居た家を見に行った。そこで珍しく思ったのは、彼がピアノの原形の古い楽器を二つも持って居て、それを弾いて心を慰めながら本を書いたことだ。この家は、まことによく昔のままに残されて居て、家具などもそのまにしてあり、ただゲーテが居ないばかりであった。その夜の飛行機で、ウヰーンへ立ち。十二時過ぎにウヰーンに着いた。

Wiener

迎へに来てくれる筈の大使館の人が来ない。あとで解ったことだが、この言伝てを頼んだ日航の人が内田大使に伝へてくれなかったのだ。この為に宿をとるにも困り、また、ウヰーン行きの凡ての掛りを持つから来るようにと言はれたハンガリヤの公使小川清四郎氏が、金を持って来る隙がなく、そのために大方の金を私が出すことになり、それで後々の旅の金が乏しくなって甚だ困った。日本のインテリは、責任と義務とは果さず、権利ばかりわめき立てるのは、世界でも名高い。いつも懐ろ手ばかりして、金ばかりねらってゐるハゲタカである。またしても、私はシテやられたのだが、恐らくこの事は死ぬまで続いて、そして私の命を縮める最も大きな因となるだらう。今までの凡ての苦しみは、彼等のムゴタラしさから来てゐる。そして私を助けてくれたのは、いつも名もなき民であった。まことに知慧の木の実は、人の類を天国から突き落す。

とにかく困って、飛行機会社の人に頼んで宿に泊り、次の朝、大使館に電話したら内田大使みづから電話に出て、気の毒がり、直ちにBudapestの小川公使に電話し、すぐ来るようにしてくれた。小川公使は、ビッくりして次の日の昼に、四時間車を飛ばして、かけつけてくれた。

それで、とにかく、その日は町を見て歩くことにし、留学生を大使館でつけてくれた。彼につれられてBeethovenの住んだ所や議事堂そのほかの所を見て歩いた。ところが、電車の腰掛けは凡て、公園のベンチのやうな板張りの粗らいものだ。花のウヰーンなど言はれたのは、古のことで、今は何のことはない、ありふれた西欧の町々と同じだ。

この電車のなかで、留学生にイキナリ老婆がしがみついて嬉し泣きをした。ビッくりしたので、後でその訳をきくと、この留学生は前に、この婆さんの家に泊めてもらってゐたのだが、ある時に、婆さんが悪い風邪をひいた。ところが、別れて住んでゐる息子も娘も、この風邪がうつると云って誰れ一人よりつかない。婆さんは、三度々々の食物にも、ことかいて日乾しになり、弱り果てて死を待つ許りになった。このことを知った留学生は、乏しい金のうちから出して食物を買って来ては食はせて、風邪が治るまで、それを続け何くれとなく世話したと云ふ。それから、その家を出て外の宿に移ったが、三年たって、初めてたまたまヒッコリ、この電車のなかで婆さんに遇ったとのこと。婆さんは、その時のことを忘れられず、かうやって人目も憚からず涙を流して喜んで感謝したのだ。

私は、この心のやさしい若いチェロ弾きの留学生を、心の底からはめたたえた。西欧では、二十歳過ぎると親子の縁が切れ、あかの他人になってしまふ。その後は、互にどうなっても構はないのだ。しかし、こんなことを、日本に採入れなかった明治の留学者は、賢こく偉らかったと思ふ。ところが、それより頭のよいとは思へぬ今の学者や政治家は、これを新しいとして、鵜呑みにしようとする。「学者元来、世を誤る」とは、このことだ。

しかし、わが友なる北大教授には、こんな手合ひは居ないだらう。

(農学部卒)未完

北大季刊刊行会 発行日:1963年12月25日