禅には論理がないのか(一) ~高橋空山~
私は、ほんの暫くの間ではあったが、南京に居たことがある。そこに着いて、少したつと、何んと云う事なしにムヤミやたらと国へ帰りたくなった。囲りの有様や暮し方などが、今までと、余りにかけ離れ、違い過ぎたせいだつたかも知れない。ところが、どうしても落着いて、しなければならない仕事を背負ってた。しかし帰りたい。その遺るせない気持で、ある夕暮に、ただ一人で ボンヤリと、庭の片隅を見つめていた。
すると、底の草が、大写しになつて少しづつジリジリとレンズを絞る時のように、眼な交に入つて来た。そして今までは、さう気にも止めてなかった所の、この緑の有りふれた草が、驚くべき事には、国のものと全く「同じ」である事を叫んでる。これは丸で何んか見つけものでも、した時のように思われた。猶も限を移すと、ウスツ黒い土も同じだ。見上ると、青磁色の空も同じだ。さう気が付いた時、何かしらスーツとした涼しいものが、身内に入って来たように覚えた。
それで、長いこと心を閉してた黒いものが、イキなりケシとんじまつて、野分の後の静かな日和といったよう な心持になり、ホッと落着をすつかり取戻した。この事は、それから後、長い年月が立つのに、未だに忘れられないで居る。
同一律
しかしである。そこは、何んと云つても、南京であって日本ではない。「所」と云うものが違つてる。また、 国で家の庭をみた時とは「時」と云うのも異る。即ち時と所とが違ってる。ただ「同」じなのは、草や土や空だけ。しかも、これらの物だけだ。
この「同じ」と云うことを、論理では、広くA=Aと言表してる。そして、この同じだと云う言表しを、一つの型と睨み、一つの定め事として、名づけて「同じだと定め」
Pricipium identitatis; Prinzip der Identitätと云ってる。
ところが、科学の上から細かに分けてこれを考えて行くと、とうなるだろう。植物形態学からは、草丈や生え方、また植物生理学からは草色、また植物育成学からは草の育ち方、また造園学からは草の生やし所、また雑草学からは草の類などが、細かに見れば我国のとホンの少しではあるが違つてる事に、気づくだろう。また黒土といつても、土壌学から云えば違つてるし、気象学から見れば大陸の乾き切つた空の涅度やまた温度の夜昼の違いの烈しさ、埃の為に緑気が少し濃い事などが、我国のと異る事に気付くだろう。
こう小間かに見て行くと、空も土も草も、皆悉く違つてる事になる。そうして見ると、何から何まで、すつかり異るのであつて、やはり、そとは何んと云っても、遙々と海を越えて来た異つ国なのである。ところが、南京に居た時は、ここまで深くは突込んで、考え辿らなかつた。もし、そうしてあつたら、或は心があんなに、安らかに、ならなかったかも知れない。
で、こう小間かに分けて考えて行くと、凡そ世の中には、同じだと云うものが、スッかり姿を消してしまつて、ないことになつちまう。これは何んだかイヤに頼りなく危つかしい傾つた考のようにも、思えて来る。 ととろが、もっと細かに分けて行くと、分子・原子となる。(この原子に当るものをブッダは極微といつてる) そして凡ての原子も、水素に戻すことが出来るようになり、凡ては同じものとなつちまう。そうなると、ここにまた同じと云うことが表れてきた事になる。
ところが、 もっと小間かに分けて行くと、陽子・中性子・中間子・ 光子・電子などと云う素粒子になつて、また異るものが 見い出されて来る。こうやって、同じものと異るものとが、代る代る幾度も幾度も繰返して顔を出してる。だからこれらは、互に裏表をなしてるとも云えるだろう。
また例え、心の内だけで「柳は緑、花は紅」とか「一 は一だ」とか思浮べたとしても、初めの一を思浮べた時と、後の一を思浮べた時とでは、その間がホンの僅かな間合であつても、既に時の流れ、過ぎ去るものが、二つの一の間に挟まってる。だから全く同じ時と同じ所とを占めてないから、全くの一つものではなくなる。初めの一と後の一とは、かくの如く時が違がつてるばかりでなく、またその占めてる場の様も異ってくる。と云うのは、初め一と思浮べた頭の中の場、細胞が、次の一と思浮べるまでの間に既に細胞の内の液の流れによつて、もうとつくに変つちまう。だから前に一と思浮べたものとは、全く同じ様をなしてるとは云えない。そのしるしに、初め一と考え、次に一と考えて見ると、既に初の一は有明の月の如く、その光が仄かになつてるのでも、との事がよく解るだろう。
しかし、初めに一と考える刺戟は、時の流れに舟を浮かべて置いたようなものだと、思うかも知れない。これも、よく考えて見れば解る通り、舟も長く一つ所に繋いでおくと傷む。即ち変って行く。これは時が短くても同じだ。この短い時の積り積ったのが、つまり長い時となるからだ。凡ての物事は、かく移り変って行き、異つた姿となって行く。「世は常なし」と、古のバラモン達が考え、また「この身は泡の如く、久しく立ち得ず」(維 摩経方便品)としたこと、また「よろづのものは流れ去る」とギリシャでいつたこと、また近くは物理学で、凡ての物事は変って行くとした見方など、これらの事柄が、ここ成立つて、まことだとされるに至るのである。
また、縦と横と深さとに関る事柄について、詳しく究めて行く所のユークリッド幾何学では、時と所と云う事を拔きにして考えてるので、A=Aと云うような事が、成立つのであるが、これが一度、生きた世の中の物事を、つかまえようとする時になると、この時と所と云うものが入って来るので、異ると云う事が、前に云つたように生れてくる。だから、前々から申す通り、凡そ物事は、裏から小間かに云うと異るのであつて、全く同じだと云うものはない事になり、表から大間かに云えば、同じだとの事があることになる。
ところがオナジという言葉の起りは「己ナ似」だされてる。これは基をなすものに、極めて多くの所が、似てるとの事。そうして見ると、この言葉の持ち味といつたものが、今までに述べて来た事柄を、よく含んでて、 それを言表すのに誠に適しい言葉の成立ちだと思う。
尚、南京の時のように、私の家の庭と南京の庭とを、よく比べて見て、そこで初めて同じだ・異るなどの事が考え得られたが、これはまた、私の家の庭を振り返つて見た事でもある。そうして見ると、この比べる事と振り返つて見る事とは、同じだとか異るとか云う場合に、ど うしても要るところの手立である。
それから、同じと云う言葉に、よく似たものとして 「ヒトシィ」と云うのがある。これは「一ト如イ」との事で一つになるに甚だ近い事。よく二た子のように同じだと云う。その同じだとの事よりも、更にモッと同じ所が多い事である。これが、更にモツとモツと多くなつた場合が、次に述べる「一つになること」である。
全くの同じ、まるまる同じだとの事を、成立たせるには、同じ時に、同じ所に、同じ物を置く外はない。つまり、これと一つに繋がり溶け込んで行く外はない。これをブッダは「一つになる」と云ってる。
それには先づ手初めとして、A=Aと云う時、初めのAに向つて後のAが、振り返つて比べられたが、この振り返つて比べる事を止めにし、ただ初めのAだけとなり、これを持ち続ける。だが、このAは、既にAでない所のあらゆる物事と、ハッキリ初めに分け隔だてされてる。この垣根をイサギよく、取つ払らつちまう。つまり物事を分けると云う事を、ボイとうつちやる事。だいたい、この分けると云う曲せ者が、異るとか違うとか、やれ同じの等しいと云う所の子供を、生んでるのである。 この基をなすのを放り投げればいい訳だ。禅で放下著と云つてるのも、ここの事。即ち分ける・分けないとか、 囚れる囚れない等のことまで、ブン投げるととだ。「分別知を棄てて、ただひたすらに神仏に賴み參らせよ」と 白髪頭を振り振り喉を潤して痛ましくも老いたる教え人らが、今も高い所から叫んでるのも、ここだと思う。いつまでもいつまでもプラカラとそれこそ死ぬまで同じく二人で、ピクニックばかりしてたんでは、少しも埒が明かん。 やっぱり、そこはメヲトと云う一つものにならんと、いかんように、この同じだとの極みを、即ち一つになる事を、知らぬといかんだろう。なんでも物事は、トコトンまでやって見て、その極みまで行かんと、底を究めたとは云わん。
碧岩録の六八則に、とんな事が出てる。ある時、慧寂と云う人が、慧然と云うよく似た名の人に向つて、「あんたの名は?」と尋ねると、驚いた事には慧然は「慧寂です」と、事もあろうに相手の名を称えた。「それで慧寂はそれは私の名だ」と咎めると、今度は慧然が合槌を打つが如く「そして私の名は慧然です」と、てんと取り澄 し張合つて答えてる。との話合は、いったいどう解いたら良いのだろうか。これはウツかりすると名を偽ったと云って訴えられるかも知れん。或は人をカラかってる、バカにしてると云うわけで怒られるかも知らん。言うまでもなく、そんな事ではない。それは前に申した通り、慧然は慧寂と一つに成りきって、一枚になってるのだから、それを知らせる為に、相手の名を称えたのであって、これは一向に差支えない事だ。次に己が名を称えたのは、相手の慧寂が一枚悟りに止まって居ず、すぐに 一枚の裏である所の異りを示して「それは私の名だ」と 云ったのだから、己れも真っ当らに己が名を称えて、との一枚の裏である所の異りを、示したのである。つまりこの話合は同中異、一即多、平等即差別、正中偏を表してるのである。
しかし、これは考の上だけ、頭の内だけの事で、それはつまらん考の遊びに過ぎないと云う人が、あるかも知れん。しかし、よく気の合った友達仲間が、互に心がビツたりと一つに成る事がないだろうか。その時、お互の体と云うものや、その間の隔と云つたようなものが、 肺の気泡の如く、少しも空気によって隔てられてる事が気にならず1つに成つて働いてる如くに思う事がないだろうか。
お互の肌と云う堅い細胞の垣根を越して ― 細胞液が細胞膜を透して出入りするように一つに溶け合う事がないだろうか。そして、この「和して同じない」ところの和を、人々は服んでるのではないか。民主々義とか共産主義とか、資本主義とか社会主義とかいつても、ここまで来ようとして、冷たかつたり熱つたかつたりして、 この一つに成る味に思い焦れ、苦しみやつれてる姿なのではないだろうか。これを得て居た所のシャカの如く楽しく、イエスの如く慈しみに満ちては、あくまで暮したくないもんだと、願い祈る人があるだろうか。もしあれば、それは、あの箒の柄に乗つて秘かに飛び歩くサタンだろう。
右の如く「同じだとの定め」は、表から見れば同じであるが、これを裏から見れば異る事になり、更にとの同じさが進むと、等しいになり、もつと進むと一つになると云うように、改め直すべきだと思う。常々は己ナ似(おなじ)、一ト如イ(ひとしい)、一ツと云う言葉の起りを、よく呑み込んでて使えば、それでい訳だ。
こんなようにアチラの論理の基となる定めを補い直して行かないと、科学や宗教は、これを使って言表せなくなる。またこれら許りでなく今の生きた世の中の事にも当嵌らず、従って生きた世の中の色んな出来事を、ハッキリと言表すに適しい言廻しにはならんだろう。わけてコチトラ東の国々の考え方や言い方の基や定めにはならん。
もとより、アリストテレスより此の方、アチラでは余りそれ程、との論理の基が進んでない。生花ばかりでなく、一つここらで東の魂も、吹込んでやったらどうだろう。
(続く)
(プラトン、アリストテレス、エルドマン、プフェンデル、 ハルトマン、カント、ヘーゲル等の考にも及ぶのが、真筋だとは思うが、あまり詳しくなり、また大方右の事で思いやられると思ったので、これを省いた。)
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