イスラエルと西欧への旅(四) ~高橋空山~
London
飛行機は、やがて波荒きDover海峡を下に見て、Londonに着いた。空港から町までの間にある物さびた灰色の低い住居、その前庭に暮れ行く秋にバラが白く又赤く咲いて居た。私は、この眼をもって「庭の千草」即ちTis the last rose of Summer,......を見て何んとも言へない気持になって、胸が迫った。
車が待合せる所に着いたので、日航の東郷さんへ電話しようとしたが、未だ金を英貨に取替へてない。困って、まごまごして居るとそこに来合はせた外人が、ニコニコして「どうした、私が呼出してやる」と云って、自ら金を出して掛けて呼出して呉れた。それで話が終るまで、ジッと外で待って居た。宿に、これから車で行くからそこに東郷さんに、済まないが来てくれるようにとのこと。その間待って居て呉れた人は「話が向ふに、よく通ったか、どうか」と心もとな気に聞くので「よく解ったようだ」と答へると、ニコニコして喜んで、クルリと振向いてそのまま立去らうとした。あはてた私は「一寸待って欲しい、金を返したい」と云って、出さうとすると「要らない要らない」と云って笑ひながら手を振って行かうとする。「では、茶でも呑まう」と云ふと「私は急いで、これから北の方に行かねばならないから、その隙がない」と云ふ。「では、名前でけでも教へて欲しい」と云ふと「私はアメリカ人だ。それだけで良いのだ。」とのこと。そして後を振り向き手を振り振り立去って行った。私は胸が熱くなった。遠い異国での、ほんの僅かな恵み、それは旅人に涙せしめるものである。それが私の嫌いなアメリカの人なのだから、まして驚き且つ胸に刺った。神は、私に鞭を与へたのかも知れない。
そこから、古い箱型の車で、目ざす宿まで行くと、髯のモヂャモヂャ生えた年寄りの運び手は、いとも厳かな顔して掛りのほかに心付けを呉れと云って手を出した。何かチクハグな思ひして、私は思はず吹き出してしまった。すると、さすがに英国紳士だ、きまり悪げな顔して、出した手を引っ込めて、前を向き、そのまま急いで車を走らせた。私は済まんと思ったが、もうその時は後の祭りだ。
宿で、東郷さんを待って居ると、車を飛ばして来てくれ、宿に泊るよりも友達の奥山君が、前借りして既に金を払ってある室が空いて居るから、そこに泊ったらどうかとのこと。その言葉に甘えることにした。ウヰーンでのことで懐が淋しくなって居たから、これ幸ひ、渡るに舟だった。わびしいことである。
翌る日、大使館に行って講演の打合せをしたが、埒が明かない。向ふの相手が皆、旅に出て居る為だ。仕方がないから、持って行ったテープを大使館に渡して、言葉を添へて、後でゆっくり代講演してもらうようにした。私がやると良いのだが、彼らが旅から帰って来るのを待って居る隙がない。まことに惜しいことだが仕方ない。ロンドン子は、商人で、文化など、ことに音楽などには、さして心を寄せて居ない。彼らは、きまじめ一点張りだ。
その夜は、気の毒げにして、東郷さんが、食べ切れない程の夕飯を、おごってくれた。ドイツでは、食べ物屋に入る時には、雨具などは受付けに頼んで金を払う慣はしになって居るが、ここでは、各々が勝手に仕末する所が間々あるのでも、そのきまじめなことが窺はれるような気がした。
英人には、ロマンがない。あるのは必ずきまじめさに結びついた情けだ。以って彼らは、ブッキラボーで仏頂面だが、底意はあるのだ。そのことは、交りが深くなると、自から解って来る。
次の日、楽器店を見たり、街をブラブラ見て歩いて居たが、これは盛り場でのこと。道行く多くのきらびやかに粧った人々を僅かに避けて道の側に、マンドリンを、独り奏でて居る街頭楽人があった。物好きで音楽の好きな私は、ツト寄り添って話をしかけた。その国を聞くと、イタリヤだとのことそれで先頃旅して通って来た許りのローマのことを懐かしく思出したので、オーソレミオや、そのほかイタリヤの民謡を弾いてくれと頼んだ。この人は、己が古里の唄を遠い異郷で弾くことを望まれて、嬉しかったのか、ニコニコしてうなずき、ウットリとして目を閉ぢて弾き初めた。道行く人々も、その騒しいザワめきも、彼と私とには何の障りも関りもなくなった。魂は共にイタリヤのあの緑あざやかな美しい空、海、山を馳け巡って居るのであった。
民謡は、その国の魂であり、楽の基である。とにかく、民謡はいい。シミジミと古里を懐しく思出させる。また、そこに旅した人々にも、たまらない懐しい思出でとなる。
その日の昼からは、名高い大英博物館を、独りで見に行ったが、思ったより小さな古い建物で、そこには隙間もない程、ゴチャゴチャと色々なものが詰って居る。そして、私にとっては、何の得る所もなかった。そして日本についての物が、極めて少いことに、気が引けた位のものであった。これは西欧のどこの博物館や美術館でもさうだった。だから、広く人々には、まだまだ日本の美術品のことなどは、知られて居ないのでないか。日本には芸術が無いようにさヘ思はせられる貧しいものしか飾られて居ないのは、口惜しい気がした。
その夜は、奥山さん、東奥さん等に、夕飯を差上げて、この前のお返しをし、色々と面白い話をして楽しかった。その後で、奥山さんと二人で夜の街をブラつき、次の日に見ることにしてある国際美術館の在り場を知らせてもらった。その近い所に、屋台店があってホットドッグを、おいしさうに湯気立てて売って居た。ふと味を見たくなって、買って食べると、何の味もなく少しもうまくない。金を払ふのに幾程かと云ふと、バカ高い。それで「高いぢゃないか」と云ふと「何を!!!」と来た。そして「一体、日本人は怪しからん。ビルマで、何も罪のない人々を、山と云ふ程殺して居る。わしは、長崎へも行った」等と、飛んでもない事を、Scotland訛りで、巻くし立てる。相手になるのも、バカバカしいと思ったが、からかって「お前の国の者は、インドで、何んの罪もない者達を、革命をなす反乱徒扱ひにして、街で機関銃を向け、その丸をバラバラふり撒いて、殺してるではないか」とやり返すと、すっかり詰って、「何を!!!」と叫ぶと共に、いきなり拳闘の右手で突いて来た。
私は思はず知らず左手で、彼奴の右手の逆を取って背中にねぢあげて居た。奴は、足をパタパタさせて悲鳴を挙げた。これは、ほんの目ばたきする間に行はれたので、奥山さんも、仲に入って止め立てする間がなく、ビックリして、後しざりし、ポカンとして居るのが目に写った。そこを通る人々は、よってたかって、これも驚いて口を開けて居るだけだ。さすがに彼奴は、きまり悪げにして、叫び声だけ止めて、顔をしかめたり、歪めたりして、いかにも苦しさうだった。
先づ、この位と思って弱り方を見て、もうかかって来る力ないと思った頃に突き放して、少し間合を取って、ジッと身構へした。将して、奴はスゴスゴと、黙って店のある所に帰って行った。それを良く見定めてから、私はふと身を飜して、奥山さんをうながして、素早い足取りで、その場を立ち去った。トンダ武勇伝を、ロンドンまで来て、やらかしたもんだ。しかし、この時に初めて、九ツの歳からやったのだが、柔道をやって居て良かったと思った。さうでないと、あごがブッ飛んだかも知れない。危い危い。っまらん、ヘラず口は敲くものでないと、しみじみ思った。
次の日は、朝から再び街々を歩き回って、ロンドンの様を見て歩いた。そしたらCzechoslovakiaの物を売っている店にぶつかり、そこでBlockflote(木笛)を見つけたので買ったのは、見つけ物だった。
この昼は、大阪の市会議員をして居る人に逢って昼飯を奢ってもらひ、色々と、この人が入って居る民社党の話やら、通って来たアメリカの話を聞いた。
それから、私は彼と別れて、国際美術館を見に出掛けた。しかし今まで見て来た国の物と殆んど同じく、何も得る所がなかったが、ただ一つ、Turnerの絵だけは心を打った。彼は、この国の印象派の祖と云はれて居るが、とにかく西欧で見た絵のうちで最も色取りの美しい、鮮かなものだった。それは目ざめるように爽かである。しかし、それは浮いたものでなく、地にピッたりと慎しまやかに付いて居る。それは英人の心である。英人の心の美しさをそのままに表はしたものだ。それは「庭の千草」や「ロンドンデーリー」の歌の気持に通ふ匂いがある。彼らがこのターナーを誇りとすることが、これで解る。帰りしなに、館を出る時に、受付けで売って居る絵葉書を買はうとして、女の人に「ターナーのを下さい」と云うと、心から嬉しさうにして、ニコニコして売って呉れた。こんな人々、国民の多くの人々が誇りとして、親しみ愛されて居ることは幸である。
日本では、もはや、まともな日本人が少なくなったから昔の絵などは、殆んど解らなくなってしまった。気品、神韵を第一として尊んだ絵などは、その気品とは何か、神韵とは何かと云ふことを、よその国の人にでも話すように、先づ解き明かさねばならぬ程、すっかり、心を攪き乱され、濁ってしまったからだ。
山に登った時の清々しい爽やかな気持、凛とした厳しさ、厳かな引き締った空気に触れた人、そして俗界を遥かに遠く引き離し、それを見下す大きな遙々とした眺めから来る気持、谷川のせせらぎも聞えないシーンとした物音一つしない山の静かな夜に、空高く仰ぎ見る天の河、この山の気品と神前とを、好んで描いた東洋画、日本画を、既に盲らになった日本人は、見れども見えず、聞けども聞えずだ。
西の国の人々が「東洋の神秘」と云って心から尊び、うやまい、あこがれて居る心、それを既に失ひ、それは地を払って居る。どのツラをさげて、彼等に対する積りだ。「塩もし、その味を失はば、地に棄てられん」だ。神参りし、水でもかぶって身を深め、「払ひ給へ、清め給へ」でもしてもらって、サッぱりして、出直して来いと、叫びたくなりつつ、怒に燃えて、雨のロンドン街を、やけ糞になって歩き回った。お蔭で道を間違へて、日航の事務所にようよう辿りついた。
その夜は、もと日本の学習院で英語を教えて居たOxford大学出の人に導かれて、道徳会の芝居を見に行くことにしてあった。その前に、この人や東郷さん達に、私が夕飯をあげて、この前に東郷さんからの夕飯のお返しをすることにしてあったのだ。その時に少し遅れてしまった。済まんことをしたが、それでも、どうにか間に合った。
芝居は、さして面白くもなかったが、連弾のピアノの音が、少しも金属性のあのいやな音を立てず、いとも柔かであるのは気持が、良かった。どうして、あんなに柔かで、金属性の音がしないのか、今だに、その事を音楽音響学の上から考へて居るが、未だハッキリしない。東洋楽では、金属音は刺戟音だから、火事の半鐘のように非常時音として、和を旨とする音楽には余り用ひない。この金属音を用ひるとしたら、それを和げなければ楽音にはならない。それが、このように和げられて居る。どうやって和げてあるか、解らないのである。日本製のピアノは、この点は全く未だダメだ。楽音になって居ない。このことは、ピアノ許りに限ったことではなく、オルガンでも、日本のは鈍い暗い重苦しい音色であって、清々しく明るい音色でない。清々しく、明るく、爽かで、和やかなこと、これが神性である。だから、教会でオルガンを使ふのである。そして、この気分、神性は、日本でも神参りした時に身に味はう気分である。つまり日本の人々の心の底に今は蓋はれて居る気持である。この気持は、前に述べた西欧人が、心から求めて居る気分なのだ。否、生きとし生ける物も、生命なき物も、求めて止まないものであることを知らねばならない。
そのことは、空高く駈り鳴く鳥の音、路ばたの草や石、そして夜の星々を見たら、自ら解ることである。
話は元に戻る。芝居が終った時に、支那のある将軍と云ふのが、舞台に上って話をした。彼も道徳会の一人だとのこと。芝居がいよいよハネて帰りしなに、彼に逢ったから、名刺を出して名乗って、「私も暫く支那に居た。あなたは、北一輝先生を知って居るか」と云ったが、余り良い顔をせず、そそくさと出て行かうとした。遠い異国で、同じ東洋人が出逢ったのだ。もう少し、打ち解けても宜しい筈。ところが、そうでない。少しも情を現はさない。これが支那人なのだ。支那人は、心に思ってることを、少も表てに出さうとしない。だから腹が解らないと、外国の人から言はれる。日本人にも、いくらか、この傾きがある。そこへ行くと、西欧人は、露はにこれを顔や身振りで出す。
また、支那人は、過ぎ去った幾千年前の文化の誇りを、今だに持って居て、外の国の人を見下げ軽んじて居るところがある。そして今を見ない。その為に文化が遅れてしまったのだ。このところは、余りに前のめりになって、新しい物のみ、やみくもに追馳けて突っ走しる日本と、良い比べ物になるだろう。そこは、やはり、故きを尋ねて新しきを知る確かな足取りが宜しいことは、云ふまでもない。
私は、またしても、こんなことを考えながら、伴の人と共に静かなロンドンの夜の街を歩いて、とある店に入って、コーヒーを呑みながら、色々と芝居のことを話し合った。道徳道徳と云って、人臭いこと許りに、とらわれずに、もっと自然、神を見つめることが要るとのことに、二人の話が行き着いた。私と話合った、このオックスフォード出の英国紳士は、話せる人だった。
しかし、英国では、オックスフォードやケンブリッヂの大学に入る人は、限られた極めて僅かの人である。と云ふのは、頭も良く体も良くなければならないが、何ンと月謝が年四五十万円かかる。その上に暮して行く金が掛るのだ。だから、余程、金のある人でないと、入れない。それで、これらの大学に入れない多くの人々は、それ程に、教へも、たしなみもない。そして日々の実のある仕事に走らざるを得ないのだ。そのことは、ロンドン人の思ひの外言葉の汚いことや、学の低いことで良く解る。日航の人に聞くと、飛行機に乗るような人でも、字の綴りを正しく書ける人は少いとのこと。以って、その外のことは知るべしだ。
こんなに人々の間で上と下との違ひが、今でも甚だしいのだから昔のことは尚更らのことだ。だから、マルクスは、この国で資本論を書かざるを得なかったことがよく解る。マルクスは、西欧人が、いやがり嫌ひ抜いて居るユダヤ人である。
その為もあって彼らの仲間は結び付きが堅く、従ってはかの民とは和まず、争ひ、乏しいものは等しく分ち合ふ。また、何よりも物金を重んずる。そして今のイスラエルでも解る通りに、全体主義社会主義たらざるを得ない《仲間構性》を持って居る。それに理屈をくっつけたのが、マルクスの資本論である。
昔は、イエス、今はマルクス、この二人のユダヤ人によって、幾千年もの間、そのシーソーゲームによって、世界はモミクチャにされて居ることは、まことに良い当てこすりだ。ユダヤ人の敵討ちに逢ってるのかも知れないと、私の親しいユダヤ人教授に話したことがある。すると彼は、しきりに「そうでないそうでない」と、手を振って居た。
しかし、私は先輩の新渡戸稲造先生にならって、幾度も幾度も繰返して、マルクスの資本論その他を見た。そして、新渡戸先生が、尚且つ、それでも武士道論を書かざるを得なかった心持が、思ひやられた。日本人として、それは当り前のことだ。と云ふのは、確かに、マルクスの言ふことは、真理の片側を言っては居るが、全てではない。このことは、今、目の当り世界が二つに分れて居ることでも、ハッキリ、その事が解るだろう。もし、誠に一足す一が二であるような真理だったら、世界の人々は悉く、何のイザコザも啓蒙も戦もなく、等しく、これを文句なく受入れるだろう。彼、ユダヤ人なるマルクスの言ふことは、或る学者らの云ふ如く、その全てを否むことは出来ないが、彼の言は、赤い動脈ではある。しかし、青い静脈が欠けて居るのだ。即ち、心和ぎ、自由がない、そして一より多へ、多より一への流れ、即ち全体と民主との間の流れ、心から物へ、物から心への流れ、上に立つのは民を主とし、下に立つものは君を主とする流れ、これらの二元の間の互の流れが、まるく行かなければならないのだ。即ち動脈と静脈との流れが、まどかに行はれなければ、その生けるものは滅ぶのである。これらの動脈、静脈の二元は、もともと一つの体の二元なのである。二面なのだ。互に相争ひ戦うべき筋合のものではないのだ。
頭の常に鈍い毛唐共は、原水爆という代物を、自然科学から突きつけられてから、初めて、ソロリソロリと、この円く融け合ふ向きに向って、いとも重たげに、み腰を挙げかかって居る。とにかく、彼らは目に物見せないと目覚めない理屈屋だから困る。
そして、何処かの国の気の小さい、物覚え許りうまく、人真似ばかり何時もして居る胆っ玉の小さい虫どもは、穴の中から目ばかりパチクリして、外の有様ばかり気にしてビクシャクしてござる。だらしがないこと、夥しい。
かつて凡ての外から入って来るガラクタを、心を大きくして受け入れ、強い歯で噛み砕いて、胃袋の足しにした逞しさは、もはやこの民にはないのか。ヅ体ばかり、ペンペン草か豆もやし見たいにヒョロヒョロ、ニョキニョキと高くなった若衆たちよ、お主たちは、オーッと叫んで起ちあがる勇ましい、大きな心があるかい!!!
もとより、毛唐といふ奴どもは、白兎と同じで寒帯に近い処に住んで居るので、物に乏しいせいもあるが、ケチで根性が汚ない。催かの物のやり取り、分前に文句を長々とつけて、独占めにするの、皆に平らに分けろの、なんのかんのと、さもしい卑しいことを、眼に角を立てて、ガナリ立て、取っ組合までやり、その果ては戦までやる。まことに物に卑しくさもしい。上の者は独り占めせず下の者に平らに共に産を分ってくれるべく、その為に下の者は、その上を枯らさぬように、本を資(タス)けるが宜しいのだ。即ち、かう云ったら目を回すかも知れぬが、とにかく上は共産を心とし、下は資本を心とすべきである。この大きなゆたかな心が、生まれつき小物の毛唐に持合せがなく、上下ともに常にガツガツしてるのだ。天を以って心とし、天孫民族であると称へた大者の、真似すべき事柄ではない。赤い日と青空を指す白地の旗、その天旗をこそかつぐべきで、赤のみ白のみをかつぐ源平合戦は、もう千年前に後戻りすることだ。私にとっては、子供のママゴトの奪合ひ見たいに見えて、をかしくて思わず吹き出さずに居れない。
とにかく、物の分前争ひをする卑しいことだけは止めて欲しいものだ。止めさせるべきだ。
その夜、宿に近い地下鉄の駅名の頭文字だけを覚えておいて、その長い名を詳しく手帳にでも書いておかなかったのが誤りで、駅に来て見ると、同じ頭文字のものが多く、そのうちのどれか、サッパリ解らない。仕方ないから、そのうちの二つ三つを、あてズッポーに行って見たが違ふ。そのうちに夜が更けて来て、地下鉄も仕舞になる。致し方なく、始の振出しに戻ることにして、日航の近くの駅に引っ帰した。駅を出る時、降りる者は、私たった一人だった。訳を話すと駅員は、気の毒さうにして、切符代も取らずにくれた。不文律を立て前として実際を主んずる英人は、飛行場の税関でも、こちらの言を重んじて手荷物など調べずに通す。この点、日本とは違ふ。凡て常識を以って取扱ふ。そしてムダな力を費すことを避ける。これが英国紳士と云はれる基だ。何事に当っても形や上べや、規り規りと言って、それだけで物事を取扱ふことは、どうかと思ふ。また規りがないと何をするか解らないような始末におへない民は禍である。何んでもかんでも己が勝手気儘をすることが、自由そのものと心得て居る民は禍である。
外は、またしても雨であった。しかし、ロンドンの雨は、疎らであるから傘をささなくても、それ程気にならない。いつでも皆、傘なしで男も女も歩いて居る。ことに、古めかしい山高帽に燕尾服で盛り場を多くの人が歩いて居る。それが商人だから驚き、且つは余りに時世を超ゑてゐるような気がして、吹き出したくなることもある。
この時は、もう夜更けだからさすがに誰一人歩く者もない。開いてゐるのは、ナイトクラブで、それも、たまにあるだけだ。私は電話をかける細かな金を持って居なかったので、ナイトクラブの前に立って居る若い見張りの者に、金を取り代へてくれと云ふと、ニコニコして取り代へてくれた。これで験しに日航に電話して見たが、応へがない。夜は更けて来るに従って寒くなって来た。もう十一月の半ばである。街をブラブラして夜を明かさうかと思ったが、何んとしても冷えが甚しい。もう三時だ。止むなく、近くに在った警察に飛込んで、訳をよく話すと、すっかり笑はれて、東郷さんの家の電話番号を探して呼び出してくれた。そして、やがて、わざわざこの夜更けに奥山君と二人で、車を飛ばして来てくれ、宿まで送ってくれた。
何とも申訳のないことをした。哲人は常に空を見て歩いて、穴にたたき落ちる。ザマを見ろだが、それだけでは済まされない。傍の人が、こんなに、いつも困らされ重荷を背負ふことになる。何んとかして、これを避けたいと兼々事細かに、心遣ひしても、こんなシクジリをやらかすことになる。どうにもならない。もっともっと心を細かに使はねばならない。長旅びになると、どうしても疲れて来て行届かなくなるなどと言って居られない。
ロンドンの警官は、皆トテツもない大男だ。大鵬よりも大きな二メートルもある化物のやうな大男だけが、特に選ばれて成って居る。だから、マゴマゴすると、ヒョイと首根ッ子を、いとも軽々と、つまんで、アッサリ片付けられる。しかし、何も悪い事をしない当り前への人には、極めて優しく親しみ深くニコニコしてあしらってくれる。
それが、真冬の凍る夜半でも町々の角に、十人一組ぐらいになって立って居る。何かしら無気味な気がするが、それは、町巡りをして来ては、そこに集って、主立った人に告げて居る姿なのだ。
その町巡りの仕方が、わが国と少し違ふ。各々の家を、残らず戸締りを厳しく見て歩く。つまり、扉の取手を回して見たり、窓を押し上げたり、アパート等も、各室の戸締を同じやうにして調べて回る。少しでも盗人の入る隙がないかと気を配り、その後で、各々の家の前に、改めて立ち直って、二階三階と見上げては、ジット聞き耳を立てて、何か変ったことでも起きて居はしないかと、物凄い顔して、暫らく見守って居る。
かうやって家々を巡り歩いて、もし戸締りその他の事で手抜かりをして居たら、おしまいだ。すぐに寝て居るのを、たたき起される。その上に、次の日には警察署にまで呼び出され、サンザン大眼玉を食ひ、油をシコタマしぼられた上に、始末書まで書かされ、かてて加へえて目の玉の飛び出る程の罰金を仰せつかる。
だから、各家とも、夜、寝しなの戸締りは、例のきまじめな顔々が、凄い目付きしてやって居る。
しかしだ。こんな厳しい取り締りをしたら、わが国では、はたして、何んと云ふだらう。
むやみと、人と張り合ひ、何かと云ふとすぐに尖り、タテついてカッとなり、ブツかって来る今の人々は、何をしでかすか、解ったものではない。恐らく気が狂ったように噛みつくかも知れない。危ない危ない。
さて日航の奥山さんは、私と同じ山形の出である。次の日の日曜を幸として、色々な所へ連れて行ってくれるとのこと。先づWindsor城のある所まで行って見ようと云ふ。
冬雨の侘しくそぼ降るロンドンの町はづれのバスのなか。ひなびた人々の身なりも、あたりの冬枯れの眺めによく似合って、凡てがシッとりと落ちついて居る。誰れも話声をあげる程の者もない。
すると、入口の扉近くに立って、乗って居る人々に背を向け、後向きになって居た、かなりの年の男の車掌が、外の雨を眺めながら後ろ手をして居て、聞えるか聞えない位の静かな低い微かな声で、この国の民謡を独り口ずさんで居た。
その近くに坐って居た私は、この凡てがなごやかで、シッとりした気分のうちに、ひたされ、すっかり溶かされて、何んとも言へない良い心持になり、うっとりとして、ともすれば、旅の疲れもおあってウトウトと眠くなるのであった。
やがて、ウヰンザー城のあるささやかな田舎町に着いたが、もう昼である。奥山さんと二人で、昼飯をたべに店に入った。ところが古めかしい暖炉で石炭が赤々と焔をあげて燃えて居る。まことに英国の昔のことが偲ばれて幽しい思ひがした。英国では、古い物が、そのままに残され、そして滑らかに新しい物が、これに続けられて居て、時の流の深さ永さを、目の当り見せしめられる。
ウヰンザー城が、昔のままに残されて居るのも、その証しである。私たちは、昼飯を終ると、この店を出て、城を見に行った。しかし疲れて居るので広い城のなかを、アチコチと歩き回わることは止めて、入口に近い所に建って居る王城の教会に入った。そこは昔の教会堂であって、薄暗く、そして間取りや飾りが、いかにも王室のもののように、重々しく奢りを極めたものであった。それらの凡ての建物は、京都御所や伊勢神宮のような至って飾り気のない直ぐなものではない。これによっても、ある逆しらごとのみに従ひ、あらぬ恨みの怒りの焔に燃える学徒らは考へるが良い。日本の宮々は、血を搾り取ることによってのみ、出来上ったのではないことを。そして、Einstein博士やブルーノタウト博士らが、日本の大宮所の奢りなきことを、心からほめたたへたことを。その宮々は、山村にある祠と同じに、心からなる民の贈り物であることを、素直に認めるべきだ。まっ直ぐに、素直に物事を受け取り見る、これが日本人の昔からの心である。とかく虐げられた者は、根性がひねくれて居て曲がって、ひねって、タメツ、スガ目つしてみる見方ばかりする。如何なることにも、心めげずに男らしく、まともからブッかって来い。ことに素直で、そして雄々しくあれよ、若人らよ!!!
さて、私は城を調べる為に、わざわざここまで来たのではない。ウヰーンの時と同じに、ロンドンの町を離れた所にある農家を見に来たのである。城を、そこそこにして出て、街角に立って近くの農家を見ようとして、人々に尋ねて見たが、farmerの発音が、どうしても人々に解ってもらへない。これは後で解ったことだがfaのaを私は、余りにハッキリaと出して居たからだった。このaは、極めて軽い音だった。私たちは、Oxfordを出た先生から、ことにやかましく発音のことを、北大予科で一年間も、そればかり習ったので、他の言葉では、それ程解ってもらえない言葉はなかったが、このfarmerの発音だけには参った。ことに、それが農科出の私なのだから、全く生命とりだ。
人は、とてつもないことで、思はぬシクジリを為るものだ。とにかく、その時は、全く参って、あせっても致し方ないから聞くことを止めて、勝手に歩き出して探すことにした。
しかし、アチコチと行けども行けども農家がない。初冬の短い日は暮れかかって来る。仕方がないから、車に乗って、ロンドンに引き返すことにした。ところが、おかしなことには、今度の道は前の表道と違って裏道を通って、ロンドンに帰る道だった。それで道の中程まで来ると、山ほど農家があり、農家の中を通って行くのであった。私を連れて行って呉れた奥山さんも初めての道なので、凡て良く解らずに連れ回わった訳だ。ノン気な人だ。しかし、車のなかからでも農家を見れたのは幸いであった。ロンドンの野菜の大方はDenmarkやNetherlandsそのほかから来るので、ここらの農家は大方、花作りを主にしてるようだった。菊の大きな花が、色々と育てられて居る、それが目立って見えた。土は、ひどく悪いボロボロの赤ちゃけた泥砂土である。だから、麦や野菜を作っても禄なものは出来ないのだ。それに、雨や曇りが多く、光射しが足りないから、尚更らのことだ。こんな食物の出来ず足りない所では、人々は商人か工人にでもなるほかはない。商工による国は、コツコツとまめに仂かねば、やって行けない。そして凡ての上べの形恰や、飾りなどを気にして居たのでは、ダメだ。まじめに、セッセと真黒になって仂くほかはない。さうでないと長続きせず滅んでしまふ。英国人の着て居る物、身なりを見れば、日本人より遙かに悪い。今の日本の勤め人とは、比べものにならない。
しかし、飾りピアノを置き、ゴルフ道具を入口に掛け、さして用もないのに忙がしい忙がしいと飛行機で駈けずり回り、仕事は凡て下任せ、己れは、誰が本物、誰が偽物と古道具屋張りの人の目利話しで時を過し、子供は抛りッ放し、夜は眠れぬの何んのと棚は薬だらけこんな時の流れ許りに乗って居る行き方も宜しいかも知れない。どうせ、こんな泡ブクは、大風が吹けば吹っ飛んでしまう代物だ。
夕闇のロンドンに帰り、急いでBuckingham宮殿を眺め、Westminster寺院に入った。この建物は、思ったより小さいものだった。しかし、さすがに古めかしく、凡てが暗い灰色に閉されて居て重苦しい。これはこの国の空と土とに合って居るのかも知れない。折から、Pipe=Organ(管風琴)の音が、辺りの壁に木魂しつつ鳴り響いて来た。その音の波は、ヒタヒタと肌に押しよせ、毛穴から入って来る。そして、体がジーンと溶かされて行く。基督教聖公会の気持も、この本場の気持を味ふこと、そしてその神を讃へる歌も亦ここで味ふのが、やはり、いいのだと云ふ気がした。
ここを出て、ロンドン塔に向った。しかし、厳めしく暗い、この城は、もはや外から眺めるだけで、惜しいことには中に入って見れなかった。時が時で、遅過ぎたからだ。
それで、グルリと城の回わりを歩いて回り、近くのThames川を渡って見た。冬雨に濡れたこの川の眺めは、ひとしほであった。ここの橋は、下を船が通る時は、釣上げられるようになって居ることとは、既に名高い。しかし、川水は、ここのも濁って居る。
明日は、もはや、この地を去ることになって居る。深い思ひに沈みながら、ジット立って、暫し川面に見入った。
奥山さんに、うながされ、我れに還って、車に乗り、日航事務所に引かへし、夕飯を支那料理屋でとることにした。初めに行った店では、食べたいものだけ食べさせず、ほかの物も取らなければならないと云う嫌やな仕組になって居たので、そこを出て、ほかの店に行って食べた。日本と同じに、西欧には何処にでも支那料理屋がある。そして多くのその国の人々が入って食べて居る。油っこくて、彼等、北の寒い所の人々には向くのだらう。
そこを出て、再び日航事務所に行き、奥山さんに、今までの数々の心深いもてなし、扱ひに向って、いささかの御返しとして、絵を贈って、別れを告げた。
その前に、明日立つことに就いて、東郷さんから色々と飛行機の手続をして頂いた。これも、奥山さんを通して、厚く言葉を取次いでもらうよう頼んだ。
私が、心から良い気持で日を過し、最もこの国の人々を好ましく思ふようにさせて下すったのは、ひとえにこの二人の方のせいである。このことは、私が世を終るまで忘れないだらう。
翌朝早く、同じ家に泊って居る日航の人の車に乗せて頂いて飛行場に行き、パリに向って飛び立った。
Paris
ベルリンの田中ミチ子さんから頼まれて持って来た重い楽譜の束がある。それは、ユネスコの或る男あての物だ。この男に、飛行場まで来るよう、前以って奥山さんに頼んで、パリの日航、大使館を通してテレタイプしてあるのに来ない。困った奴だ。
私はAirFrances機で行ったので、日航の人は言ふまでもなく誰一人として顔を見せない。困ったことになったと思って居ると、たまたまエア・フランスの日本の人が出口の所に居た。この人は、気のいい江戸っ子で、わざわざ宿まで送って呉れた。乗合車がないから、宿までタクシーだ。宿に着いたので、ねぎらひとして、コーヒーを飲んだら、バカ高い金をとられた。これらのことで、初っからパリには、いい気持を持てなかった。
荷物を置いて、ただ一人で、Louvre美術館を歩いて見に行った。すると、背の小さい日本の女の人が、これもためつすがめつして絵を見て居るのに、出っくはした。それで、ツとそばに寄って話しかけると、北大出の亡くなった篠原と云ふ後輩の奥さんで、今、長崎大の先生をして居り、こちらに留学に来て、大使館に勤めて学資を得て居るとの事だった。まことに気の良い真面目さうな人なので、この人と共に、色々絵についての話をしながら見て回った。
昔しから名高い色々の絵、それは絵画史に載って居るものを、今、この目でそれを見るのである。しかし、凡てが思って居た程でないので、むしろガッかりした。Milletの「落穂拾ひ」、「晩鐘」、「春」なども、彩りも、それ程でなく、心に迫るものがない。しかし、そのなかで、ただ一つ、Leonardo da VinciのMonna Lisaだけには、強く心を引き付けられた。その崇かさ、気品、神秘さは凄いものだった。しかし、その空の緑、髪その外の濃い赤紫、顔の色などは、皆、東洋的な色であった。
だからこそ、神秘的な色であることが解った。その構図、言ひ知れぬ妙へなるほほ笑みも、ありのままで露はである西の国の人々の笑には、まれである。私が、ロンドンで道を聞いた若く美しい女の人が、その教へてくれた道筋が私に解ったらうか、どうかと思ってしとやかにニンマリした時に、これと全く同じ顔つきをしたので、ハッとして、ジッと見入ったことがある。造園学を専らやって、その基として、速見御舟の数へ子について、本格的に東洋画を習った私の、この見る目は、恐らく狂ひがないだらう。とにかく、この絵は≪東洋の神秘≫である。このことは、敢へて手前味噌ではないと思ふ。だからこそ、西の国に少いので、余計に心引かれ、そして讃へられて居るのでなからうか。
凡ての芸術は、東から西へと伝はって、それが、新らしく装はれた。そして科学も宗教もさうだ。新渡戸先生は、それらが東に還って来て、そして練り直され、再び西に伝へられるべきだ、そして、この時こそ真に、この地上が救はれる時だと言はれた。
私は、さうあって欲しいと心から神に祈る。私は、こんなことも篠原さんに話しながら、そこを出て、次は近代美術館を見に入った。ルーブルは日曜は入場料をとらないが、ここは取る。ここでは、Picasso,ドラン、ブラックの絵や、抽象派のものを見た。抽象派の絵は造園にも響いて来て居るが、これは真の抽象ではないような気がする。それはバラバラに分解された心の痛手であり、今の世の人々の心であると思ふ。これは、Schizothymの持主の集りのように考へられて仕様がないが、いったいどんなもんだらうか。芸術は、凡ての人々に解るもの、そして楽しくさせるものであって欲しいものだ。ある僅かな限られて居る人々にだけ解り、それを楽しませることにのみ、芸術家は骨折ってはならないと思ふ。皆のお蔭を蒙って生きて居るからだ。
近代美術館を、そこそこにして出た。篠原さんの話では、もっと安い良い宿があるとのことで、そこに、わざわざ伴って行って掛合ってくれた。それで前の宿に引きかへして出る話をすると、僅かに三時間荷物を預ったきりで、未だ室にも行って見ないのに、どうしても一日分の宿料をよこせと言ってきかない。何としても埒が明かないので、そんなら一夜だけ泊ることにしようと云って、その夜はヂャンヂャン湯を思ふさま使って風呂に入り、グッすり眠った。そして、朝早く、わざわざ迎へに来てくれた篠原さんに荷物を持ってもらって、金を払って出ることにした。しかし、余りのことに、気を悪くした私は、紙切れにフランス語で「王様のような取扱ひをされた。間抜!!!」と書いて、帳場の男の奴に渡して、スーッと外に出た。すると、そ奴が、後を追っ駈けて来て「間抜!!!」だけは日本語のままローマ字で書いたのを、篠原さんに示して、「これは何か」と怒って尋ねて居た。篠原さんは、暫く首をかしげて考へ込んで居たが「どうも、解らない」と答へた。すると「警察に訴へる」などと、飛んでもない事をぬかす。それで、たまりかねて、町に響くような大声あげて「バカ野郎!!!」と、どなりつけ、柔道の身構へをした。すると、この野郎は、文字通りに、上に飛び上がってビックリし、後をも見ずに、一さんに逃げ走り去った。ザマ見ろと許り、二人はゆっくりゆっくり歩いて、昨日話しておいた宿に向った。どうして「あの言葉が、解らなかったのか」と、道々篠原さんに尋ねると「私はあんなフランス語は、知らない」と、真顔になって答へる。思はず私はプーッと吹き出した。真面目そのものの、この人は、ローマ字で書いてあったので、フランス語だと許り思ひ込んで、フランス読みに読んで居たのであった。ようよう解って、笑ひ出し「これでは私まで間抜けの類ひだ」と云ひ、二人で大笑しながら、新しい宿に入った。荷物を預けたまま、外に出て、Versailles宮殿を見に行くことにした。
地下鉄に乗る為に、そのコンクリートの潜り道を行くと、冷い床に坐って盲の楽人が、ギターを弾いて居る。またしても、話かけると、生粋のフランス人で、戦の為めに盲になったのだと云ふ。顔のアザから見て、さうかも知れない。それで、私は日本人だ、どうかフランス国歌を、やってくれと頼むと、彼はニコッとして、キッとなり、頻をほんのりと赤らめ口を強くつむりながら、勇ましい調子で、ギターを弾き出した。恐らく、彼が戦の場で、突撃した時のことを、心に描きながら弾いて居るのかも知れない。さすがに、道行く人の足取りも正しくなり、緊った気分が、あたりに漂ふのを覚えた。私はホロリとした。
私は、華やかな舞台の上で、タキシードを着込んで唄ふ作りごとの芸術なるものを余り好まない。月夜の山の笙の音、嵐の中の尺八の響、かう云った大自然の中における楽を、その大自然と共に味ふことの方がより好きだ。地下鉄でヴェルサイユ宮殿のある所に行き、それを見た。名高い鏡の間を初めとして、そのほかの室が、余りにゴテゴテした虚しい飾りに満ち満ちて居るのに、ホトホトあきれかへって、ウンザリした。余りに、子供だましで馬鹿気て居る。秦の始皇帝の造った阿房宮といふのが、恐らくこんなアホーなものだったに違いない。
これを作る為に、パリの人々は明日食ふパンもなくなり、そのことを訴へると、王妃のMarie Antoinetteは、「パンがないなら、お菓子を食べたらいい」と答へたので、たまりかねた人たちは怒りに燃えて、この女をguillotineにかけたと云ふ。その刑き場に行く道で、人々からいくら罵られても、顔色一つ変へず、彼等を侮り切った顔をして冷やかに流し目をして居たとのこと。
このように、上に立つものが、余りに道ならぬことをするから、革命が起きるのだ。
ところが、篠原さんから聞くと、今もフランスの貴族は同じだと云ふ。篠原さんが、フランス料理の研究をして居るので、ある貴族の邸に手伝ひに行くと、そこの夫人は、マリ・アントワネットの血を引き、ある若いカトリックの神父を色男にして、邸が広いので、彼を泊めて乳くり合ひ、夫の子爵は、これまた色女を引き入れて泊めて居り、その乱れただれ腐れ切った臭ひが鼻をつく許り。そこの夕飯に招かれて、ド・ゴールがよく来るとのこと。
たまりかねた篠原さんは、息抜きに南のPyrennes山脈の方に旅した。そして国に帰える時のみやげとして、古い値の高いブドー酒と、持って行った日本の真珠とを取り代へて、幾本かのブドー酒を持って帰った。すると、その崩れた夫人は、無理やりに、その二三本を、しつこく言ひ迫って、しかもタダで巻き上げたと云ふ。
そのほかに、いとまをして、昼過ぎに、この邸を出ようとするとそれまで居た幾日分かの手間の外に、その日の分としてカッキリ半日分を出したきりで、何のこともなかったとのこと。手間も、見習ひ手伝ひだったので、並の十分の一にも当らぬものだった。向ふでは、ド・ゴールが、わざわざ呼んで、褒めた程、料理がうまかったし、金がかからないので、もっともっと居てくれと、繰り返し繰り返ししつこく頼まれたが、身震ひする程、いやになって居たので、サッサと引き上げて、再び大使館に戻ったとのこと。
これが、フランスなのだ。私は言ふべき言葉がない。それで日本を出る時に頼まれたド・ゴール宛の大きな人形も、奉ることなどはホトホトいやになって、勝手に独り決めで、またまた荷物のなかに仕舞ひ込んで、持ち帰ることにした。お蔭で、この人形は私と共に西欧を見て、日本に安らかに戻ることになり、今は愛する教へ子の世界的マイクロ波の権威の押本愛之助工学博士の居間で、ニコニコして居る。
さて話は前に戻るが、ヴェルサイユ宮殿の庭は造園学上、かなり名高いものだが、目の当り見ると何のこともなく、従って何の得る所もない。中学生が、三角定規やブン回しで、色々勝手なイタヅラをしたような、たわいのないものに、私は何の心も引かれなかった。私にとっては、頭の先だけで、あれこれと、こね回し、こづき上げる西欧芸術の迷路は、もう沢山だ。
ヴェルサイユから帰り、篠原さんの言葉によって、百貨店で毛糸を子供と妻の見やげに買った。フランスでは、何も買ふ程の物はないのだ。ただ、太糸の毛糸だけは、日本で買ふとバカ高く、編上ったものは、一つ一万円だから、これだけは、こちらで、安い糸だけ買って行くと宜しいとのこと。今まで何一つ見やげらしい物を買って居ないので、これを買ふことにした訳だ。わびしい旅だ。
次の日は、NotreDameの院に行ったSeine河の畔に、静かに古めかしく建って居る。この河も、冬だと云ふのに真黒に濁って居る。造園を専門とする私にとっては、自然についての目が、なれっこになって居るせいか、ここ許りでなく西欧の自然や建物については、何も心を引かれるものはなかった。西欧ばかりでなく、この旅で経て来たアジヤの国々でも、さうだった。従って持って行った写真機に心を入れて写す気にもなれなかった。凡ての物、その物よりも《心》が美しい。
ノートル・ダムの寺院の、石床は八百年の靴ずれの為に、窪んで居た。ステンドグラスの仄かな光のなかで、灰色一色に塗りつぶされたなかで、悲しい葬が、行はれて居た。そしてパイプオルガンの音が、あたりに立こめる香の煙のゆらぎに交って、鳴り響いて居た。
厳かで、ほのぼのとした神への祈の楽、その《祈りの楽》が、西欧の楽の基である。私は、この身を持って、身を浸し切って、このことを身に覚えたのである。それは、やはり環境と共なるものであって、西欧の地を抜きにしては得られない気持である。芸術は凡て人と環境から離し得られないものだ。
彼ら西の人々の心は、神への祈り、神への賛へであって、神とは遠い遠い隔りがある。
これに比べて、我らのは、神の内にあり、神と共に喜びえらぐところの身近かにあるものである。「神、我れに在り、我れ神にある」ことを、身を以って行はんとするものが、東である。
この大きな東の救ひの使命は、今、既に忘れ果てられ、埋れてしまってゐる。ヨハネ黙示録に予言された言葉を、真事にする日は、いつの時か。《光は、東より》の言葉よ!!!生きよ!!!
私は、ここの掛りの人から、ようようこの国の作曲家で名高いMessiaenの居所を聞くことが出来た。これは大使館に問合せても「色々探したが解らない」とのことだった。何んでもないことでそれに音大(コンセルワトワール)に聞けば、直ぐに解ることだ。大使館は政治とは関りあるが、文化とは何の関りも持たぬものであるまいが、代議士や高官への、お仕へに忙しいので、文化にまでは手が回らぬらしい。
フランスの牡蠣料理が、名高いので食べようとしたが、高い許り高くて、少しもうまくないとのことで、パンと鮫の子の数子の缶詰を買って来て、宿で昼飯にした。フランスパンフランスパンと云って日本では騒ぐが、味はそんなに変らない。一と切れを日本まで持帰って、人々に食べさせて見たら、やはり、同じことを言って居た。大方、昔、まだ日本のが、今程にならぬ頃には、さう思ったのだらう。
それから、電話で、明日朝八時に音大で逢ふとの打合せを、メシアンとして、その昼の一時に飛行機で、いよいよ日本に帰る手続をしに、日航事務所へ行った。なかなか解りにくい所にあるので、探すに骨が折れた。
予め知らされて居た島村さんと云ふ人に逢って、宿その外のことで色々とひどい目に、出喰はしたことを話したら、いい人で、日航の手落ちの為が多いことを解ってくれて、色々と償ひのことをしてくれた。心から有難く思った。
それから、名高い凱旋門やChamps-Elyseesの通りを、ブラブラ見て歩いた。シャンゼリゼーは、人の歩く所が、日本の幾倍もあって広く、車の通る道の方が、むしろ狭く見えた位。その事が目立った丈で、軒並の店は、それまで見て来たものと、余り変った所がない。やはり、来て見れば噂ほどでもない。
宿に帰って、例の楽譜を早く渡さねばならんことを考へ電話したが、会議中とのこと。たまりかねて、夜遅く十時過ぎに、また電話すると、只今、飯を食べて居るから、後程伺ふとのこと。ジリジリして来たが、こらへた。この人が勤め人だからと思って、ワザワザ日曜を選んで、ロンドンを無理して出たのだ。それに大使館を通して、既に幾度となく話してあるのに、ウンともスンとも言はぬ。おまけに、私が明日帰ることが解って居るのに、まだ放ったらかしだ。どうせ、ユネスコあたりに居ながら、作曲などして居る男だから、パリ気分で、すっかりタガが弛んでる男に違いない。この作曲も、田中ミチ子さんを通して、ドイツでやってもらいたかったのだが、テンで物にならんので、私に持って行って返してくれとの事だった。変に前衛がかったものだとのこと。私は拡げて見もしないから、よく解らない。
とにかく、えらい荷厄介なものを、ひき受けたものだと悔いても後の祭り。私は明日朝八時にメシアンに逢ふので、疲れ切って居る体を、早く休めたい。ジリジリしてゐると、十二時近くになって、やっと、その男が来た。そして、有難うとの言葉一つ述べずに、サッサと帰らうとした。ところが、日本の女を一人連れて来て居た。こ奴が、室に入って来るのに、オーバーを着、帽子を冠ったままで頭もさげずに、ツッ立って居る。オーバー着たままなことは、男も同じ、頭さげないのも同じ。
ドイツや、イギリス、そのほかの国で、礼儀正しくされて、それになれ切って居た私は、フランスに来てからの、いやな事ばかりに気を詰らせて居たせいもあり、たまりかねて「バカ野郎!!!」と、イキなり大声で怒鳴りつけてしまった。
あはてた二人は、蜘蛛の子を散らすように背中を丸くして、家を飛び出して、通りを一さんに走って逃げ去った。重い荷物も、これで片付いて、セイセイした。すぐに、寝床にもぐり込み、グーグー眠った。
明る日、早く起き、車で音大に駆付けてメシアンを待って居た。八時は愚か、九時になっても、彼は姿を現さない。やっと来たと思ったら、サッサと教室に入って行って講義を始めた。そして、三時間たって十二時になっても、それを止めない。私は、まだジリジリして来た。もうあと一時間の後には、飛行機に乗らねばならない。止むなく彼を呼出して、仕方ないから持って行ったテープを凡て渡し、講演の原稿を渡して、代りを頼んだ。その礼として、絵そのほかの物を、とにかく忍んで与へた。物を貰うと、チョッと有難いような顔しただけ。
彼は、鳥の鳴き声など許り調べて居る男だから、変った男だとは思って居たが、やはり、鳥仲間で、人の声は余り解り兼ねるらしいとのこと。そして、後で聞くと三時間も、今か今かと思って待たせられたのは、私ばかりでなく、野村良雄芸大教授も、さうだったとのこと。後で日本に帰ってから、二人で大笑ひした。
しかし、この時も、メシアンに、危うく例の三度目の「馬鹿野郎!!!」を、どなりたくなったが、日本音楽の為と思って、下腹に力を入れて、こらえた。
島村さんが、頼んで下すった車の運転手は、飛行場に行く時間が遅れるので、これまたジリジリして待って居てくれた。私の顔見るとホッとした様をした。フランスで、ただ一つの、誠心を見たような気がして、私はすっかり気持をよくした。宿により――この宿では始めの言葉通りの泊り代でなく、倍近く高い値で、全くウソをつくのがフランス人だとの事を知らされた。掛合っても埒明かない。急ぐので、そこそこにして、日航事務所に駆けつけると、何んと、夕方まで飛行機の立つのが延びたとのこと。仕方なく、事務所の待合で、時を待った。
そして、再び先程の車に乗せられ、飛行場に行った。少し多く、手当てを運転手にやったらニコニコして居た。そして電話で、大使館に電話し、篠原さんに厚く礼を述べ、そしてユネスコの男に、日航に償ひ金を出させてくれと頼んだ。
荷物は、重かったので、飛行便だと一万円より上かかるのだ。だから、その分を、日航に彼が出せば、私が色々日航から世話になったのも、幾分かの償にもなると云ふ虫のいい話だ。しかし、彼奴は果して金を出したかどうかは、未だ島村さんから聞かない。
飛行機は、夕闇に包まれた、思い出悪いパリを下に見て、北の極を目指して飛び立った。
榛原さんや島村さんが居なかったら、私はただ一人きりで、或は殺されたかも知れない???。とにかく、フランス語は少しは読めるが片言しかシャベれない私だ。だから、それが英語も独語も解らない誇り高くして、そして悪の華咲くパリに乗込むことは、危いのであった。先づ、生命に障りなく帰れたのは、倖だったかも知れない。
Copenhagen
飛行機は、北極を通って、まっすぐ日本に帰る筈だった。所が、北極は烈しい冬の風が吹き荒れて居た。それで飛行機は前に進むことが危くなり、コペンハーゲンに立寄ったまま、ここで一夜を明かさねばならなくなった。
お蔭で私たちは、ここの町を見ることが出来た。古めかしい街々を通って、宿に着いたが、この宿は二十何階かの新しいものだった。食堂は、珍しくも、日本の格子や障子、壁間などの様の美しい所を採入れられて居て、然も気が利いて居り、灰抜けして居た。建築においても、西洋の真似ばかりして居る日本にとって、良い見せしめとなる。日本は、いつの世でも幅広く、押しよせてくる文化を採入れて、それを良く噛み砕いて、良い所だけを採って用ひた。然るに、今は心に於いても、物においても、凡て己を棄てて、鵜呑みにし、その奴隷になってしまった。
この宿の各々の室の寝床は、壁に巻き上げられるようになって居た。それで常々は広く室を使へるのだった。そして、何んとなく無様な汚れた気持が湧かない。これは良いことだと思った。日本の列車では、これを行って居るが、宿でこれを使って居る所は、余り見ない。
私は、造園をやったので、建築のことについても一通り学んだ。そして西の国々を歩き回って、出来るだけ、気を付けて見て歩いたが、これはと云って目星しい物はなかった。そして恩師前川博士が申された通り、そこで暮して見ると、ただただ次々と不便さを身にしみて覚えさせられるだけだった。
明る朝、飛行場に行く車のなかから、街々の様を見た。すると、四辻に大きな時計が、殆んどあるのが、目についた。それから街を離れて、飛行場に行くまでの間の田舎道から見ると、あたりの畑の土が、これまで通って来た国々と違って色が深く、有機質に富んで居ることが珍しかった。さすがにDenmarkだと思った。従って、ここからは、良い麦や野菜が出るし、人々も地について、しっとりと落ち付いて居るよう、心なしか思はれた。天地と、ピッたり付いて居る人、それは農漁村の民であらう。そして、日本は今、この自然を離れる向きにのみ力を専ら注いで居る。これのみが、生きる道だと心得て居るようだ。不作や不景気が、必ず、この世に来ないものなのだらうか。
飛行機が、飛立つ時まで待って居る間に、ある大阪の会社員が、日航の掛りの人をつかまへて「こんなにして、日本に着くことが一日遅れたので商ひに差支へが出来た。その償ひを、どうして呉れるか」と、口ぎたなく掛合って居た。私は、大阪人のエゲツなさに、身震いした。そして「その金は、北風が払ふから、彼氏に掛合ひ給へ」と、危く叫びかけて止めた。日航の人は、くどくどと話して、あやまって居たのは、気の毒だった。
これは、パリで聞いた話だが、日本の女の留学生と称へるものが同じ寮に多く居るが、そのうちポツリポツリと姿を消す。そして、いつの間にか、夜の街角に立って居るとのこと。物の値が高いので、僅かの留学費ではどうにもならない。それで夜、淫をひさいで金を得て生きねばならない。彼女らは、かうやって、口をぬぐって、フランス帰りとして華かに日本に帰って来るのだ。
そして、しかも昼ひなか、私の目の前で、この商談をフランス人として、肩を抱かれながら、あらぬ宿に入って行く、日本女を見て怒りと悲しみとに気が狂はん許りだった。金、金、金、それが人の世の凡てか。
若い人々よ。君等の母、姉、妹が、このように、汚されて行くことに向って、怒りと悲しみとに打ち震へないか。
私は、日本に帰って来て、直ちに、この事を、参院自民党予算委員長をして居られる湯沢三千男氏に訴へた。物の奴隷となった日本は滅びるだろう。自然を失なった日本は滅びるだらうと。
そして、コペンハーゲンまで来て、再び、物の奴隷を、ここに見たのである。言葉なしだ。
やがて、飛行機は飛立って、昼であるのに真暗になって行く、冬の北極の真上を通って行く。この機のなかで、ある男と話した。彼は外国語は少しも話せない。そして和装した妻を連れ、外国語を少し話せる秘書を伴って居た。彼の為に、日航の人々も大使館の人々も、山ほどの見やげのトランクを、いくつも持って、恭々しく、かしづいて居た。やはり物の王様である。彼は秋田弁で「日本は五百年遅れてマシネ。君、スッカリ、ス給へ!!!」と、事もあらうに私に向って叫んだ。私は、だまって、この男の顔を睨みつけたら、下を向いて居た。こんなバカは、一升瓶に一斗の水を入れようとするに等しく、下手に注ぐと爆発して、粉々になるから、物を言ってもムダだ。バカはバカなりに、使ひ道があるかも知れん。
それから中央大学の法学部長の朝川伸夫教授と色々な話をして面白かった。私が、今の民法の家族破壊主義は、米ソの日本を滅さんとする為のもので、けしからん。人もし精神分裂に陥ったら、それはもはや、当り前の人として扱へない。それは家でも国でも同じだ。統一が要ると述べたら、同じ考へだと言って居たので大いに意を強くした。それからドイツの話に移ったら、朝川教授がドイツ人が敵となった国の者に向って、Kriege gewonnen, Friede verlorenとあてこすりを言って居るのは面白いと云って笑って居た。
Anchorageから日本へ
飛行機は乗る人が少ないので横になって眠ると、次の朝早く、AlaskaのAnchorageに着いた。雪で寒かった。暫く、ここで休んで、まっすぐ、Aleutian列島を下に見て、美しい緑の海と、日の光に目覚める心持して、日本に帰り着いた。思へばアルプスを越してから五十日近くを経て、始めて日の光を仰いだのである。まことに、日本は日の国であった。
羽田に着くと、税関では、私にタイプライターの蓋まで開けさせて調べる。その上に無理に閉ぢたので、機械を毀された。そんなことには、蛙のツラに水だ。そのくせ、前に述べた物の王様のトランクは、調べもせずに、傍を幾つも幾つもスイスイと通って行く。これを見て見ぬふりして居るのが、日本の御役人様根性と云ふ奴だ。小魚は引っかけ、大魚は網を乗り越ゑて逃れる。これは昔からの悪い根性で、今だに直って居ないたちの一つだ。
愛弟子の押本博士、上垣侯鳥画伯、妻らのニコニコして迎へてくれたのに逢って、ホッとして二ヶ月の旅の疲れが、一時に出たようにグッたりした。やはり、その間はひどく気を張って居たことが解った。
次女が盲腸の手術で入院して居る由、そして、私が疲れて帰って来るだらうから、病院に来ずに、ユックリ家に帰って眠るようにと言って居たとのこと。ホロリとした。
押本工博が自ら動かしてくれる車に労はって乗せてくれた。道半ばで、車を止めてもらひ、湯沢三千男氏に、只今何事もなく安らかに帰ったことを申し上げて、再び車で川崎まで行き、そこから電車で、上垣画伯や妻に伴はれて家に帰り着いて、グーグー二日の間眠りこけた。
そして起上って、湯沢三千男氏の邸に伺ひ、世話になった石油王の出光佐三氏の所にフランスから持って来た葡萄酒をみやげにして共に行って頂いた。その帰りに「何が食べたいか」と云はれ溜池の米大使館横の静かな料亭で夕食を奢って、労をねぎらって下すった。その時に、例のウヰーンの最高学会のグラーフ博士を始めとして、ドイツの各音大を唸らせた美しく気品高い声で、ドドイツ、そのほかの唄を歌って、私を慰めて下すった。私は、その厚い御情けを今も忘れない。恐らく、死に至るまで、このことは忘れないだろう。そして湯沢氏は、今年の二月、今はの際はに、私を枕辺に呼ばれ「君はどの男が、どうして、この世を逃がれ避けて居るのか、私には解らん解らん」と叱り、口説き、励まされた。嘗って内務大臣になった時も「私で出来ることは何んでも致してあげる」と言はれ、私は、何も望まなかった。禅を教へて差上げた元首相林銑十郎大将も、同じことを言ったが、その時も何も望まなかった。私は先師盤竜禅師の教への通り、名利を望まなかったのである。
しかし「英雄頭を回せば、これ神仙であるが、神仙、頭を回せばこれ英雄」だ。湯沢氏の御言葉通り、風向きによって起ちあがる時があるかも知れない。それは神のみが、与へ給ふことだ。
とにかく、日本に帰って来た許りの疲れて居た時に、情けを掛け慰って下すった方々には、心から御礼を申し上げたい。
然るに或る人々たちは、何も言はぬ先から顔見ただけで「わしもヨーロッパに行けたが、また語学の忘れてるのを思い出したり、色々な下拵へが煩しいから、そんなツマランことは止めた」とか「君の見てきたよりも、もっと多くの事を、行かなくても知ってるよ。バカでないからね」とか「何しに行って来たんだ。ムダ金つかって何の足しにもならないではないか」とか「ほかの国のことなど聞きたくもない。己れのことで一杯だ」とか「変に愛国屋になったり、日本を蹴なして貰ふまい」とか、「音楽などと云ふクダラぬ、ウルサイ物は要らんよ」とか、「よくもよくもクタばらずにまた生きて帰りやがったもんだ」とか、そのほかありとあらゆるトンでもない言葉を持って私を目の敵にし、辱かしめ、痛めつけ、意地悪く押へつける。余りのことに、私は東京を去って、古里の老いた母のもとに暫く身を逃れた。そして、旅で得たことを、独り静かに考え直し考え直して、心を先づ整へることが要るのであった。
その間に、私の事を気遣って、心から慰め懐かしい母校の北大の楡の森でも見たらと呼んで下すったのが、岡不二太郎教授と吉本千禎教授とであった。
今時、こんなにして私のことを考へて下さる方はないのだ。人は皆、己れの殻にだけ閉ぢ籠って、ホンの僅かの外から与へられる事も重荷として払いのけるのが常だ。なかには前に書いたように、私の顔を見た許りで、早くもシンが破れると云ふ、タガの弛んだ弱助さへ居るのだ。その多くは、ゴルフ、マージャン、自家用車、飾りピアノ、飛行機、酒、女のただれ切った煙のなかで夜昼を、明かして居る浮かれ者たちである。
私は、これらに向って言ふべき言葉が、今見つからない。やがて行をもって、ガンとして示す時があるだらう。
今、維摩は、方丈の室にあって、深く輝定に入り、十方の仏を見て居る。
(昭和二年農学部卒)
発行所:北大季刊刊行会
発行日:1963年12月1日
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