禅と武士道(二) ~高橋空山~
二、禅と武道
兵法
「戦は智なり」といひ、禅ではこの自由な智の動きを、「大用現前規則を存せず」と言つてゐるが、わが民族は、神代から戦術にかけては、他種族よりもはるかに勝れてゐた。神武天皇は御東征にあたり、大阪湾の上陸作戦が極めて至難なのを考へみられ、とほく熊野から上陸し、奈良平野の兄磯城や長髄彦の軍を近代戦術の如く「正を以て合し奇を以て勝つ」といふやうに、背中と側面から攻撃し一挙に殲滅せられた。また、日本武尊は、川上梟師の「淫楽を輔け」て虚に陥れ、これを刺したまうといふが、これらによつて、上代は兵法の智略が勝れてゐたことを明証するにたると思ふ。
その後、志那から兵学が入り、鎌倉時代以後は禅の影響をうけるものが少なくなく、まづ心を練ることを第一義とし、虚実正奇などを計る知謀はこれによつて深められるとされた。北条時宗・楠木正成などは、すなはちこれに拠つた人々である。下つて戦国時代になると、益々この傾向が深くなつた。時の将軍義昭を始めとし、織田信長・武田信玄・北畠具教などの兵学の師であり、後に従四位下武蔵守に任ぜられ、天下兵学師範家となつた上泉伊勢守秀綱の如きは禅を天妙禅師に学び、「心の心」をもつて、かれの兵学における根本としてゐる。かれが実際にこれを用ひた例としては、武田信玄が自ら大軍を率ゐて、かれが拠つてゐた箕輪城を攻めたとき、この「心の心」によつて、甲州勢が「佚して労す」る虚を見はかり、城から出て、「待中懸あり懸中待あり」とばかり懸引自由自在だつたので、さすがの信玄も手の下しやうがなかつたといふ。また山鹿素行は兵学を北条氏長にならひ禅を隠元禅師に学んだ人であるが、あるとき人々が、読心術を行ふ僧をかれにあはせると、その僧は一語もいはないので、人々が素行にこれを尋ねると「もし一言でも、自分の思つてゐる事を言つたら、抜打にしよう」と考へてゐたと言つたといふが、これは兵法における「未発を撃つ」ものであり、禅における「斬は機前に在り」といふ明察である。
素行と同門だつた宮本武蔵も禅を深く学んだ人であるが、かれが佐々木岸流をうたうとしたとき、わざと時間を遅らせ、岸流をして、兵法にいふ「久しき時は兵を鈍し鋭を挫く」といふ虚に陥らせ、岸流が怒つて鞘をなげすてると、「岸流まけた」といつて、「怒るものは撓し」「円石を千仭の山より転すが如き勢ひ」でこれをうつたといふ。
また禅僧といつても良いほどの上杉謙信は、川中島の戦で、兵法にいふ「知り難きこと陰の如く」に鞭声粛々として夜、河をわたり、「備なきを攻め、その不意に出づ」とばかり、自ら馬を走らせ、信玄に肉薄し、大兼光の刀を振りかぶり、「如何なるか是れ剣仭上の事」と叫ぶと、信玄しづかなること林の如く、「香炉上一片の雪」と答へたといふ。これまさに、兵法と禅機との両様の戦と称すべきである。以上のやうに、兵法における虚実正奇などの智は禅定より出でて、いよいよその精妙を得るにいたつたのである。
武術
「闘は勇なり」といひ、武術は禅でいふ「不退転の大勇猛心」をもととするが、わが国における神代からの剣法は防ぐことや退くことがなく、先々の先による攻撃一方の豪撃と称するものであつた。
かれらは、平素、素振すなはち古語の太知加伎をしてその業をねつたといふ。これが奈良朝のころになると、防ぐことに勝れた支那武術が入つて来たので、これを採りいれ、攻防一致させ、攻める身に寸分の隙もない即ち禅でいふ「陽も入らざるもの」にしあげた。この先をとり露堂々と敵に真向になつて、電光石火つき進み、敵を頭からま二つになれとばかり、真甲空竹割にし、微塵もそれたり曲つたりしないところは、禅で「一刀両段偏頗に任せず」と、いつてゐる処にあたる。われが真直なのに、敵が少しでも曲つてくれば、それは列車が進行してゐるのに、横あいからぶつかるやうにはぢかれてしまふ。したがつて、この業は、心が正しくないとできないもので、ここに平常における行が正しいことが必要となり、また戦が正義から出なければならないわけが存する。さらに、これを禅的にいへば、わが死を怖れたり、あせつたり、慢心したりする妄想をすて、己を空じてかからねばならない。すなはち、「わづかに如何と儗著すれば、身を分つて両段となす」といふ心境に住するのである。それと同時に、敵を怖れたり、あなどつたり、怒つたりせず、これを空じ、「敵はこれ家臣の如く」すつかり呑みこんでしまはねばならない。柳生但馬守宗矩は、これを「一口に吸尽す西江水」といふ禅語によつていひあらはしてゐる。さうすれば、わが心は明鏡止水、すなはち「水月の位」にいたり、敵の動きを未発のうちに知り、先をとつて「電光影裡に春風を斬る」が如く、随処に主となつて、たとへ寝てゐても、「牡丹花下の睡猫児、意蛱蝶にあり」といつた具合に、敵意を明察し、猛然として起つて、一刀両段することができるといふ。
上泉伊勢守は、この一刀両段といふ禅語をとつて、そのまま業の名にし、これを修行の第一歩として居り、伊東一刀斎は、鎌倉八幡宮に祈願してその帰途、後から襲つた者をふりむきざまに真二つに切りすて、そのとき真の無念無想の一刀両段を豁然として悟つたと、いはれてゐる。また、もつぱら先をとることを尊び、「勝は鞘のうちにある」といつた居合の開祖林崎重信は、父の仇にあつた時、一礼して頭をあげしなに、すでに敵を真二つにしてゐたといふ。それから、上泉伊勢守を流祖とする直心影流は、代々剣禅一致をとなへたが、榊原健吉は上野の戦のとき、輪王寺の宮、すなはち後の北白川宮能久親王を背負ひてたてまつり、片手で大上段から廿数人を片端から胸もとまで一刀両断したといはれてゐる。この榊原と同門の島田虎之助にまなんだ勝海舟は、後年「自分にとつて、もつとも役だつたものは、島田に学んだ剣禅一致の精神だつた」といつてゐるが、この先をとり直截簡明で勇猛果敢な一刀両断の精神は、武士のとつた政治や日常生活にと及ぼされたのである。以上は、武術における正勢ともいふべきものであるから、つぎに順序として寄勢をのべてみよう。
弓や槍は敵に対し横向きになり、頭だけを敵にむける偏身であることは、人々の知つてゐるところであるが、刀や薙刀でも、偏身になつて、敵の刀槍に対し、体をかはしつつ、敵を袈裟がけに切つてゆく。また水府流の水術でも、敵前渡河するときに、この偏身の業を用ひる。そして、左横向きの偏身を順身といひ、右横向きを逆身といふ。この体をかはし、敵の刀槍をやりすごし勝つところは、暴虎憑河の匹夫の勇をさける大勇の妙用であつて、正勢の一刀両段ばかりではなく、この奇勢があつて初めて全しといひうるものである。兵法における側面攻撃が正面攻撃とともに在するのと等しく、禅に正位と偏位があるのと同じである。上泉伊勢守は、順身・逆身を代る代る用ひる業を、「右施左転」といふ禅語によつてあらはしてゐる。また、田宮坊太郎は沢庵禅師に参じた柳生但馬守宗矩に、花車といふやはり偏身に属する業だけを三年間ならつて、親の仇をうつたといひ、京都の天寧寺の善吉禅師に禅と剣とを学んだ薩摩の東郷藤兵衛は示現流をひらき、薩南健児を鍛へて勇猛な士風をつくりあげたが、明治十年戦争のとき、官軍の兵が薩兵のために脇の下から上の方に逆に切り上げられて死んで居り、この業がわからなかつたといはれてゐるのも、やはり偏身になり脇の下から逆袈裟に切り上げる刀法である。槍では、宝蔵院胤栄が上泉伊勢守や成田盛忠に槍術をならひ、柳生宗厳石舟斎に相談し、鎌を槍につけ、「兵法は寒夜に霜を聞く如く心をしづめ入りこみて勝て」といつて、順身逆身を自由につかつてゐるし、馬術でも小笠原大坪両流ともにこれで弓を射てゐる。つぎに、この体形で敵がすでに切りこんできた時、積極的に一歩出て、受け流したり、払つたりし、わが刀や薙刀を後にふりかぶり、後からまはし逆偏身に転じて敵に切りこむ業があるが、これは廻刀とよばれてゐる。この受け流すのは柔であり、廻して斬り込むのは剛であつて、柔にして剛なる心境でなければならない。しかも、一歩出て受け流すことは特に注意すべきところで、あくまで積極的攻撃心のこもつた受身で、上杉謙信は「能く守る者は、我の守を変じて攻となす」といつており、一刀流では「降るとみれば積らぬ先に払へかし、雪には折れぬ青柳の枝」と教へてゐる。これによつて、武士は平常他の暴言悪行を、かるく受け流す円転滑脱の心境をやしなつたといふ。
なほこの業が、柔に始まり内に剛を蔵してゐた為、女性の性質と共通でありこれを鍛へ深めるにふさはしかつたので薙刀に用ひられた。会津戦争のとき、二十一歳の妙齢の身をもつて娘子軍を率ゐ、「敵にとらはれるな」と叫びつつ、薙刀を水車のやうに廻して敵陣に斬り込み討死したといふ中山武子のその時に行つた「車」といふ業はすなはちこれである。また、上杉謙信が、「鞍上人なく鞍下に馬なし」といひ、人馬同体になり、敵中に「寄輪」「振入」などの業たくみに突き進み、縦横に馬蹄にかけたといふのも、またこの円転の妙をあらはしたものである。
しかし、以上のやうな正・奇の業にとどこほつてゐては、自由な働き、禅でいふ「越格」の働きができない。武士は、戦場で多数の敵を相手にする場合は、「通身これ眼」となつてあらゆる方向に気をくばり、「大用現前軌則を存せず」といふ自由な境地によつて、「四方八面来旋風打」と、縦横無尽に切りたて薙ぎたて突き入らねばならない。上泉伊勢守の師だつた松本備前守政信は、戦場で朝から晩まで切りまくり、誰一人としてこれに打ち向ふことができないので、やむなく敵は槍ぶすまをつくり包囲して、一勢に声を合わせ突き刺して殺したといふ。かれは「天地神明、物と推し移り、変動常なく、敵によつて転化す」と、ここを説いてゐるが、その通りに戦ひつづけたものと思はれる。
かれの弟子の上泉伊勢守は、その衣鉢をつぎ、さらに禅に参じて「いづくにも心とまらば住みかへよ、ながらへば又もとの古里」と、世語を著け、また「心万境に従つて転ず、転処実に能く幽なり」と、この心境に著語してゐる。武士にとつて、この心境は、平常、いろいろな込み入つた葛藤に対し、快刀乱麻をたつが如くに処理してゆくに役だつたのである。
しかし、いかに縦横無礙の働きといつても、全く拠り処のない出鱈目とは違ふのであつて、時・所・位によつて、いろいろの業が設けられてあるのが、帰するところ、ただ一つになるといつて単純化され、実戦のときに、頭脳を徒らに弄することなく、たやすく出来る方法にまとめられてゐるのである。これは、禅において倶胝の一指禅を説いてゐるのと等しく、また孔子が、「わが道、一もつて、これを貫く」といつたのと同じである。
宮本武蔵は多年参禅した結果、これを「万刀は一刀に帰す」といひ、香取の飯篠長威斎家直から塚原卜伝へと伝はつた神道流槍術の印可状に、「一本窮め尽して無本に到る。無本の当体、則一本。月、雲を離れ、大いに虚洞、直に百億を超え根本に徹す」とあり、また禅に参し四友居士といつた柳生兵庫介利厳は、「つづめては、何の習もいらぬなり、ただ一太刀に切るよりはなし」と、悟つてゐる。
以上は、われが武器を持つてゐる場合であるが、自分の武器が不幸にして万一うち落とされて、敵のみが武器を持つてゐる時にはどうしたかといふに、虎穴に入らずんば虎児を得ずといつて、敵の白刃下に飛びこみ、敵の武器をうばひ、逆にこれで敵を打ちとる。これは、禅で「赤手にして人を殺す」とか、「敵馬に騎つて、敵を走らす」といふところで、敵の白刃を少しも怖れぬ大勇猛心と、飛び込む「石火の機」とが必要とされる。
上泉伊勢守は、若いころ、安中城の安中左近を討ちとつて、「上野国一本槍」といはれたが、さらに禅に参じて、無手で敵の槍をうばふ心境「還つて槍頭を把り、倒に人を刺す」といふのを悟り、柳生但馬守宗厳は無刀の業を三年間工夫して会得し、上泉から印可されたといふが、そのとき「万法は無に体するものぞ、兵法も無刀の心奥義なりけり」と、世語をつけてゐる。また、慈恩禅師から剣と禅をまなんだ樋口兼重がひらいた念流では、左手が斬られたら右手で剣をとり、両手が斬られたら、その切り口に出た骨で突き、死なば魂で一念をとほすといふ禅の「無二無三の初一念を徹す」ことを主旨としてゐる。
さらに、彼我ともに武器を持たず、あるいは武器を投げすてたときには、組打が始まるが、その時の覚悟はどうかといふと、禅では「一挙に拳倒す黄鶴楼、一趯に趯翻す鸚鵡州」といつてゐるが、足利時代に信州の長窪勝左衛門によつて開かれあた誠極流では、「無我円空の体、千変万化、勝理おのれにあり」といつて、無我より出る力を強調し、また林崎流では、「扇子𨁝跳し三十三天に上つて、帝釈の鼻孔を築著し、東海の鯉魚うつこと一棒すれば、雨盆の傾くに似たり」といつてゐる。
しかし、武術は「戦はずして人を屈す」ることをもつて、善の善なるものとする。「由基、矢を矯れば、猿さけぶ」といつてゐるのがまさにこの処である。日置の開祖の日置弾正は、合戦のとき、かれの矢面に立つものがなく、矢種がつき、敵が襲つてくると、弦だけを鳴らし、「えい」と気合をかけ、敵を逃げちらしたといふ。また山岡鉄舟は、禅に参じ「両刃鋒を交へて避くるを用ひず」といふ洞山禅師のいつた五位中の兼中至を悟つたときに、敵は道場の隅まで一太刀も合わすことが出来ずに退いたといはれる。
しかも、更に一歩を進めて、戦意だも起させぬといふ神武の心境に達せねばならない。柳生但馬守宗矩が、虎をにらむと、虎は後しざりして、全くくすんだのは未だこの心境を得たとはいはれない。
そのとき沢庵禅師が向ふと、虎は猫のやうに喉をならして喜び、頭をなでられて、ねころんだといふが、ここに至らねばならぬとされてゐる。宮本武蔵が、晩年刀をささずまる腰でゐたといふのは、この心境を得たものである。禅においては、洞山禅師のいふところの五位における最後の位である兼中到がこれであり「了事の凡夫の境地にいたつて、初めてこれが手に入つたといふべき」であらう。直心影流では、「思ひなく、また恐れなき心あらば、虎さへ爪を置くところなし」といつてゐる。ここにおいて、武術の極地は和であるといひうる。
以上、武道によつて得た精神を要約すれば、先を尊ぶ攻防一致の攻撃精神に始まり、円転巻舒の妙用となり、敵に近づいては、これを投げ棄て、或ひは逆に敵の武器を奪つて倒し、肉体が切られたら魂で勝つといふ不退転の大勇猛心となり、この武備あつてこそ、初めて敵の計を破つて戦はずして勝ち、またその究極として、戦意だも起させぬ神武となると言ひうると思ふ。では武備あるものは文事ありで、次に文事をのべる。
(続く)
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