禅には論理がないのか(二)  ~高橋空山~

 猫にも暑さ払によかろうと思って、焼酎を振舞った。 すると、先ず目玉が、ドンョリ赤味走つて、少し安からぬ顔付をし、腰がフラつき、体を椅子や机の脚に、ブツけてはよろける。 まもなく坐って、肩をユラユラさせながら、盛んに手をなめては、顔をこすり、頗る満ち足りた様をし、はては面白げに、フザけようとするが、手足 がドタドタして思うようにならん。つかまえて踊らせようとするが、踊らない。飲み足らんのかも知れん。併し余り呑んで、グロッキーになつてもらっても困る。やがて、睡くなったと見えて、「ヨロケヨロケ蒲団の積んである上に昇って行く。フーッと、一息ついて、さも気持よさそうに、手足を長々と伸して、ねてしまった。時々何か夢みるらしく、ニャオニャオやってる。暫くたつと、起上って背を円め、次に手を伸し、ヒゲを逆立てて、大きな欠伸を一つしたかと思うと、あわてくさつて一サンに水腕の所に来て、ハグハグ呑んでる。酔いざめの水だ。うまそうに水を、あら方のみ乾してから顔を上げ、一振いプルッとやり、手で口元を撫でつけると、後は悠々として夜気にふれるべく、外に出て行った。その落着いた退しい後姿は、いかにも大物の歩み方だ。

矛盾律

 さて、言うまでもなく、人と猫とは違う。しかし、酒がとりもつ縁で、全く同じ真似をする。
 フェオベルが、モンパッサンに「この世には、全く同じ二つの砂、二匹の虫、二つの手、二つの鼻などと云うものはない....燃える焔や、野の木立を書く時、それらが外の焔や木立と似てない物になるまで、よく見つめよう。こうすると、初めて真新しいものが書ける」と云ってる。とうなると同じ物も、よく見ると異る事になる。 また「逝くのは、かくの如きか、昼夜をおかす」と我らの聖が、川に向つて意義を与えてる。かく同じ川の流も絶えず変って行って、然も元の水ではなく、異って行く。そこに世の果敢なさ、物の哀れさなどを、身に泌みて思い知るだろう。
 しかし、川そのものを、時の流の上から、こう考えずに、所の上から横に考えて見ると、川でないもの、即ち堤や、その上の揚柳、後の灰色の尖塔、それを取りまく茶畑、遥かな葡萄色の山々、これらのものは、云うまでもなく、凡て川ではない、川とは違う。かく所を横に 「川」と「川でないもの」とに区切ること、これを論理 ではA+非Aと書き、論理の基をなす一つの型として、「違いの定め」 Principum contradictionis; Satz des widerspruchs と云っている。(今までは矛盾律と云ったが 矛盾とは食違う事で訳語としては、どうかと思う。)
 しかしである。この川と川でないものとを、更にもつと小間かに分けると、分子・原子にまで行き着き、それらは凡て水素に戻せるとすれば、凡てが同じだという事になる。しかし、更に分けて行くと、電子・陽子・中性 子・中間子・光子と云う異る素粒子になる。この訳合から云えば、マレンコフの被り物と、彼の頭ともまた、楽粒子から成立つ事になる。だから被り物も彼の頭も、同じものであり、上下の梯子などはない。湖の如く平かだ。(しかし価のあるのは、被り物ではなく、その下にあるものだ)
 また、慈しみ深い母の涙も、ほんの僅かな水に塩と有機物とを交ぜたものと同じだ。(しかし、母の涙は真球よりも尊いだろう)
 こうして見ると、とにもかくにも、表べは違うようでも、うち割って見ると、中味は皆な同じだと云う事になる。つまり横に並べて、異中同、差別即平等、偏中正だ。(この辺り、資本主義者も共産主義者も、とつくと良く考えて欲しい)
 ところで、仏の教に、多即一、真空妙有などと云つて二つの違うものがつまりは同じだと云う。これはいったいどう考えたらいいのか。多即一とは2 = 1と云うと、こんなのは数学上から成立たんではないかと、早吞み込みする人が、ないとも限らん。多即一と云うのは、 そんな訳柄の事ではない。前の例で云えば1/2×1/2=1のことだ。つまり1/2×1=1これを広く云えば1/n×n=1となり1/n=KとすればKn = 1つまりK×多=1のことだ。このKと云う係数、仲立は必ず要るのであり、この仲立なくしては、この式が成立たないのである。数学者でもあったシャカが、分数を知らなかつたとは、云い切れんのである。
 この遣り方だと、真空妙有も 真空=仲立×妙有となる。つまり、有を空するのが仲立。即ち真空=〇とす れば〇=〇×有。もし有を空する働がないと、どこまで行っても、真空は真空であり、妙有は妙有であつて、各々バラバラであり、イコールにはならん。
 譬えば、真空管の中が空気だったら、それは真空管として使い物にならん。また空気を〇にする仲立がないと真空管は出来上らん。これを逆さに云うと、真空管をブチ毀すとの仲立がないと、真空の所に空気が入らん。
 所が、この仲立の事を、否定と云う言葉で、言表している人がある。更にこの否定をマイナスで表す人がある。すると、真空妙有は、0 =-有、となり、譬えば、 0=-2だとする事になる。これは明かに間違だ。
 また真空とは、否定の否定だから肯定の妙有になると説く人がある。しかし真空が否定の否定だとすると、0 =-(-有)つまり有を第三象限に追いやったに過ぎない。譬えば 0 =-(-2) だとする事になる。これまた明かに間違だ。(初等代数においては位相を考えに入れないので、こんな事になる。第一象限を第三象限に直せば数だけは同じだが、位相が違う。百円アルと百円ナクハナイとは心理的に異る、アルの方は積極的、ナクハナイの方は消極的な言方となる)
 さて、無門関の第一則に、こんなのがある。ある僧が趙州に存ねた。「犬にも仏性がありますか」すると趙州は「無」と云っている。「でも、涅槃経に凡ての生き物には、仏性があると出てますが、犬にはないのですか」と、やり込めた積り。すると趙州は「業のせいさ」と、ステンと肩すかしを食わせてる。ところが、外の僧が同じ事を尋ねると、今度は「有」と、澄して答えてる。それで「でも、仏性と云う尊いものが、なぜ犬の如き小きたない代物の皮袋の中に、突つ入いったのですか」すると「知つてて、わざとやつてるまでさ」

 これは、何んの事か、趙州は口から出まかせの、デタラメを云つてるか、ふざけてるのか、ウソを云つてるのか、サッパリ解らん、論理から云えば誤りだとなる。
 「犬にも仏性があるか」と尋ねた、その仏性とは、さてどんなものか。シャカは凡てが仏だと云ってるが、これは、この世(宇宙、自然)が仏だとの事。この世 (宇宙 自然)は、一つの完きものであり、全てだと云う如き、 その属性が即ちこの世の性であり、仏性である。この世が仏であり、その属性が仏性なのだから、この世の一部である犬も仏の一部をなし、仏性の一端を持つてる事は間違ない事である。そんな明かな事を、この僧はなぜ疑ったのだろう。それは犬が片足あげてシーツとやったり、入ってはいかんと云う花園を、整床にしたり、衣を着てお経を読んだりしないのを、目の前に見てるので、 どうも・・・となつたのかも知れん。
 ところが、この問に向つて、趙州はアッサリ「無」と 答えたのだから、いかにもシャカを認めず、打消した如き言振りだ。それで僧は愈々解らなくなった訳だ。それに外の僧が同じ事を尋ねると「有」といってる。ある時は無、ある時は有だ。こうなると、こんどは、これを読む人の頭の中が、モヤモヤして来る事になる。
 併し、振返って良く考えて見ると、我々は此んな言振りを、常々やってるのに気が付くだろう。譬えば「オイ売行きはどうだい」と税務係が、花屋に声をかけたとする。花屋はきつと「ないね」と、ソッポを向くだろう。 それが若し恋人だったら「アル」と胸を張るだろう。売行きは同じなのだが、言振りが違う。売行きは、全くないのではない。少ししかないの事であり、また少しはあるの心だ。少ししかないは、∞ から○の向きに、つまりない方に向いて考え、これを言表したのであり、少しはあるは、○から∞の方に、つまりある方に向つて考え、これを言葉にしたのである。考向きによつて、こんなに違う事になっちまった訳だ。が中味は同じだ。
 趙州の云つた有無も、これと同じで、全くないと云う空〇の場合ではない。彼は虚無主義者ではない。少しかないの心持である。そうでないと、シャカの流れを汲んだとは、云えなくなる。有と答えたのも、少しは有るの気持だ。そうでないと、親を地につけて、ワン公を 拜ろがまんと、いけなくなる。だから、この場合の有無は、表べは違うが、中味は同じもの。  尚、無の字源は、豊かなものが、次々と欠けて行きつつある其の有様を表してる(だから存在論でなく現象論)。有は肉を得つつある有様。共に在否を表すのでなく、なしつつある働を表してる。(尚、韗家における純粋の有無の意は、ここに挙げたものとは違ってる。)
 次に僧が「どうして犬にだけ仏性がないか」と尋ねたのに向つて、趙州は「業のせいさ」と答えてるが、犬には少ししか仏性がない、それは生れつきの(a Pri ori)もの。即ち薬によると云ったのだ。
 それから、もう一人の僧が、やはり同じく犬に仏性があるかと問い、それに有と答えたことに就いては既に申した通り。そうすると、僧が「なぜ犬のような賤しい物にも仏性があるか」と、また問直してる。これには「知ってて、わざとやってるまでさ」と趙州が云つてる。それについては、犬が花園の中に入って、ノーノ―と寝そべつてるのを、ジッと見詰めて見給へ。奴さんは、きっと首や尻尾をたれ、目を俯せて、シオシオとして出てくるだろう。彼は悪い事をしたのを知ってる。「知つてて、わざとやってるまでだ」と云った趙州の言葉を、その時、味えるだろう。これは、犬が少しは仏性を持合せてる証しでもある。

尚、異るの語は、「事成る」から起り、一つのものが事々に分れ行く事、即ち分けると云う心の働によって、物事が分れて行く事から来てる。またとれと似た言葉に違うと云うのがある。チガウは路交うから来たと云う。初め分れてたものが、交つて合い、再び分れて行くことで、異中同をよく言表してる。この合せる事によつて同が、生れて来るのである。だから一から多へ分れて行くのが異るで、多から一へと合さつて行くのが、違うである。
 とにかく、今までの矛盾律では、ただ横にA+非Aだとしてるが、これを良く考え合せると「横に違ったものとして並んでるものも、中味は合じものがある」と、直さねばならん。常々は違う (路交う)、異る(事々成る) の意をよく呑込んで居て使えばそれで良いと、云う事になる。そうでないと科学や宗教の事を考えたり、しゃべったりする時に差支る。
 併し、月とスッポンとでは、質は同じでも大さなどが違うじゃないかと云うかもしれん。然り、我々はミソもクソも一つにしてるのではない。異中同、差別中平等、 偏中正を云つてるのである。違う所があつていい。ただ違うと見えるものも全く違ってて、何の関りもないとうのでなく、その底に同じものが流れてると云うのである。
 小人は、とかく同じになろうとし、即ちミソもクソも一つにしようとし、傾つてて中和しない。米蘇ともに、この事を、よく知るべきであると思う。(終)

高橋空山

高橋空山記念館 Kuzan Takahashi Museum