禅と武士道(一) ~高橋空山~
生物は生物学が示すやうに、種と環境とによつて独特の特徴ある進化をなすものであるが、わが日本民族の如きも、種なるたぐひなく勝れた種族と、環境なるうるはしい国土とによつて独自の進化をなしてきた。その進化過程は、もつとも自然であるから、典型的であり、よき軌範であるといひうる。武士道は、この自然な民族発達のうちにかもし出されたもので、これに強く烈しい刺激をあたへたものは禅であり、また禅の影響をふかく受けて形づくられた宋学である。
武士道といふ言葉がつかひ初められたのは戦国時代からで、その前は、弓矢の道・弓馬の道・軍の道・武道などとよばれてゐた。これらの言葉がしめすやうに、武士道とは、武によつて始まり、武によつて養はれ培はれた道なのであって、それが政治に、日常生活にと及ぼし、また広げられたものなのである。だから、いろいろな武士道における徳目は、理論によつてつくられたものでなく、おもに戦場で実際に武を発揮してゐる間に得たものと、戦に出るための準備としての平生の生活からうまれ出たのである。武を行つた倫理のみをとりあげれば、それは、農民や町人の倫理とすこしも違ふところがない。だから、倫理のみを説いて武を説かないのは、武士道を説くといひえない。
それで本書ではまづ武備をいひ、つぎに文事すなはち倫理其他の精神を説くことにした。
一、武による歴史
武を説くに当たつて、あらましではあるが、ザツと武による歴史をかいてみよう。
わが国の武の起りは、とほく神代にこれを求めうる。
素戔嗚尊が高天原に登られた時、天照大神は男装をなされて、これを迎へられたと言ふ。このときの天照大神は、外に
武魂を現し、内に文魂を保たれた。
これが、戦時における態度であり、平時においては、これと逆
に、外に文魂を現し、内に武魂を保つのが、武の道であるとせられてゐる。そして、武は公のためになすべきものであつて、いたづらに私のためになすべきものではないことをこの時ふかく教へてゐられる。
また、武甕槌神が、天照大神の勅をうけて、出雲にくだり、刀に血塗らずして、大国主命に、国土を返上させたのは、「戦はずに人の兵を屈す」といふ、兵法の善の善なるもので、まさに武の極致である。
それから、神武天皇は禊をされて心身を清らかにせられ、東征に出でたたれたが、これは清き心が武の第一歩の心構へであることをしめされたものである。
また、崇徳天皇は、四道将軍を遠く遣はし四方を平らげさせられたが、その御子孫は各地において武と文との中心となられた。
そののち天下は太平になれ、中央政府の武力が衰へるにつれ、地方の豪族が勢ひをえたが、日本武尊の武徳によつて、たいらげられた。一方外においては、武内宿禰たちが、朝鮮をうつて、これをしたがへたが、その後たびたび反するので、神功皇后は、天照大神にならひ男装し、九州軍を率ゐさせられ、一挙に三韓をほふりたまうた。かくして幾度もの外征によつて、九州のものたちは武に勝れるやうになつた。
そして九州防備軍のうちで、めだつて強く、たとへ額に矢が立つとも、背には立てさせぬといつたのは、勇敢無比の東国のつはものたちだつた。かれらは、つぎのやうに歌つてゐる。
天地の 神をいのりて 幸矢挿き
筑紫の島を 指して行く吾は
今日よりは かへりみなくて大君の
醜の御楯と 出で立つ 吾は
大君の 勅かしこみ 磯に触り
海原わたる 父母を捨きて
しかし、外征によつて、功を立てた武内宿禰の子孫なる蘇我氏は、大蔵大臣と偽つて、財政を握り、おほいに奢りに耽り、淫靡であり華美な百済仏教を移入し、土木を起し大寺院を造るに至り、中央政府の財政は枯渇して行つた。このとき、中大兄皇子は中臣鎌足と謀り、南淵請安から建国の精神を聞き、つひに蘇我入鹿を切りすて、大化改新を行はせられたが、あとで此の制度に不平な僧侶や地方豪族どもがおしくも元に還してしまつた。桓武天皇はこの弊に堪へたまはず、都を京都に遷された。このころ蝦夷が度々叛したので、坂上田村麿をつかはして、これを討たしめたまうた。
そののち大化改新に功があつた鎌足の子孫の藤原氏は、朝廷に勢力をふるつたが、次第に文弱にながれ、治安に必要な武力をかくやうになり、国司は地方をおさへる威力もなく、かへつて豪族にへつらひ、これと結んで私腹をこやし、奢侈にふける材料とした。なかには任地にそのまま永住するものや、初めから任地にゆかず、不労所得をむさぼる国司さへ出てきたので、国家統制がみだれ、各豪族は自衛手段をとらねばならなくなつた。
ここに源平二氏がでて、武力をもつてかれらを従へた。しかし平氏は、藤原氏のやうに文弱にながれ、つひに源氏に亡ぼされるにいたつた。源頼朝は、大江広元の説にしたがひ、政所をおいて内務外務をあつかはせ、問注所をもつて司法をつかさどらせ、朝廷との間には議奏をおいて文弱な公卿をおさへた。これらは武士一流の直截簡明な政治精神をもつて処断した。そして鎌倉においては、将士の数をかぎり、邸宅を区劃し都市集中主義をふせぎ、地方の市関をひらき、商業を盛んにし、開墾をし灌漑をよくし、郷倉をまうけ不時にそなへ、道路をつくり駅馬制をあらため、港をまうけるなど、商業開発につとめ、ひたすら華を去り実に就いた。この実用主義のために、その後おこつた大地震・風水害・大海嘯に堪へることができたのである。
しかし荘園をうばはれて、贅沢ができなくなつた公卿・僧侶たちは、強いて後鳥羽上皇を擁したてまつり、鎌倉幕府をうたうとした。このとき北条義時は、泰時にむかひ「玉輿にあつたら、冑をぬぎ弓の弦をきり、身を下吏にまかせよ。公卿が軍を率ゐてゐるなら、一蹴してしまへ」とをしへてゐる。
ついで泰時は、僧侶の横暴をこらすため、その策源地である興福寺の地領を没収して、財政的にゆきつまらせる工夫をした。この義時・泰時は、ともに栄西禅師の法嗣の明慧上人にふかく帰依して、その教へをうけた人々である。
なほ北条時頼は、中原親能の説により、座して食ふため荘園を有し幾多の政治上禍をうんだ在来の仏教を排し、新輪入の自力主義で生活してゆく禅宗と、禅僧が持つてきた栄学とを採用して、文教にあてた。また自らも出家して道崇ととなへ、全国を行脚して善政をしいた。
現実に重きをおき、実用主義であり、書物を通してではなく、会話によつて、ただちに道をといた禅は、兵馬倥偬の間にある武士にとつては、もつとも手取りばやい宗旨であつた。また、禅は精神はもとより、生活さへ、一日働かざれば一日食はずといつて田畑を耕し、自力主義をとつたから、戦時にも平時にも、自力で行つた武士には共鳴せられたと思ふ。
そして武士が天下ををさめるにあたり、もつとも要求されたものは政治理論であつた。これを満すものとして、かれらの心に、共通点を多くもつ禅と宋学とがえらばれたのは当然である。かくして実行力のある彼等はただちにこれを実践にうつし、いはゆる鎌倉時代の質実剛健な政治と生活とを、形づくつた。宋学は、鎌倉や京都の五山の禅僧が、教へ広めたが、有名な足利学校などもほとんど教師は禅僧だつたから、武士にあたへた影響はもつて知るべしである。
この禅と宋学とによつてやしなはれた典型的鎌倉武士は北条時宗である。かれは元兵にかこまれて、「珍重す大元三尺の剣、電光影裡に春風を斬る」といつて、自若として首をさしのべたといふ祖元禅師の教へをうけ、元の使を斬りすて戦を宣した。このとき幕府は、たとへ神風がなくとも元軍をうちやぶるべき武力と財政とをそなへてゐたいといふことである。
しかし元寇の役に用した思はぬ莫大の軍事費とその後の防衛費のために、幕府の財政は次第に不如意になり、その上に地震・凶作・海嘯が相継いで起り、税を多く賦課したため地方財政も大いに疲弊していつた。あまつさへ北条高時はおごりにふけつたためつひに地方制度が乱れ、豪族がここかしこに起つて、幕府をたほすにいたつた。
ここにおいて、後醍醐天皇は王政復古をなされたが、公卿が藤原時代を夢みて、領地を多く私有し、実際にこの事業にあたつた武士がかろんぜられたので、武士は鎌倉時代をしたつて、足利尊氏を擁し、ふたたび武家政治にかへしてしまつた。
かやうな時代だつたので、中巌円月禅師のごときは、文武両道をもつて政治の要諦とすべきだといつて、文弱な公卿と、道をわすれ武にのみかたよる武士とに警告をあたへてゐる。また法灯国師の法孫たちは南朝の武士と行動をともにし、京都における夢想国師一派の貴族禅に対抗した。この南朝の忠臣たちは、特に禅の影響をうけることが多く、楠木正成は関山国師や明極楚俊禅師につき、菊地武時その子の武重・武士は大智禅師にふかく帰依してゐる。
足利尊氏は、夢想国師の教へをうけ、「この世の栄華は、弟直義に与へたまへ、われにはただ仏道を成ぜさせたまへ」と祈つたほどであるが、順逆の道をあやまつてしまつた。義満の時になり、国民の安寧のためと思し召され、後亀山天皇は位を譲りたまひ、南北合一となつた。足利義満は通幻寂霊禅師に教へをうけた細川頼之の策にしたがひ、三管領・四探題制度をまうけ、簡明な武家政治をとつたが、これに任ぜられた者たちは、将軍の文弱につけこんで己が勢力をはり、争がたえず、つひに応仁の乱となり、中央・地方ともに、制度がくづれていつた。
将軍義政の如きも、大土木を起し幕府の建物を大きくしたり、日夜宴会や会議のみを行ひ実行力なく、いたづらに冗官を多くしたため財政が衰へ、これから後は幕府の勢ひがなくなつてゆき、世は戦国時代となつた。
このころの武将たちは、禅によつてきたへられた者が非常に多い。そのうちの代表的なものを挙げると、上杉謙信は天室光育禅師や益翁宗謙禅師に幼少のころから禅をまなび、武田信玄は快川禅師につき、織田信長は沢彦禅師・策彦禅師についてその鉗鎚をうけてゐる。ことに信長の如きは、鎌倉武士をしたひ、その行をまなんで、叡山や高野の寺院をやきはらひ、本願寺をせめて宗教改革を志す一方、一里塚をつくつて交通に便にしたり、開墾や灌漑をすすめて農業振興につくしたり、また細川幽斎を用ひて、庶政を整理し、かつ深く皇事につくしまゐらせた。
豊臣秀吉は、その志をついで、民力涵養につくし、その養子の秀次もまた田藉を定めたりして、地方制度改良につとめた。しかし、朝鮮征伐と大地震などのため、財政政策がはかばかしく行かなくなり、秀吉なき後は、それに拍車を加へ、つひに徳川家康の為にほろぼされた。
家康は新当流や新陰流の剣をまなび、その印可をえたほどで、一騎打をやつても、当時の武将中ならぶものなく、それに領内にはきはめて善政をしいた。かれは衆望によつて、天下の権をえたが、晩年は天海や林道春などの説にしたがひ、参勤交代制をさだめたり、地方税をおほく賦課して、地方財政をからし、ひたすら中央集権にのみ力をいれた。ついで、将軍家光のとき島原の乱がおこり、天主教徒を殺すこと実に三十万におよび、僧侶たちは天主教徒でない証明料をとつたり、もし近親者に同教徒があると、それに付けこんで財産をまきあげたが、結局悪銭身につかずで、そのため反つて堕落して行つた。
しかし、家光は柳生但馬宗矩とともに沢庵禅師に帰依し、別に武をふかく学んで文武両道をかね、よく諸侯をおさへる威力を具へたが、将軍綱吉は文弱にながれて、いはゆる元禄時代を現出し、あまつさへ地震・火災が打ちつづき、それに島原の乱などがあつたため、幕府の財政が窮をつげるに至つた。のち吉宗や松平定信がたつて一時は善政をしいたが、やがて武を去り文弱にふける将軍がつづき、ひたすら亡滅の一途をたどるに至つた。
一方武術・兵法は、戦国時代の実戦の経験を組織だてて、いろいろな流れが工夫され、その数が凡そ二百流にもあまる程であつたが、徳川時代の末期になると、実戦をはなれただ頭の中でいろいろと細工したものが多く、いたづらに形式や奇狂に走つて、いはゆる道場武術に堕してしまつた。
また幕府は、京都の相国寺でまなび妙寿院といはれた藤原惺窩を用ひ、朱子学を御用学としたが、この純学理的な朱子学は、武をもつてたつ武士には向かず、湯島聖堂からは三百年間ただ一人の傑物も出なかつた。これに反して、私学として民間に行はれたものには、陽明学と国学があるが、陽明学の祖なる王陽明は、将軍であり、儒をまなび、文武両道をかね、その上に禅にふかく悟入し、もつぱら己が体験上から、実行主義実用主義の学を創めたのだから、武士に共鳴されこの流れをくんだ中江藤樹・熊沢蕃山・佐藤一斎・大塩中斎等は、明治維新の志士たちに大きな影響を与へ、間接にとほく維新の原動力となつた。
別に、隠元禅師についた山鹿素行は、兵学と武士道精神を組織だて、その門に大石良夫雄があり、末流に吉田松陰をだして居り、京都妙心寺に入つて、絶蔵王といつた山崎暗斎は古学をとなへ、それに神話を加へたが、その末流は土佐の士風をつくり、維新の志士を多く輩出するに至つた。
かくて、幕府は文武ともに実用をはなれ形式にはしり、実際世間と遊離するやうになつて、精神・物質ともに行きづまつてしまつた。さうしてゐる内に、諸外国がしきりに押しよせるに至り、文字通り内憂外患となり、井伊直弼が禅的な一大断行を為すべく、内治外交に当つたが、それは夕陽が沈む前の一時の光りの輝きにすぎなかつた。
かくして、世は明治維新となつたのである。(続く)
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