禅と武士道(三) ~高橋空山~

文と禅

武士が戦のうちに養はれた心構へが、平和なときに、いかに倫理なり物質生活におりこまれたか、また逆にいへば、戦時にそなへるため、いかに倫理や生活がなされたか、いま此の平常における心構へを文事といふ題によつてすこしばかりのべてみよう。

一、一般精神

戦はこれ正戦でなければならぬ。

大義名分をつよく主張することが飽和点に達し、爆発したとき、そこに戦がおこる。即ち死をもつて、あくまで正しさをいひはることが戦である。ゆゑに、勝敗は時の運、もし肉体が倒れたら魂でもつて正しさを敵に教へる、とまでいふくらいだから、武士道の基本精神は、「ただしさ」であるといひうる。この正しいといふことを分解してみるとつぎの三つになる。


一、清らかなこと

二、真直なこと

三、直きこと


いま、この一つ一つについて、禅がいかにこの精神をふかめていつたかについて述べる。

一、清らかなこと

神武天皇は禊をなされ心身を清らかにしてから戦にのぞまれたといふことであるが、心身を清らかに清めてから戦にのぞみ、また平素、緊張したことにあたるのはわが民族の習慣である。ことに、武士においてはこれが強くもとめられた。

禅もまた、清浄をもととする。すなはち、「如来清浄の禅」といひ、坐禅は心身を清める修行法である。

坐禅をしてゐると、初めのうちは、坐禅しない時より以上に心がザワめき、いろいろな考へがとりとめもなく次々と秋の浮雲のやうにながれてゆく。そして、しまひにはボンやりしてきてねむくなる。これをとほりこすと、めがさめたやうに、さはやかなそして「清らかな」気分になつてくる。

この清らかな気分は、素く、潔く、純い気分であるがこれをまた、澄んだ気分ともいふ。澄むとは、素むこと、空くこと、進むことで、すがすがしく、濯がれた心である。

この空いた心とは、いひかへれば、空になつたことである。これを禅では、空(sunyata)といつてゐる。また別に、ざわめきや色々の考へが消へたといふところから、涅般(nirvanaとは消滅の意)ともいつてゐる。この空な心は、かるがるとした気分であり、また輝かしい明るい気分でもある。これは、輝かしい鏡であり、物事がよく写り、また、よく鑑みることができるものとなる。かやうな心境を、真如(tathataとは、かやうにとの意)といふ。

道元禅師は、ここのところを濁りなき 心の水に すむ月は波もくだけて、光とぞなるといつて、鎌倉武士にをしへた。

要するに、睡眠不足や過労、悪に走つた不快などのボヤけた心でなく、頭がスツキリして、胸が空になつた健全な精神からくる思想は、やはり健全であり判断が正しくすすむことは当然である。しかも、この健全な心がより健康になり、さらに強健になり、それが高揚され、磨かれて、つひに聖化してゆき、聖者仏陀(Buddha)と近くなつたときは、一切の精神作用が正鵠をうるやうになり、心のままになして、則をこえぬことになる。だから、禅における正は、荒鉄の粗雑な正でなく、とぎすまされた刀のやうな聖なる正である。これを、正智・正思惟といひ、また妙有ともいふ。この心の正しさは、生活の正しさからくる。「浄慧は浄禅に由り、浄禅は浄戒に由る」とはこのところであり、栄西禅師が護国論で、他宗と武士とに警告をあたへた点である。

さて、武士の正しい生活は、清浄で質素なところから来る。かれらは戦場で、生命はすてるべきもの。あすをも知らぬ身が、平生財をたくはへて、また何かせんと考へた。それに、戦場で困苦欠乏にたへなければならないから、平素衣食住において、これを慣らさねばならない。生活が清浄であり、質素なのは、ここに原因し、必要上うまれでた徳目なのである。

そして、三衣一体よりほかに何ものをも持たず、一身雲水の如く、悠々として去来にまかせた禅僧をみた武士たちは、それに共鳴し、また感化された事が多かつた。

北条時頼は、足利義氏に、鮑と鰕と欠餅をだしてもてなしたが、かれ自身は平常味噌をなめて、食事をとつたといふことであり、織田信長は、藁で髪をたばね、舅の家で味噌汁をたべたとき、甘かつたので、「やがて、この家は亡ぶだらう」といつたとのことである。また、片倉小十郎は、「城中の者は、一切綿服着用のこと」とさだめてゐる。以上の三人は、ともに深く禅僧の感化をうけた人々である。

この禅僧の質素は、ありし当時のシヤカの趣とまつたく同じであり、その根拠は空の思想からきてゐる。すなはち、心を空しくしてゐて、そこに写つた表象は妙有といひ、また第一義(Paramatka)ともいふが、食の第一義は体を養ふにあり、衣は寒暑をふせぐもの、住居は雨露をしのぐものである。それをまもつて禅僧は質素であつたのである。

しかし世に、水清ければ魚住まずといつてあまりに清らかなことを排撃してゐるが、その水清しといふ水は小川のことであらう。大海の水は清らかであるが、鯨のやうな大きなものまで住んでゐる。また、清らかさを排撃するのでは清濁合せのむといふことにならず、濁だけを合せのむことになる。

しかも、真空は、さらに清く、かつ大である。日月も、真空なるがゆゑに、天空かかつてゐるし、「無一物の処、無尽蔵」といつて禅はここの処を教へてゐる。道元禅師は北条時頼に、世の中に まことの人や なかるらんかぎりも見えぬ大空の色といつて、この端的をさとしたといふ。時頼はこれによつて、真の心の広さ、すなはち度量をえたのである。

二、真直なこと

真直な心とは、真空ぐなことで、やはり、空を他の角度からみたことであるが、また別に、直線的な心であるともみなしうる。直線は剛であり陽であるが、武士においては卑怯を拝する剛毅と未練を退ける明朗とにあたる。また、直線は二点間の最短距離であるから、短であり速であるが、武士においては、直截簡明がこれにあたると思ふ。武士の直截簡明は、戦場において養はれたもの。すなはち、戦場では理屈をいつてゐる暇がなく、拙速をたつとび、禅的な撃石火閃電光で物事を処理してゆかねばならないから、いきほひ、直截簡明にならざるを得ない。これが平常の生活や政治にうつして用ひられたことはいふまでもないこと。また戦場では、全身全霊をあげて真剣に戦はねばならないから、おのづと平常も真剣な態度になり、武士に二言なしといふやうな、信義をまもり約束をたがへない真直な心となつた。

また武士は、真直な精神を主張するにあたり、死をもつて抗争する。剣法において、大上段から真直に敵を一刀両段してゆくことが最初の業であり、そして最後の極意とされてゐるのは、この真直な心が形にそのまま現はされたものである。

剣禅一致してゐた柳生但馬守宗厳は切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれたんだ踏み込め 神妙の剣とうたつてゐるが、かく武士にとつては地獄もなく天国もない。生もなければまた死もない。たんだ踏み込む真直な心、真直な剣よりほかに何ものもないのである。それは、吉田松陰がいつたやうに「倒れてもなほ止まない」ところの真直なのである。

邪な心から来る剣は、横しまから出るもので、それは真直に爆進してくる汽車に横からくるものが、はぢき飛ばされるやうにはぢかれてしまふ。この真直な心を明極禅師は、「両頭倶に裁断し、一剣天によつて寒じ」と(すなはち生死の両頭をかまはず、ただ真直に進むことを)楠木正成が湊川で戦ふ前に教へたといふ。

また、関山慧玄国師に、ある武士が生と死とのことをたづねると、国師は「慧玄には生死といふことはない」とこたへていたといふが、まさにこの端的を教へたものである。それから、元艦が筑紫の海にまさに押しよせようとしたとき、祖元禅師は北条時宗に向かつて、「ただ進前のみ」と叫んで勇を鼓してゐる。かくして、戦時において養はれた生死を超脱する精神は、平時の臨終においても用ひられた。すなはち、北条時頼の如きは、「業鏡高く懸く三十七年、一槌に打破す大道坦然」といつて、寂然として大往生をとげてゐるのがその一例である。

三、直きこと

なほき心とは、素直なこと、和やかなこと、滑らかなことである。この和やかさの、形にあらはれたのが礼である。礼は、己が心をゆづりあひ、空にしなければうまれてこないもの。

そして、武士の礼法は小笠原家によつて百丈清規を参考にしてつくりあげられたのであるから、その思想の一半は禅的な空の思想によつてゐることはいふまでもない。

また、素直な心は忍ぶ力ともなる。一時、己を空にして、他のみを自由にはたらかせる心、しかも、他が己に不利なことを強ひるとき、これをジツと忍ぶことは、素直な心、空な心のあらはれである。

ことに、武士は困苦欠乏に対し耐久力がなければ戦場でやつてゆけない。これ禅に参して、空に徹し、さとりを深めていつたところである。それから、直き心は、また撫でいつくしみ、平等び、馴れしたしみ、懐つく心、他と昵む心、己を空くした心持である。そして、武士の情は、かういつた気分からうまれてくる。すなはち、己を空しくして、人の身になつてみるときに情がわいてくるのである。だから、武士の情とは、空に徹することによつて生ずると言ひうる。武士が禅に参じて、空の思想に徹して、おのが情をふかめて行つたことは、これによつてうなづかれると思ふ。上杉謙信が、武田信玄に塩を送つたことは皆人のしつてゐるところ。明智光秀が、信長の首を地に投げすて土足で踏んだのは悪逆であり、かつ情をしらぬものといはれてゐる。また、雲居禅師にふかく帰依してゐた伊達政宗は、朝鮮兵の耳をきり取つてきて、手厚く葬つていはゆる耳塚をつくつてゐる。

また、直き心とは、直す心といひうる。すなはち、戦は敵の不正を直してやるために行はれるものである。元来禅で「不殺生戒」をかたく守るべしとおしへてゐるが、しかし、臨済は「仏に逢つては仏を殺し、祖に逢つては祖を殺し、羅漢に逢つては羅漢を殺す」といつてゐる。この殺すとは、直接手を下して殺害するのではなく、これを空ずることである。そして、「他を空ぜんよりは、己を空ずるにしかず」と、その次にをしへてゐる。かくして、次には真の君臣一体、父母と子と一体、万物と一如になること、すなはち、己が身を殺しても正を生かす大慈悲を教へてゐるのである葉隠論語に「獄にも落ちよ、奈落にも沈め。鬼神をあまた相手にしても、片はしより、薙で切りにする気象肝要なり」といつてゐるのがそれである。すなはち、正しさによつて、敵を殺すのは敵の不正な魂を殺して、正しい魂にかへしてやること、菩提に入らせる大慈悲のあらはれで、ただ殺すために殺すとか、けがれた欲のために殺人鬼となるのではなく、敵を真直な心に直すための止むを得ない最後の手段なのであるとの意である。そして、シヤカも「大乗の道をまもり通すためには、たとえ兵杖をとつても、自分はその人が戒法をやぶつたとは認めない」とさへいつてゐるほどである。

かやうに、あくまで敵を正しくしてやるために殺すのであるから、殺した敵に対しては菩提をとむらふ、すなはち、あくまでも正しからんことをねがふのである。これが、武士の真の情、つよい情なのである。この心は畜生にまで及ぼし広げられて、「汝もまた速やかに、めざめよ」(南無畜生頓生菩提)といふやさしい言葉となつた。また直き心は、風流ともなる。武士は、風流を解しなければならないとしたが、この風流こそは武士の芸術における基礎観念である。いつたい、空はしばしば、何処よりか来り、何処かへ去つてゆく風の流れにたとへられ、武人は、その空なる色なき風にまかせて心を遊ばせること「一心雲水のごとく去来」すといつたやうにし、またその空なる色なき風をたのしみ、「清風匝地 何の極かあらん」といつて、総体として、こうした涼しいさはやかな気分をもとめる。この空なる風の流れを味ふ如き気分を風流といふ。たとへば、武士にのみ奏することが許された普化禅宗の尺八で、「色を以て吹く可らず」としたのや、武術の根本体形のサシ・ヒラキ・順身・逆身から脱化した能などが好まれたのがそれである。

そして、風流の念が深められて行くと、そこに幽しさが生ずる。幽しいと言ふ言葉の語源は行くこと、すなはち風流の深さに入つて行くことであると解せられる。

この幽しさをあらはしたものに芭蕉の俳諧がある。かれが仏頂禅師に参し、悟つたときの言が「古池や蛙飛び込む水の音」の句だといふ。それから、この風流に、わびといふのがある。茶室などがそれであるが、けばけばしい色彩がなく、質素で清浄、しかも雅味があるものであるが、それにつかふ器具を大切にし、これを磨きよく保存してゆくことなどを教へたのは禅僧であつた。また風流は閑寂さでもある。禅の閑寂は、その心境を反映する生活から来てゐる。すなはち、禅寺は、竹林や松林にかこまれ何等の飾りもなく、インドにおけるシヤカ在世当時の森林生活にもとづいており、寺(aranya)といふ意味の正統な解釈の「閑寂な処」といふ言葉どおりに設けられてゐる。この観念によつて形づくられた建築形式が書院づくりであるが、これが、武士の家をつくるにあたつての形式となつた。

また、シヤカが露地(ajjhokasa)に弟子をあつめて懺悔させ、心を清らかにさせてゐるが、これを採つて茶庭に入れ、やはり露地といつた。また風流は、現世にゐて、現世の迷ひやこだはりから脱け、さぱさぱし灰抜けのした心境で、現世を客観しつつ処して行く酒脱、禅の解脱(moksa)の意となる。これによつて、自由自在、しかも則をこゑぬのを円転滑脱といふ。

上にのべた幽玄・閑寂・侘・酒脱・円転滑脱などを総称し、別に禅味ともいふが、とにかく、これらが、武士の風流心を深めていつたことはあらそはれぬ事であると思ふ。

以上のべたことを要約すれば、正しい心とは、清く、真直な、直き心であつて、これを一言でいへば真心となり、禅的にいへば、真空妙有となる。

さて、これが生命の発展、すなはち神人・君臣・祖孫・夫婦・親子・師弟・兄姉弟妹・朋友・主従間において、いかなる作用をなしたかに付いてのべることにしよう。

(続く)