イスラエルと西欧への旅(三) ~高橋空山~
次の日に大使館に頼んだ、留学生に連れられて、ウヰーンの町のBeethovenやSchubertの住んだ家を見たが、ともに極めて貧しいものであって、彼等が、どんなに暮しに困ったかと云ふこと、そしてその心の苦しみから逃れる為に、いよいよ音楽に酔ひ、それへと心を向けたことが偲ばれた。ベトフェンの厳かで暗い音楽、シューベルトの夢のなかで思ふさま駈けめぐるようなもの、そしてMozartの暗く痛ましい日々から逃れる為にあこがれ求めた軽く明るい曲、それらのことを深く思はさせられた。しかし、何れも皆、冬の間、半年もの間、青い空を見ることがなく、美しい山川のない灰色の国に生きた彼等には、麗しいうるほ味のある楽が出来なかった。それは凡て灰色のなかの悲しく淋しい踊である。
その夜、シューベルト・ザールで、チェロの音楽会があるとのことで聞きに行った。チェロはアメリカ人で、伴奏のピアノは二世の日本人の女であった。ともに余りに拙いので、私はイライラして来た。音楽の下手なのだけは、ジッとして聞いて居られない。案内してくれた学生は、音楽大学で学んで居り、カザールスや、その弟子のカサドから教を受けて居るとのこと。それで「君の方が、却って、うまいかも知れない。耳直しに、君のを聞きたい」と彼に耳打ちし、中休を幸にして、とにかく、二世のピアノ弾きに励ましの言葉を述べて、さっさと外に出た。しかし、ウヰーンの人々は、音楽好きなので、いとも静かに聞いて居て、我々のように中休に帰る者などはなかった。
ウヰーンは、音楽の都と云ふが、こんな下手なのもやる。世界的の音楽家は違うが、第二流第三流となると、ガタ落ちで、我国のよりも遥かに下手だ。この事は、到る処で聞き、後でパリーの名高い音楽学院でも、同じ事を聞いた。とにかく、西洋では何事につけ、上下の違いが、痛く甚だしい。
それは、とにかくとして、学生の宿に行って、彼のチェロを聞いたが、はたして、この方が却って上手だった。お蔭で、変にされた聴神経も少しは直った。
ところが、彼の同級生で、ハンガリヤから逃げて来たジプシーで、なかなかうまいのが居るとのこと。ジプシーとは珍しいので、遇って見たくなったので、そこへ行くことにした。
「火の鳥」(Feuervogel)といふカフェーがあって、そこに、このジブシーが居た。彼は、夜々ここで稼いで学資に当てて、居るのであった。彼は元よりチェロ弾きなのだが、ジプシーの器用さで、ヴァイオリンでも、ヴィオラ、ギター、バラライカそのほか、凡そ弦楽器と名のつくものは、何んでも、しかも巧みに弾きこなす。それが何れもジプシー持前の、あの哀調を帯びた、かなで方なので、何んとも言へない味がある。わけても、彼の誇りとするのは廿センチに満たない極めて小さな玩具のヴァイオリンで、驚くべきことには、あの難しいZigeunerweisenを弾くのであった。それは、まことに神業に近い。この曲は、彼らジプシーの旋律をとって、サラサーテが作ったものだ。
それをジプシーが弾くのだから、全くもってピッタリして、その醸し出す気迫は凄い。グングンそれが身にこたへて来る。それに、この曲を弾く時には、客席の間を縫って歩きながら、何とも云へない、いい顔つきをし、美しい身ぶりをし、一人一人の客に残りなく目をやる。それは、客にこびて居るとか、己れを誇って見せ付けるとか云ふ思はせ振りな所は、露ほどもない。むしろ顔は上気して、かすかに青味を帯び、そして目は真赤に燃えて居る。彼は、楽に酔って、さまよひ歩くと云った様だ。
客はと打ち見回すと、うっとりとし、目をつぶり葡萄酒を呑み忘れて、うなだれて聞いて居る者あり、椅子の背板に首を投げかけて居る者ありだ。私も亦、夜の更けるのを忘れ、いつまでもこの素晴らしい天国を去り得なかった。私は、この事によって、ヴァイオリンでも微分音を弾けさうだとの明るい望みを掴み得た。
それまでは、難しい微分音などは、とてもヴァイオリンでは、弾けさうもないと、あきらめて居たのだった。それが出来さうだと云ふ望みを得たのは、大きな獲物だったわけだ。次に演奏時の身振りについてである。元より、外人は身振りがうまい。常の何んでもない話を交す時でも、きっと身振りをする。即ち仕方話をする。だから自から、それが身について、こなれて行く。これをせず、従って、こなれない日本人がやると、何んとなくギコチなく、とってクッ付けたように、わざとらしくなる。なかにはキザにさへ見えるのもあるし、目障りでウルさいのもある。
ところが、日本の歌ひ手のうちには、この身振りを入れて歌者がある。これは前に述べた通り、何んとなく似つかない。しかし、舞や踊をよくやった人のは、それ程でもない。さうして見ると、何が何んでも唄ひながら身振りをしたい御仁は、少し舞や踊を習ってからに、したらいいかも知れん。
その夜、私の宿まで送って来てくれた学生に廿ドル払って、お礼に尺八を吹いたら、夜だからもう止めて欲しい、宿ではいけないことになって居るとのこと。壁が厚いからと言って思ふ様吹いた。
次の朝、内田大使から、小川ハンガリヤ公使が昼過ぎにウヰーンに着くと云ふ電話が、かかって来た。それまでの間と思って、読売社から頼まれた原稿を下書した。この原稿は、十一月廿一日の宗教欄に乗ったが、後でベルリンで書いた原稿も共に、原稿料を払ってくれない。
それは、とにかくとして、内田大使からの話だと云って、西欧の民族学者として名高いSlawik博士が、わざわざ訪ねて来られた。彼は日本研究所を大学に持って居り、日本語は、日本人と同じ位に話し、また行書でも草書でも、スラスラと書き、日本の学者よりも、日本の事は、よく知って居る。人柄も極めてよい人で、すっかり仲よしになってしまった。彼は、彼が主任である日本研究所を見てくれと云ふので、ノコノコついて行って、日本の資料を色々と見せてもらった。助手に中年の女の人が居たが、この人は、ドイツ人と日本人との間に生まれたとのこと。話し込んで居るうちに昼過ぎになってしまった。小川公使が待って居るだらうと思って忙いで、宿に帰ると、はたして小川氏は待ちくたびれて、どこかへ出て行ったと云ふ。しばらく、待って居ると帰って来られ、終戦の時から久し振りで逢って、尽きない話を懐しくした。
小川公使と連れ立って、内田大使を訪ねた。私は偉張るようだが、終戦前までは、大臣級の人々が、私の家を訪ねたので、その癖が付いて、こちらから人を訪ねるとなると、何んとなく胸がつかへる。ことに終戦後は、それを必ず思ひ出して、うらぶれた気持になる。
しかし、内田大使は、まことに親切な良い人であって、何くれとなくしてくれる。
夜は、大使の家で小川公使と共に夕飯をふるまはれた。久し振りで、日本食をした。カルルスルーエからこの方の風邪がこじれて、咳がしきりに出て止まない。それをこらへて、礼に尺八を吹き、北大で岡教授が作って下すったテープや、持って行った色紙にかいた絵を差上げた。
色々と、四方山話をし、前に書いたジプシーの話をしたら、面白がって、是非聞きに行きたいと云って居られた。
その夜は、宿に帰ってから、久し振りで、日本は、如何にあるべきか、また日本を如何に為すべきかを、西欧と云ふ所の立場にあって話し合った。そして、これをまとめて小川公使に書いてもらひ、また小川氏の国家論を夜明しして書いてもらって、日本に帰ってから湯沢三千男氏に差出した。この文を書いて居る少し前に私を最もよく知ってくれ、そして私が最も敬って居た湯沢氏は亡くなられた。そして、我々の思って居た日本を良くする事の手づるは、断ち切られてしまった。近衛文麿、林銑十郎らの諸氏と共に湯沢氏も亡くなってしまった。「夫子哭す」の句を思ふ。北大の学生だった頃から抱いてゐた美しい日本にすることの企て、その夢は凡て破られてしまった。弟新吾(北大医科出)は、なぐさめて云ふ「風が吹けば、また何んとかなるでせう」と。まことに、さうだなと思ふ。
とにかく、ウヰーンでのことは、凡て夢物語りにならぬように祈って居る。日本は礼楽の国だから、たしなみとして音楽を私はやって居るに過ぎない。私は音楽屋ではない。大学を卒業する時「一身のことを思はず、国のことを思へ」と誡められた佐藤昌介総長の言を、私は世を終るまで、守り抜くつもりだ。
次の日、シュナイダーといふ音大で教へて居るとか云ふ全く知らない婆から電話で、昼飯を食はせるから、その家まで来いと云って来た。余りになめた言ひ方なので「バカ」とドなって電話を切った。私は乞食ではない。言葉恭々しく、電話するならまだいい。世界的の学者であるスラヰック博士すらも、わざわざ訪ねてくれた。
私は全くの初めての町で右も左も解らないのだ。
この婆のことを、ス博士に聞きくと、札付きの婆で、少し許り日本音楽のこと知って居て、あっちこっちで講演して回り、しかも日本楽の悪口を言って歩いてるとのこと。また日本の女子留学生を、殴ったとのこと。またス博士の悪口を、わざわざ日本の大学へ言ってやったり、オーストリヤの政府にも言ったとのこと。困った婆だ。
しかし、後で考へて見て、とにかく昼飯を食はせると云った事に向っては礼を云ふべきであり、また内田大使が煩ひを受けてはと思って小川公使に連れて行ってもらひ、私はしゃべらず、公使にフランス語で話してもらった。私は言ふまでなく握手もせず、日本式礼のうちの頭をコクッと下げるだけの首礼というやつで済して来た。日本に帰ってから聞くと、この婆に日本楽のことを教へた者が、これまた眉つば者であり、毛虫の如く嫌はれてゐる奴だった。婆も大方こ奴の仕込みで、いよいよサタン化して行ったのだらう。
何れにしても、日本に仇なす良からぬ毛唐もあるのだから、心を許せない。毛唐と云ふと凡て神様の次ぐらいに考へて、あがめ奉って居る輩が多くはないか。
ス博士の話によって、ウヰーン大学にある最高学会のGraf博士が、助手を連れて、わざわざ私を、その研究所まで伴ふべく迎へに来てくれた。ここには並の学会があり、その上に最高の学会があるのだ。ここには、世界的な人ばかりを迎へることになって居る。私のことは、ケルンのメルスマン博士やベルリンのシュトッケンシュミット博士らの世界的音楽学者によって、既に知られて居る。グラーフ博士の研究室は、音楽と民族学との二つを結んで、その二つの向きから調べて行くことになって居る。私はアインシュタインや、シュワィツェルなどと、並んで書いてある署名簿に名を書かせられ、甚だ恐れ入った。こんなにして取扱ってくれるとは夢にも思はなかった。凡ては、心の友となったス博士の暖かく深い見立てによるものである。彼は、日本に居る私の知合よりも深く私を知るに至ったようだ。そして、私が日本に帰ってからも、身近かに起った事を親しく手紙に細々と書いてよこす。
グラーフ博士の研究室は、日本の大学の教室を五つ六つ合せた位の室数で、その内の三つの許りの室には、永久保存用の世界中の音楽テープが、天井から床までビッシリ、一つ一つ棚に入れてあった。また世界中の色々な楽器のある室もあった。その外に、日本の放送局よりも良い録音室がある。
さすがにウヰーンは音楽の都と言はれるだけあって、その裏には、こんなにも立派な研究所がある。今更らながら驚きもし、羨ましくも思った。日本の芸大には、研究室も資料も未だにない。高い建物は、深く地を掘り下げ、礎を固くしなければならない。
私は、グラーフ博士の頼みによって、その放送室で、「虚空」、「夜坐吟」などを吹いた。助手たちは、懸命になって録音して居た。また、それに合せて映写機で私が吹く様を、詳しく写して居た。これが終ると、経歴を日本語とドイツ語とで、吹込まさせられた。
その後で曲の解説を詳しく書いて居た。序でに、持って行ったテープを見せると、どうしても写させて欲しいと言ふ。そして、これの解説も詳しく、作曲年代、歌者や奏者のことなど、一つ一つ詳しく書き取った。テープは次の日の夜までに宿に届けるから貸しておいてくれとのことで、さうした。これらは凡て永久保存するのだとのこと。
それからが一仕事だ。と云ふのは、日本音楽と日本民族学の上からの細かな問ひが始った。幸に、私は民族学が好きなので兼々少し計りその本を読み、また資料にも触れて居たので、話がはづんで夜の十時を過ぎてしまった。しかし彼らは、動かうとせず、いよいよ食ひ下って来る。こちらも向ふ側も共に夕飯をたべて居ないのだ。その心のこめ方には、驚きもしたが、さすがの私も腹がへっては戦にならん。少し疲れて来た。しかし、彼らは、いよいよ気が確かだ。そのエネルギッシュなことには、時々参らせられる。この調子で研究に頑張るのだから、西洋文化が進んだのだ。
夜十一時近くに研究所を、グラーフ博士と共に出て、ウヰーン大学の教室の方に行って見ると、夜学の学生たちが、未だ一杯残って居た。そして玩具のような美しい衛士たちが、並んで廊下を行き来して居た。
そこから帰り、車で宿まで博士は送って来られ、共にビールを呑みながら、更に先程の話の続きをした。すきっ腹に呑んだので、頗る頭がボンやりして来て、ごついドイツ語の口が回らない。仕方ないので紙を持って来て、それに書きながら話した。
博士は、日本音楽の微分音の美しいこと。又湯沢三千男氏の歌沢の声の音域の広いこと等を、心から称へて居られた。
夕飯を食べに行かうと云ふと、憚かって、もうそろそろ帰らうと云って堅く握手して、車に乗って帰られた。私は、その車の後の光が見えなくなるまで、寒空に立って見て居た。
再び、ここに来ることは恐らくないだらう。そして彼とも再び逢ふことがないだらう。私は、淋しさを増す為に、来たようなものだと、フとつかぬことを思った。
私は、スラヰック博士に、ウヰーンを少し離れた村の家を見たいと云ったので、彼は日曜にゆっくり連れて行くと云って居た。その日が来て、彼は女助手と共にわざわざ迎へに来てくれた。この助手は前にも述べた通り、日本人とドイツ人との間に生れた人である。そして日本人を懐しがり、もう一度、私に逢ひたいと云って居るから連れて来たとのこと。
この人は戦の時は、軍の看護婦長をしてゐた。向ふでは、看護婦といふと地位が高く医者と同じである。そして戦が終って、皆が食物にも困って居た時に、己が持物を凡て売って、食ふに困る人々に施したと云ふ。博士は、これが、まことの日本人の血のなす業だと、彼の民族学から断定を下して居る。そして、こんなことは、個人主義で固まって居る西洋にはないことだと云ふ。そして基督教も欧州では、その仕来りや習はしに合ふ所だけを採ったのは、日本で仏教のうちで、日本に合ふ所だけ採ったのと同じだ、凡てを受け入れたわけではないと、色々拠り所を挙げて述べた。序でに、秋田の「生ハゲ」のやり方と全く同じものが、ウヰーンの近くに古くからあるとも云った。そして、話が前に戻り、イエスの博く憐れむ心持は、却って同じ東洋人である日本人の血の中に生きて居る。その証しの一つが、この女助手の行ひだと云って、しきりに、はめ称へて居た。この民族学的な立場から私をも見たのだらう。そして、最高学会のグラーフ博士に私を引き合せたり、こんなに仲よく親しく付き合ふのだらう。
色々と愉しく話を交しながら、電車に乗ったりして、ウヰーンを後にした。
Donau川を渡る時に、博士は「隅田川の下と、どちらが、この辺りで川幅が広いでせうか」と訪ねたが、私は、「この川の方が広いかも知れません」と答へた。しかし、その水は今の隅田川と同じに濁って居て、歌にあるような美しい眺めではなかった。
ここに来る所に、ユダヤ人の住んで居た低い長屋が並んで居た。彼等は、欧州のどこにおいても、このように特殊部落をなして居たのだ。それは日本における鮮人街のようなもので、麻薬・アヘン・密輸・売春そのほかの悪の花のドロドロした温床だったのだ。その為に、どれだけ、その国が毒されたか解らない。欧人がユダヤ人を嫌ふのも尤なところがある。ユダヤ人としても、あの頃は未だ国がなかったので、さうする外なかったかも知れない。学校でも、毛嫌いされたので、男で余り教育を受けた者は少なく、女でもたしなみのある者は少ない。欧州人がユダヤ人を低く見、そして嫌ふのも尤なところがある。ヒットラーが、ユダヤ人を殺したのも、この世から悪の根を断たうとしたと云ふ。それに、前の戦の時に、ドイツが負けたのは、ユダヤ人の裏切りの為だったから、その恨みもあったとのこと。何れにしても、ほかの民族の間で、生きて行くことは生ま易しいことではない。日本がもし、アメリカやロシヤに滅ぼされたら、こんなになるのでないかと思って身震いした。いや、今、金のみに囚はれて、魂を失った日本人は、かつてのユダヤ人なみに扱はれて居ることを、深く省みねばならない。
博士からも「あなたは、まことの日本人らしい日本人だ」と、度々言はれる度に、私は寒気がした。このことは、ベルリンの自由大学でも同じだった。人は墜ちて行くのは易しい。しかし、登ることは難しいのだ。
私は、暗い気持になったが、サラリと振り棄てた。日の国の子は、いつも明るくなければならない。
町はづれ近くなるに従って、乗り込んで来る日焼した顔し、田舎じみた着物の者が多くなる。これらの田舎者が、アメリカに渡るので、アメリカ人は、やぼくさいのだ。それを真似て、変な冠り物を、かぶったり、赤と黒との井桁縞の服を着込んだりして居る日本人が、日本に多く居る。文化国家とは、やぼな田舎っぺの真似することと心得て居る輩のやることだ。
バスを降りて、村のなかをブラブラ歩いた。家は、道に沿った所にだけ建てられて居て、すぐその裏庭からは見渡す限りの畑だ。静かな人通りのない村の道だ。いったい、西欧のどの町でも村でも、昼日なかでも、人通りは少なく、極めて寂かで物音が余りしない。落ちついた気持だ。この静けさは、戦の前には日本にもあった。しかし、今はない。どんな田舎でも、オートバイの音や耕転機の音で騒がしい。日本には静けさも落ちつきも、既になくなった。夜も昼も、そして海にも山にもない。それは地獄だ。私は西欧に来て、久し振りで、昔の日本の気持になったように思はれた。
三人で歩いて行って、牧師も住んで居ない古びてツタのからんだ教会に行って見た。灰色の尖塔は、晩秋の淋しさうな灰色の空高く立って居る。教会は、墓に囲まれてゐるが、その墓は日本のと同じように立石の墓だ。日本のお盆に当る頃なので、墓々にはローソクやカンテラが置かれてあり、菊の花も立って居た。そのなかに、「人々よ。我らを護る為に、戦で亡くなった人が、ここに眠って居る」と書いた墓があった。私は目を閉ぢ手を合せて拝んだ。
私は、この美しい言葉を、今も忘れない。けがらはしい言葉で、我らを護って死んで行った人々を汚すことは許されない。心卑しく劣った肝ったまのない奴は、戦の時には常に尻込みし、戦が終ったとたんに痩せ犬のように、わめき立てる。日く「バカな戦をしたもんだ」と。
ある人が、支那海を渡った時に、夜の雲の中を砲車を引いて、日本に向って引きあげて行く、多くの兵士の幽霊を見たとの事を、博士と女助手に話したら、「さうでせうさうでせう」と言って、黙って暫らく目を閉ぢて居た。
外地で亡くなった人々の墓、魂は、今も我々を呼んで居る。いつの日か、再び、その墓の前に我々が何のさまたげもなく立ち得る時が来るだらう。
この教会から出て、村の道を登り、左側にある農家に入った。この辺りの農家は、中庭を広く取ってあり、囲りに豚・牛・鶏の小屋や農具舎、住居などがある。女の人が二三人出て来て、近い日に、この家の息子に嫁を迎へるので、その御祝の菓子を作ったり、飾りをしたりして居るのだと云って、誇らしげにして、それを見てくれと家のなかに導き入れた。やがて、その息子なる若い男が帰って来たので、御祝の言葉を述べると、ニコニコして手作りの荷葡酒を持って来て飲んでくれと云ふ。飲んでみると地酒といったようなもので、薄味で渋いものだった。日本の葡萄酒とは、欧州のは全く違ふ。お礼を繰返し述べて、そこを出た。
そして通りの曲り角で、バスを待った。夕暮のウヰーンの町はずれの静かな眺め、それを忘れないで欲しいと、博士は言った。その楽しかったことも忘れないでせうと答へた。
そして、博士は民族学の上から、この辺りの村作りは、真中に広場があり、その囲りに郵便局や教会や店屋があり、その奥に放射状に農家が出来て居る。これは、古代からの仕来たりの通りだと云った。全く先程の農象の作り方を、大きくしたようなものだ。
さうすれば、日本の農家が、南に広場を作って北側に家が立って居る。それを大きくしたのが奈良や京都の町作りだ。これは支那の真似したのだと学者は言ふが、支那の農家は、囲りに廊があり、却って洋式に似て居る。それを大きくした町作りは、城の壁によって囲れて居るから、日本のは、これとは少し違ふように思ふ。
見渡す限り、畑であって、その遠い涯は、ハンガリヤであり、多くの人々が、西ドイツに逃げて来るように逃げて来ると云ふ。このことは、見落されて居るようだ。
そのもつれを含んだ限てない広野は、初冬の入日に薄く霞んで居た。バスは、なかなか来ない。辺りが薄暗くなって来るに従って少し寒くなって来た。ふるへながら色々な話を三人でして居るうちにやっとバスが来たので、救はれた思ひでそれに乗って暫く行った所で降り、とある居酒屋に入った。
北大の寮の食堂のような室だ。そこで女助手が、手持ちのパンにハムを大きく厚く切ってのせてくれた。腹がすいても居たので、とても、うまかった。それを食べながら、この居酒屋の手作りの葡萄酒を呑んだ。アルコールが少いので、それ程、酔っぱらはず、ほんのりと酔が来て、却って心持が良い。そして楽しく色々な話をした。そのうちに、囲りの腰掛にもダンダンに客が多くなり賑かになったが、騒がしくない。皆、物静かに、囲りの人々の妨げになるような声は出さない。これは、欧州のどこでも同じだ。その静かな食事の間を縫ふように室の隅で三人の老いたる人が、ギターを弾いてくれて居る。これは、この家付きの人々だ。それを聞きながら静かに葡萄酒を飲んで居るのは、まことに好い心持だ。全く、うっとりとして、身も心も静かに溶けて行くような気がする。まさに夢心持だ。欧州では、こんなにして、年寄りで音楽をやって居る者が少なくない。そのうまさは、長の年月を経ただけあって練れて居てソツがなく板について居る。そして音楽を通して、彼らの長い間の苦しかったこと楽しかったことを物語って、人々を慰め励まして居るように思へた。日本の呑み屋で、ニキビ面に白粉などを、ぬったくり、生まのギコチない楽をやってる化物どもを思ひ出して、ゲーッと言ひたくなったので、頭をブルンと一振りして、再び、ここの天国にひたった。
飯が終ってから、出してくれた乾菓子が、とても、風味があったので、娘に食べさせて見たいと言ったら、女助手は、サッサと出したのを紙袋に皆入れ直し、「我々二人は、いつでも食べれますから、日本まで持っていらっしゃい」と云って包んでくれた。その勇ましく、そしてしとやかな思ひやりに、ホロリとした。この人は、博士の言ふように、情けの深い人だ。お蔭で博士も私も、菓子はお預けを食ったが、博士は、それて見て居て、却って楽しさうにニコニコし、そして、しきりにうなづいて独り悦に入って居る。また心のうちで、民族学的に日本の血を見て居るのだらう。
そして、この菓子の話を、繰返し繰返し私が日本に帰ってからも言ってよこす。彼は日本の研究ばかりして居るので、日本の良い所がたまらなく好きのようだ。いっそのこと、この女助手を、妻にしたらと、すすめたかったが憚って止めにしたが、この間、手紙が来て「妻にすることにした。研究室は、いよいよ暖くなるだらう」と言ってよこした。私は、心から幸を祈り、祝の品を送ってあげた。この人なら、学ぶ事にのみ生きて居る博士の淋しい晩年を、暖く見まもる煖炉となるだらう。
ギター弾きの老いたる人たちにチップをやり、その労をねぎらって、そこを出て、再びバスに乗ったり電車に乗ったりしてウヰーンの宿に帰った。博士だけが、宿に残り、助手は家に帰った。ところで、私は大きなしくじりをした。と云ふのは、この宿に泊る時に旅券を見せてくれと言はれ、それに三千シリングの金をはさんだのを、うっかりして、そのまま渡してしまったことだ。後で気が付いた時は、もう遅い。金はとられてしまって居た。博士も色々話してくれたが、それはムダであった。前にも言った通り、こちらは良い人と悪い者との違ひが甚しいから、よくよく気を付けて居ても、シテやられる。釣り銭などは、よく誤間かされる。このえげつなさは、フランスが一で、その次がイタリアそしてウヰーンだ。
その日の掛りは、凡て博士が出してくれた。その前に私が彼と小川公使を、夕飯に招いた時も、やはり、さうだったが、彼は、その夜も夜更けまで私と楽しく話し、夜明方に帰って行った。真直ぐに研究室へ戻るのだと云って居た。その根の強さ、粘り強さ、エネルギッシュなことには驚くほかない。こちらの学者は、どこでも同じだ。研究室は夜通し明りが付いて居ることが多い。彼らにとっては、研究のうちに暮しがある。だから身なりも食物も寝りもない。日本の家では妻が、あれではみじめだと云ふが、向ふでは個人主義だから各々が、ちゃんとした生き方を持って居るので何んとも思はない。
博士は、後を振りかへり振りかへりして、別れを惜みコツコツと夜更けの町を帰って行った。その靴音が聞ゑなくなるまで、私は冷い宿の前に立って居た。明日の朝、と云っても、一時間後には、ウヰーンを飛行機で立たねばならない。三十分ばかり、腰掛にもたれて眠り、車に乗って飛行場に駈けつけた。飛行機のなかでは、フランクフルトに着くまで、すっかり眠りこけた。
フランクフルトに着いた。ベルリン行きの飛行機は夜なので、暫く間がある。日航の人に連れて行ってもらって私の娘へのミヤゲのタイプライターを買った。日航の人々には、どこでも、色々とこんな世話になった。心から有難く思って居るのに、向ふ様では、却って私を悪く云って居たとのこと。終戦後の日本は、何から何まで変った。芸術も、道徳も科学もない荒野になってしまった。私は天国より外に行く所はないかも知れない。
飛行機がフランクフルトを立って、ベルリンに近づくに従って、西と東とのいがみ合ひのことが気にかり、何んとなく気が引きしまり、心に波だつのを覚えた。飛行機のなかは、ガラ明きで、人が少い。
これまで、殆んどの国の飛行機に乗って来たが、その取扱ひ方は、至ってソッ気ない。日本のは、細かに行届いて居るが、それだけに乗る人に向っても、細かに眺めて居る。だから、来る人は日本のを、いやがるのも後味が悪いせいもあるだらう。なぜ日本人は、昔のようにもっと大らかな豊かな気持になれないのだらう。島国だから許りでなく、気の小さな者だけが生残ったのかも知れない。
Berlin
ベルリンに十月廿八日夜十一時に着くと、領事館に告げ、迎への人を頼んでおいたら留学生をよこしてくれた。次の朝この男に連れられて、バスに乗り市の主な建物を見て歩いた。東西のベルリンの境に行くと、それが建物の壁になって居る所がある。その家の一階目の窓は板を張り釘付けなって居り、二階三階の窓も開かない。それでも、二階三階の窓から道に飛び降りた者があるのだらう。それは大方死んだようだ。窓が高い所に付いてるからだ。それで到る処の道に花輪が置いてある。何んとも言へない怒りと悲しみとを覚える。
東側は、人通りも極めて少なく、ひっそりとして何か死の国を思はせられる。
写真をとらうとして、作ってある台の前に立って並んだ。前に並んだ人たちが、「日本人だ日本人だ真先きに写させてやれ!!!」と叫んで、私を真先きにしてくれた。私は、心から有難く思った。写し終って台から降りて、その辺りに立って向側を眺めて居る人に、「どう思ふ?」と問ふと、皆、若い者も年寄りも等しく、顔を歪め、歯をむき出し、拳を振り振り「悪い!!!ルスキーめが悪いのだ!!!」の叫んで居た。そして彼らは、この恨みを永遠に忘れないと云ふ。粘り強いドイツ人は、いつかは、この恨みを晴らすだらう。かうやって人は、絶えず悲しみを繰返すのだ。その種をまいたサタンを、私は心から憤る。到る所の大通りでは、東西の戦車が向ひ合って屯ろして居た。
一日あちらこちらとバスで回り歩いて、少しくたびれた。バスから降りて、久し振りで支那料理屋に入って夕飯にした。留学生は、サッサと、好きなものを勝手にあつらへて、それが運ばれて来ると、物をも言はずにパクついた。腹が減って居るので、若い者は致し方がないにもしても、金は凡て私が出すのだ。一言、「お先に」とか、「頂きます」位、言っても良ささうなものだ。この留学生は、まことにおかしな男で、度々、変な事をしたり、生意気なことを言ふ。これが私に向ってだから、宜しいが、外の国の人々に、こんなザマをしたら笑はれる。国の辱にならぬようにと思って宿に帰る時に、よく言って聞かせた。彼は、思ったより素直に言ふことを聞いてくれたのは嬉しかった。昔の留学生と、今の留学生とでは、比べ物にならない程、頭の中味が違って居る。
次の日、領事館に行って礼を述べたり、講演の打合せしたりした後で、博物館を見に行った。ここで珍しかったのは、南米のインカ帝国の遺した物を色々と見たことである。またドイツの大昔の物も見て為になった。
名高い絵の前に来ると、田舎のお上りさんが、やはり数多く見に来て居た。彼らは等しく絵の前につつましやかに膝をついて、後から来る人の妨げにならないようにと心を配り、そして絵の側に分れて並んで、真中を明けて居る。これに向って、彼らを連れて来た人が絵について長々と説いて居る。その口振りが、まことに音楽的だ。ドイツ人は、二人で向ひあって話す時は、ドイツ言葉持前の強い弱いのアクセントでやるが、こんなにして多くの人々を前して話す時は、必ず、美しい節を付けて話す。これを側から見て居ると、絵と音楽を合せた芸術と云った美しくも楽しい心持になる。私は、度々、どこの美術館でも、この美しい様に、ウッとりさせられる。そして、彼らの会議の時も同じだ。どこかの国のように会議となると、鼠が締め殺される時のような金切声をあげ、喧嘩口調で相手をなじり合ひする修羅場には、つくづく愛想がつきる。
それは、さておいて、ウヰーンでのこともあり、懐が淋しくなったので、出来るだけ金は、費はぬように、しなければならない。それで博物館を見た帰りに、宿の近くの店でパンとハムとを買って来た。これから暫くは、こんな日々を送らねば、ならなくなった。それに物の値が、日本と比べて四倍から五倍高いから、尚更のことだ。これを食べて、ゆっくり寝て体を休めることにした。日本を出てから、体を休めたことが、殆んどなかった。
次の日も外に出ないで寝たら、風邪もやっと直り、咳も止った。外は寒いが室のなかは廿度位にしてあるから、シャツ一枚で居れる。窓から見える空は、いつもの通り侘しい灰色だ。
欧州では、どこでも、朝九時に勤め口が始まり、十一時で、一先づ切りあげ、三時まで昼飯と昼休で五時には退け時となる。だから一日に四時間しか仂かない。そして店も同じだから、物を買ふのに困る。それで、土曜日だけ、勤め人は昼までだから、店によって買物を一週間分する。それでも道は、少しも混まない。勤め人は、歩いて三四十分の所までに住むようにと、されて居るからだ。
それに道幅が広く、ベルリンの大通などは片側が六車路だから車も混まない。町角には、町の名でなく通りの名が書いてある札が立って居る。だから地図を見ながら、何処へでも行ける。車は、日本のように、むやみやたらと突走ることをしない。タキシーの運転手は大方、かなりの年かさの人が多いことにも依るだらう。従って、過ちも少い。昔の日本は、どこか、やはり、このように、しっかりした骨があった。今は、コンニャクのように、グラグラして居る。そして棘々しくて、すぐにカッとなって人殺しをする。全く、ひ弱な人種になってしまった。ドイツに来て、逞しいドッしりした昔の日本の姿を見るような気がした。
ある日、自由大学教授で知合ひのEckardt博士と共に、田中ミチ子さんから昼飯に招がれた。その時に、ある日本の女も来合せた。飯を食べて居る時に、この女は、日本で中学生が女教師を輪姦したとか、そのほか色々な、けがらはしいことを、ベラベラとまくし立てた。私は、気持が悪くなり、ドなり付けたくなったが、こらえた。前に書いた留学生と云ひこの女と云ひ、どうして、こんなに、たしなみのない毛物が日本に殖えたのだらう。
エッカード博士は、やはり、スラヰック博士と同じように、「あなたは、まことの日本人らしい日本人だ」と、私に後で話されたので、私は口惜しくて涙が出さうであった。いかに戦の後、ドイツに行く日本人の質が落ちて居るかが、これで良く解る。東方の君子国、それは今や、毛物の国となってしまった。私の後なる北大の学生よ!!!叫魂を新ひ起せ!!!と叫ばざるを得ない。
また或る日曜に、朝早く起きて、手が切れるような寒さのなかを、ルーテル教会に行って見た。落葉する並木道に響いて来る教会の鐘の音は、素晴しく美しい。教会に入って見ると、年寄りが多くて、若い者は殆んど居ない。昔の日本の寺参りの有様と、そっくりだ。牧師の教を説く有様も同じようで、慎んで聞いて居たら、いつの間にか居眠りしてしまった。これも昔の日本と同じだ。向ふに行って来た日本の牧師さん方は、とても向ふは宗教が盛んであると振れ歩くが、それはウソだ。どこの教会でも同じように年寄りが多い。居眠りも式が終り、帰る人のザワメキで、目が醒まされ、あはてて外に飛び出た。そして、その次には近くのカトリックの教会に飛込んだ。ここも前と同じだ。マイクを通じて教を説いて居た。教会のなかでは、冠り物を冠ったまま、外套も着たままだ。そして隣りに坐って居る者とは、全く話もしない。何の関りも持たない。まるでソッ気ないものだ。これは日本の寺参りのお互のなごやかさとは違ふ。個人主義の国であり、イエスの愛は、金を捧げることによって形の上から行はれると思って居るのかも知れない。昼近くに宿に帰り、女将に二つの教会を見て来たと言ったら、たまげて口をあんぐり明けて居た。
ある日のこと、弟新吾から頼まれたゾーリンゲンのナイフを買ひに朝の十時過ぎに、ベルリンで最も大きな、この会社の店に行った。ナイフは、一つ千円だ。次でに、皆にみやげに差上げようと思って、合せて十丁買って一万円を払った。
そして宿に帰って、試しに鉛筆を削ってみると、日本から持って行った安物の私のナイフよりも遙かに切れない。これは、をかしいと思って、試しにほかのでやってみると、やはり同じだ。よく考へてみて、バカらしくなり、ムダなことをし、却って、みやげにならず、そしられるのが関の山と思ったので、思ひ切って店の明く午後三時に、一丁だけ買ふことにし、残りの九丁を返しに行った。ところが僅か四時間余りしか立たないのに、店ではガンとして受取らない。色々と粘って話したがダメだ。仕方なく、田中ミチ子さんに電話して、話をしてもらったが、やはり、何として埒が明かない。田中さんは他の品を買ふからといって肩代りしてくれた。お蔭で助かりホッとした。後で、エッカード博士にも、この話をしたが、「それは、どうした事だらう。そんな筈はないが」と気の毒さうにして居た。本屋などは、本に障って見ることも出来ない。本の名を言ってそれを買ふだけだ。尤も手垢で汚れるから尤もなところもある。そのほかのところは殆んどが、セルフ・サービスだが、それでも、あれこれと品物を選んで、いぢくり回すことは、いやがられるから、よく見てだけ置いて、掴んだらそれでおしまいで、それを買ふよりほかない。よく考へて見れば、これにも尤もな所がある。
しかし、ナイフの場合は包紙も開けて居ないのだから違ふ。後で国に帰りしなに、飛行機のなかで、東北大の本田さんの所で鉄の研究した人に、ナイフのことを話したら、「今の日本の鉄は、ゾーリンゲンなどよりは上ですよ。日本のが劣って居たのは昔の話です」と云って笑はれた。「それでは、日本の鉄が世界一か」と尋ねると、「いや、スヱーデンが世界一です。原鉱石の質がいいのです。しかし、精錬の仕方で、間もなく追ひ越すでせう」とのこと。私は力強く思った。刀は、何んと云っても昔しから良いのに、ほかの物が悪いのは、どうした訳かと、兼ね兼ね思って居たからだ。
ある時、小公園の腰掛けに腰を下して、散り行く冬枯れの木の葉を見て居た。すると、ヨボヨボした婆さんが来て、やはり休んだので、話しかけた。この婆さんは一人で家に居るとの事だったので、淋しくないかと尋ねると、首を振って、少しも淋しくないと云ふ。日本では、こんな事は考へられない。個人主義の国だから、一人で生きて行く癖が付いて居る為だろう。自ら慰め、自ら励まして生き通して行き、ほかの人は親でも子でも夫でも妻でも何の関りも付けない、ただ力を合せてやるべき事だけは、さうする。そこに彼等の自由主義があるので、この自由は独り行ふと云ふことの反面であり、それによって裏付けられて居るのであって、日本での考の、勝手気儘で、人を押しのけて進むのとは凡そ違ふ。それは自由でなくて、暴力だ。日本は誤った考を説く学者によって、いよいよ汚されて行く。
この小公園を出て、あちらこちらと足の赴くままに任せて歩き回って居ると、屋台店の本屋にブツかったので新約と旧約とを合せた聖書を一冊買った。値は日本で新しいのを買ふのと同じ位だが、古い版なのが面白い。
聖書を抱えて、再びプラプラして居たら単科大学に行き当ったので、中に入って見ると、学生の騒いで居るのは、日本と同じようだった。ここを出て、宿に帰らうと思ったが、うっかりして地図を持って来なかったので、どうしても帰れなくなった。仕方なく、若い人に聞くとうなづいて黙って付いて来いと云ふ。するとスタスタと歩いて行って宿の近くまで連れて来てくれた。私は厚く礼を述べて宿にたどり着いた。人が道に迷って困って居る時、よくくどい程、教へてくれたり、連れて行ってくれる。これは、昔の日本と同じだ。今の日本はすっかり、すれっからしになって、碌に道を教へてもくれない。日本は堕ちて行くばかりだ。そして、どこまで、堕ちて行くのだらう。
同じく戦に負けたドイツと、日本とを比べて見て、いつも到る所で、こんなにも違ふものかと思はさせられる。日本人の心は抵抗力がなく、逞しさもなく、すさみ切って荒れに荒れた心になってしまった。暖かさや穏かさ、豊かさや安らかさ等は昔の夢だ。そして物に憑かれたように、ただただ前のめりになって、宛もなく突走り、あせり抜いて、せはしげに忙いで居る。それは地獄へ向って下り坂に居るのではないか、などと、夜眠りながら考へた。それは滅ぶ前の苦しみの悶えに似て居る。
私は、殆んど一月に渡る旅で得たことを、静かによく考へ抜き、それをまとめ上げて、読売に書かねばならない。それは日本を出る時に頼まれた事だからだ。室で考へたり、外を出歩いて考へたりして、その考へを、どうにかまとめ上げて、三日間費して、これを書き、やっと送ってホッとした。しかし、こんなに苦しみ、そして掛りがしたのに、これに向っては、金は何も払はない。私は、読売をそれからこの方信じない。
ところで、日本に居て、外の国の人に逢ふと、いつも受身の立場で、物を習ったり、客として取扱はねばならぬから、勢ひ、自づと彼らよりも劣って居るかのように思ふ。
しかし、こちらに来ると、立場が逆さになる。車の運転手も、床屋も、食い物屋の仂きも、皆が畏って仕へてくれる。それで、我々は劣って居るのだと云ふ心は、サッパリと消え失せる。それでも、これは日本人だからで、ロシア人や中国人、黒人などは、これとは違ふ。やはり、軽しめられ卑しい民として取扱はれて居る。その事は、彼等に聞いて見れば解る。日本人が重んぜられることは言ふまでもなく、戦の前に来た日本人や国が勝れて居た為である。そしてこれから後は、却って段々に卑しめられて行くのでないだらうか。そのことが戦の前に来た人は、立派だったと云ふ彼らの口裏から思ひやられる。どうか、後々の為にも良い人を選んで、こちらによこすように致したいものだ。
自由大学でも同じだが、十一月中頃まで、こちらの大学は休みだ。それまで、私は講演することを待たねばならなかった。講演は十三日の夜八時からだと、エッカード博士から電話があった。それで大学の近くの地下鉄の止り場まで行くと、わざわざ博士が、そこまで車で迎へに来て居てくれた。博士は若い頃に京都大学で講師をして居られ、こちらでは、やはり自由大学の日本研究所長をして居られる。日本の仏教音楽の声明の研究で学位を得た人で、田辺尚雄氏に導かれたと言って、田辺氏を敬って居られた。
車は、やがて大学に着いた。すると入口に背のスラリとした美しいドイツの若い女の人が、にこやかに私を待って居るのだった。私が近づくと、つつましやかに両手を膝の辺りまで下げて、しかも日本語で「いらっしゃいませ」と言ふではないか。トタンに私は、のけぞる程ビックリして、思はず「アッ!!」と叫んでしまった。居合術をたしなむ私も、だらしなく全くの不意打ちを食った形だ。
国を出てから、もう四十日を越ゑて居る。その間、こんなしとやかな女の人には初めてだ。日本の昔の女の良さは、ドイツに移ったのかも知れない。
私は、この人とエッカード博士の教へ子たちにだき抱へられるようにして、いたはられながら講堂に入った。聞き手が余りに多いので教授たちの椅子まで持って来る有様だ。そこで、私は、日本音楽史を述べた。そのうちに次のようなのがある。
日本音楽の基の音は、ハ調のreとrehとの間の一越(イチコツ)と云ふ音で、これは天地神明に和する音とされて居る。そして、いかにも男らしく力強い音だ。これに比べて、女の方の基の音はlaになって居る。これは陰であり、黄鐘(オオシキ)と云って居るが、日本の寺の鐘の音が、これだ。
ここまで話した時、フト聞き手の多くの女の人たちのことに思ひ当った。男の一越のうちに女の黄鐘が含まれるとまで云ってしまったが、これは聖書にあるアダムの脇腹の骨を抜き取って、イブを作り上げたと云ふ作り話に、相通点ものがある等と、ピンと来てはいけないし、そして母をこの上なく尊むの余り、女をないがしろにしないドイツ魂を傷つけるような、なめげなことを言ってはいけないと、チラと思った。
それで、ドイツの母は、すばらしく強い。昔、ローマ人が、ドイツ入を攻めた時に、ドイツの旗色が悪かったので、男に代って女軍が出て行ったと聞いて居る。そしてローマ人の首根っ子を一人一人チョイとつまんで、大空高く持ち上げ、これをブランブランさせて、口でフッと息を吹きかけ、吹き飛ばしたら、クルリクルリと木の葉のように舞ひ落ちて、ドサと音たてて土の上に落ち、泥だらけのツラを歪めてすすり泣きながら「お助け!!!お助け!!!」と二つの手を頭の上よりも高く上げて、降ったと云ふが、それは、まことか?と云った。そして、いちいちその身振りをして見せた。この脱線には、皆が腹を抱えて笑が止らなかった。
こんなにして、笑はせ笑はせ面白をかしく話し、禅の話も交ぜて話し終り、それから尺八を吹くことにした。
私の尺八は普化宗の尺八である。そのうちの名曲と言はれる≪虚空≫≪阿字観≫や、私の作った≪夜坐吟≫などを吹いた。とにかく、ひどく気に入ったらしく、夜坐吟は、四回も繰返させられた。その曲を、もう一度もう一度と云って、机をたたいて、せがんできかないから、致し方なかった。しまいには、吹きくたびれて、こちらが参ってしまった。それで、趣を変へて、一節切で≪虫の音≫を吹いたり、雅楽のヒチリや横笛を吹いたりした。まるで、一人八芸だ。序でに、ドイツのMerodikaまで吹きまくったら、たまげて拍手鳴りも止まずで、皆踊り出さん許りだ。エッカード博士は、大ニコニコで喜んで、この講演のした甲斐ありと後で、幾度も繰返して云った程だった。尺八ばかりでなく、日本の楽器は、動植物製品なので、金属製の洋楽器とは違って、音色が、極めて柔かで自然だ。これが、きは立って彼らに印象深かったようだ。
また、日本楽は、微分的な音階やリズム、表情を使ふ。微分音階と云ふのは、当り前の音階を、もっと細かに分けたもので、近頃、フランスのダニエル教授が、東洋の古い楽から暗示されて唱へて居る。微分リズムの方は、同じくフランスのメシアン教授が云って居る。それらの源のことを、私が尺八その他で、目のあたり示したので、彼らとしては、一しほ思ひを深くした訳だ。しかし、恩師であり大先輩の故松村松年博士は、カイゼルに尺八を吹いて聞かせ、宮廷を唸らせてゐる。
とにかく、かうやって音楽に限らず、東洋のものを、彼等は改めて見直さうとして居る。今に、すっかり良い所は、とられて吸ひ上げられてしまって骨すら残らなくなるかも知れない。彼らの例の凄い研究熱は、東西を合せ、それを一足出た世界の第三文化を新しく建てる為の備へである。資本主義の、共産のと云った前世紀の遺物はマンモスの骨程にも価値をおかず既に見切りをつけて居る有様だ。それにつけても明治四―五年頃に既にマルクスの資本論を読み終り、そして尚かつ≪武士道≫を書いた大先輩新渡戸稲造先生を、私は思ふ。それでこそ、ゴミ箱のなかからも、真理を探せと言はれたクラークさんの、まことの教へ子だ。
とにもかくにも、カルルスルーエの公園に厳として、日本の熱田神宮が建って居ることを前にも述べた。日本の魂ばかりでなく、神さままでが、ただ今、外遊中なのかも知れん。
私は三時間半にわたる長講を終ったが、人々は、なほも去らうとしない。すっかり弱ったエッカード博士と私は、入口に立って彼等に一人一人握手して、ムリヤリに帰ってもらった。残り惜し気にして、後を振り返り振り返りして話を楽しさうにしながら帰って行く姿に、私とエッカード博士は、何んとも言へない気持になって、ジッと後姿を暫く見送って居た。私も、ドイツまで、遥々と来た甲斐があった。学会代表として来たのだから、それに向っても申訳けが立つと云うものだ。
夜の十二時になってしまった。中国研究所長が車を動かせるので、助手を一人連れて送ってくれると云ふ。エッカード博士の代りにだ。私は、これから田中ミチ子さんの夫のKowaさんに合はねばならないのだ。コーワさんからは、前に招がれて、かれの芝居を見た。その芝居は、基督教の聖霊がなすところの奇蹟を折込んだものであった。彼はベルリンで名高い俳優なのである。俳優はこちらでは芸術家として扱はれ地位は極めて高い。彼は禅の話を、私から聞きたいと云って、田中さんと二人で夜食を共にすべく待って居てくれる。
車は、その家の近くまで行ったが、向ふで待って居ると云ふ車が見つからない。その辺りを、グルグル回って、やっと見つかった。大学の車から降りる時に、いとも恭々しく扉の所に助手が立て腰をかがめて居る。彼は私が乗る時も、さうだった。車のなかでの話でも、慎んで私に受け答へする。私は日本でよりも、却ってこちらで、いとも懇ろに礼を尽して取扱はれる。全く戦の前の日本と同じだ。ドイツは、かねがね少しも戦で心が痛んで居ないと聞いたが、やはり、さうだった。町を歩いて居る若い者でも、シャンとして堂々と歩いて居る。日本のようにグニャグニャした崩れ切った姿して歩く者など、ついぞ見掛けなかった。
車を迎へに来たコーワ家の二人の下僕も、極めて慎み敬って私に受け答へする。とにかく、私は支那研究所長の教授と助手とに、よく礼を述べて別れ、コーワ家へと向った。
コーワさんも、田中さんも待ちあぐねて居た。そして夜食を頂いた、パンの上に生肉のすったのを載せたものを、どうぞと云ふ。これは、エネルギーを増すとのこと。日本の魚の刺身と同じだ。そのほか色々と、たべ切れない程のものを、食べろと云ふ。楽しく話しながら、夜食を終り、禅の話をした。前にも自由大学での話の時に、同じ禅の話をしたが、先頃のコーワさんの芝居にあったその聖霊を、ハッキリと掴むことだと云った。これを牧師も神父もただ言葉だけ知って居て、それを身に感じて居ない。悟りとは、この霊感を得ることなのだ。さうすると、「まことに、さうでせう。私たちは、洗礼や按手の時に霊感を得なかった。それを得る遣り方を教へて下さい」と云ふ。それで、坐禅しなくても宜しいから腰掛に正しくり、下腹に力を入れ、手だけを坐禅の時のように組んで、「神とは何ぞ???」と、深く考へなさい。さうやって居ると、いつかは、ハッキリと神が解り、そして、その時に霊感を受けます、と答へ、腰掛に坐って居る姿、形を直してやった。痛く喜んで居られた。私は色々と、田中さんに、お世話になったので、お礼に尺八を吹いた。Sehr sanft! Und stark! 素晴しい素晴しいと心の底から動かされたようだった。禅尺八だから、さうだらう。彼らの求めて止まない東洋の奥深さ、それは、この尺八にも現れて居るのだ。それにつけてもドイツ人が禅を求めると云ふ心の落ち着きを、私はうらやましく思ふ。日本は、それどころでない。心がすっかり、デングリ返ってしまって、何もかにもない。禅僧それ自らが、もみにもんで大騒ぎして居る有様だ。
コーワさんは、「日本に行ったら、誰れに神を学んだらよいでせう」と尋ねた。私は首をかしげて、「まことに口惜しいことだが、誰れも、あなたに引き合せしたいような人は居ない」と答へる外なかった。
また、私は大昔の上著を日本で作って、それを持って行き、これを着て、いつも尺八を吹いた。日本人は、日本の着物を着るべきだ。どこの国でも、その国の着物を着て居る。その着物は、その国の気候に合ふようになって居るのだ。私の着物を着た姿が美しいと云って、ためつ、すがめつして、近よったり遠ざかったりして眺め、その上にスケッチまでして居た。さすがに名俳優だけある。私の考へたことは、報はれた。心の底から嬉しかった。
夜は更けて行くが、話は尽きない。私はテープを添へて、「虚空交響詩」の楽譜を渡し、これをベルリンの交響楽団でやるよう、シュトッケンシュミット博士とエッカード博士に話してくれと頼んで、ここの家を去ることにした。
コーワさんは、入口の所に立って、私の手を、左手を上から添えて握りしめ、「旅の間、お体に差障りのないよう、そして安らかな楽しい旅をして、お国に帰り着かれることを心から祈ります」と云はれた。その時の美しい姿、それは名優の生の姿であった。私は、今も、その美しく清々しい、その言葉と姿とを忘れない。それからは、人と握手する時には、これに習ふことにして居る。
彼は、田中さんから、色々と日本の美しい心を学んだと云って、日本に行って死にたいと言って居た。私は、日本を知った外の国の人々が、皆、日本に心から、あこがれて居ることを見た。そして、汚された神の国を思って、心で哭かざるを得なかった。
私は、明日の朝、と云っても、二時間後には、思い出の多かったベルリンを立たねばならない。もはや、夜中の三時だ。
コーワさんの甥に当る人が、わざわざ車で宿まで送ってくれた。さすがに夜中の町は、車も通らない。広い通りは、ガランとして、種々の色の灯だけが美しく輝いてゐた。
このコーワさんの甥は、日本のある娘に惚れて、どうしてもその子をもらひたいと言って居た。しかし私は新渡戸さんの話によって、余り、これをすすめる訳に行かない。
やがて宿についた。彼に厚く礼を述べて帰ってもらった。宿では、私の室を、ある時、訪ねてくれた早大の岡田幸一教授を起して、色々と尽きぬ話をした。この人は留学でMunchenに主に居た。私の「虚空」や「夜坐吟」を、二年前に、Munchenの放送局から放送したのを聞いたとのこと。これは、同放送局の求めにより、テープにして送ったものである。岡田氏は真面目な人で、よく話が合ふので、連れ立って外に出歩いたり、飯を共にしたりした。この人に別れの言葉を言ふつもりなのが、つい長話しになってしまった訳だ。限りがないので別れを告げ、室に帰り、またウヰーンの時のように腰掛けたまま一時間眠り、起きて、宿に金を払ひ、車を呼んでもらって、飛行場に駈けつけた。美しい女ではなかったが、極めて、まめやかに私に仕へてくれた女中に別れを告げ得なかったのは、惜しかった。それでも、前の日に、明日立つと言ったら、「御差障りなく......」と云って、向ふから握手を、ニコニコして求めた。私は、この女に、よく神のことを説いて聞かせたのである。信心深いと見えて、よく食い入るようにして、私の話を聞いて居た。また宿の女将は、美しい人と思って居たら、立つ朝、ねぼけ眼で出て来たのを見ると、何んと小ジワだらけの五十過ぎの婆さんだった。こちらでは、娘たちは、白粉を余りつけない。つけなくても色白だからだろう。こんな婆さんが、シワかくしの為つけるくらいなもんだ。その外、どえらいナリをし、白粉をつけ目の縁を青く塗って居るのは、大方、淫をひさぐ手あいだ。これを、そっくりそのまま真似て居るのが、田舎ッペーのヤンキーで、また、それを猿真似して居るのがどこかの国のメッカイだ。
なほ、次のドイツ語は、自由大学で禅の話の所に話が立ち到った時に云ったものである。その言は敵の馬を奪ひ、それに乗って敵を追ひ払ふ、生ける計り事だ。
Die Aufen- und Innenseite der Hand ist verschieden, aber sie sind die beiden Seiten einer Hand. Die linke Hand und die rechte Hand ist verschieden, aber beide sind Teile eines Korpers. Die Verhaltnisse zwischen dem Mann und der Frau, und zwischen den Stille und der Bewegung, und zwischen der ostlichen Kultur und der westlichen Kultur sind auch ganz gleich. Das ist nicht die Dailektik. Die Dialektik erloscht beide Seiten, aber “Zen” lasst beides so leben, wie es ist, und “Zen” sucht Verschmelzung und Einheit. Der Nerv und der Geist vereinheitlicht beide Hande. Was ist es denn, was alles vereinheitlicht? Das ist der Heilige Geist, uber den der Priester immer und gewohnlich spricht. Aber das ist nicht Worte und Taten, sondern die Begeisterung, die Eingebung. Das wirklich zu ergreifen und fest zu halten ist”Zen”.
(農学部卒)
発行所:北大季刊刊行会 1963年6月30日
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