禅と武士道(四) ~高橋空山~
二、倫理
一、神と人
わが民族のとほい祖先は天照大神であり、天照とは、太陽系における日のやうに、もと・はじめ・統制者であるとされ、諸々の星が太陽から分かれたやうに、我々の祖先は大神の御直系なる皇室の御血をうけてまつつてゐるとされてゐる。それで、血のうへに根ざすしたさを以つて、大神に対したてまつつてゐるわけである。それで、古から、一生に一度は伊勢参りをすることにしてゐた。それは、おのが身と魂との故郷を愛み敬ふ心の表現である。中江藤樹は「孝は太極に到る」といふことを自ら実行し、伊勢神宮に参拝することを念願としてゐたといふ。また、鎌倉幕府がさだめた貞永式目の第一条には、「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」といつて、鎌倉武士の第一歩の実戦は敬神であることを示してゐる。十万の蒙古勢が潮のやうに筑紫の海にせまつたとき、亀山上皇は御身をもつて敵国降伏をいのらせたまうたが、北条時宗の師なる祖元禅師は、「一句一偈、一字一画、悉く化して神兵となり」敵国を降伏させたまへと祈願した。なほ、禅は「心より心に伝へる」すなはち、人格に接し人格を練るといふ宗旨なので、崇祖の念あつく、その開祖シヤカを他宗よりも尊び、これを祭る儀式は法灯仄ゆらぐ仏殿で厳かに修せられるが、これは武士の眼に深く崇祖の念を焼きつけた。また、禅は現実を尊ぶので、印度が本でわが国の神々はその末だなどと言ふ本地垂迹説を採らず、神は神として、神仏混交することなく、鎌倉五山の禅僧の如きは皆等しく鎌倉八幡宮を崇敬し、徳川時代には、天瑞禅師が、幕府は政権を奉還するやうにと、寒水を浴びて伊勢神宮に祈つてゐるほどである。これらによつて、禅僧は敬神思想が深かつたことがしのばれると思ふ。
二、君臣
大君はわが民族の総本家、すなはち大御親であらせられるから、この大御親につくしまいらせることは孝といふべく、また忠ともいふべきであり、わが民族のやうに家族から発達していつたものに、初めて忠孝一本であるといひうるのである。それで、葉隠論語には、「忠孝といへば、二つの様なれども、主に忠節をつくすが、即ち孝なり。しからば、忠一つに極つたり」といひ、また「忠孝を、つくさんが為ばかりに形を現し生まれ出たものと、知るべし」とさへ言ひ極められてゐる。実に、心身をなげすて、己を空しくして、ただひたすら、大君につくしたてまつることは武士としての最高徳目であつた。
世に、鎌倉武士は、真の忠を知らぬといはれてゐるが、源頼朝は、「武士といふものは、僧などの仏の戒を守るなるが如くにあるが、本にてあるべきなり。大方の世のかためにて、帝王を護り参らする強者なり」といつて、佐々木定綱をさとし、また悪七兵衛景清が、かれに仕へることを心よしとしなかつたとき「お前は、大君につかへてゐる自分にまた仕へるのだから、間接に大君につかへることになるのだ」といはれて一言もなかつたといひ、その子の実朝は、「山はさけ海はあせなん世なりとも、君に二心われあらめやも」と叫んでゐる。北条義時でさへ。承久の乱のときに、泰時に「玉輦には弓をひくな」と厳訓してゐる位だから、やはり鎌倉武士は、「海ゆかば、水づく屍、陸ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、閑には死なじ」といふ古からの武士の魂を根底としたことに変りはない。禅はシヤカの正統な思想を継ぎ、実践道徳を基礎とするから、わが国にはいると共に、忠を最高実践徳目とした。栄西禅師は御国論に、仁王経の「仏、般若を以つて、現在・末世の諸々の国王に付嘱す」の言を引いて、禅は大君の御稜威によつて、輝かに展べらるべく、また栄ゆべしといひ、「念々国恩に報ひ、行々宝算を祝す。まことに帝業久しく栄、法灯とほく輝かんが為」に坐禅をなすと高唱し、忠のための坐禅であることを力説した。
また、道元禅師は、北条時頼にむかつて、大政奉還をせまり、法灯国師の一門は、南北朝四代とその運命を共にし、身をすててつくしまゐらせてゐる。それから、足利尊氏にこびて、順逆の道をわきまへぬと非難されてゐる夢窓国師さへ、ある夜尊氏とおそくまで話をしてゐたが、かれが厠に行つたとき、尊氏は、つと坐より立つてきて、国師の手に水を注いでやつたので、尊氏の手を握り、涙ながらに「そのやうなやさしい心をもつてゐながら、なぜ、後醍醐天皇にそむきたてまつるか」とせめたといふ。
それから、楠木正成の師だつた明極楚俊禅師は、宋の人であつたが、来朝の際に、わが国の鳥山が、見えだすと、「日本皇帝万歳と高らかに三度となへた。この心あつてこそ、楠木正成をして湊川で迷ふことなく従容として死につかせ、後醍醐天皇に生命を捧げまゐらせ得たわけである。正成は、兵学者であり才智の働き過るほど働く人、死に直面して迷ふのは当然であらう。それで、かれは兵庫の広厳寺に赴き、禅師に、「生死交謝の時如何」とたづねた。すると禅師は、「両頭ともに裁断し一剣天によつて寒じ」とこたへた。
両頭とは、生死、得失、是非、心身といふやうな対立観念のことで、これを棄て去り、ただ己を真空にすれば、自ら道がわかるとの意。正成は、これに従ひ、生死得失の二念を去り、己が心を空にしたとき、湧然として胸を衝いて湧き上がつたのは、「湊川に参りて戦ふべし」といふ山よりも重い君命だつた。ただ此の君命に絶対に従へばそれでよい。生死は大君に捧げまゐらせたもの。かれは、ほんの僅かでも心の動いたのに対し、「通身慚汗滴々」といつて悔いてゐる。かくて、湊川で奮戦また奮戦、合戦すること十六度、身に重症を負ひ、再び起つ能はざるに及び、弟正孝と共に、禅師のゐる広厳寺の無為庵にひきあげ、刺しちがへて倒れた。肉体すでに亡び、これを君に捧げ、精神は「七度生れ変り大君に尽しまゐらせん」とこれまた大君に捧げた。すなはち禅師の言に従ひ、完全に心身を空じて君命三昧、これを守りぬいたといふべきである。禅師は涙ながらに百日、昼夜担坐して、かれの冥福をいのつたといふ。まさに此の師あつてこそ正成ありの感がある。
戦国時代は、勤王心が衰へてゐたと言はれてゐるが、織田信長は忠誠をつくし、また雲居禅師に深く教へられた伊達政宗は、その居城の青葉城と菩提寺の瑞巌寺に御玉座を設けたてまつり、毎朝これを拝してゐたといふ。下つて、徳川家光の幕府全盛期に、天瑞禅師は、伊吹山に六年こもり、かれが歌つてゐるやうに「三宝島も血を吐きて啼く」思ひで、皇政復古を祈り、また各地を遍歴して尊皇をとき、つひに追はれ追はれて九州にわたり、しかもなほ屈せず火食を断つて寒中氷を破り川で禊し、十万の小石に、皇政復古を祈る文字をかいて、土中深く埋めた。その一つに「皇民力を合せ忠を尽す臣となり、幕府は速やかに政権を奉還し、以つて宜しく忠良の臣となるべし」とある。
なほ、各禅寺では、須彌壇に「今上皇帝聖寿万歳」の御牌を安置して、朝夕祈願を捧げる位だから、禅が尊王精神を根底としてゐることは、武士と同じであることが察せられる。
三、祖孫
各氏において、初めて氏をとなへ出した人を氏祖・氏神として各氏族が祭つてゐるが、後世、他氏族が入りこみ、婚姻によつて血族となり、やはり氏神とするやうになり、はては、血族でなくても、産土神・守神として仕へるやうに変つた。
武士は氏神を尊び、優秀な氏族出なのを誇りとして平時その祭りを怠らなかつた許りでなく、戦時は必ず出陣を告げ凱旋を報じ、戦場では「何々何代の後胤何の某」となのつて、その祖先を辱かしめ傷つけぬ働きをなすことを宣言した。
禅家では、「仏に超え祖に越えよ」と修行を励まし、法会の時には、「仏に向かつて説く」とまでいひ、修行が進むにつれ、「子を養ひ己にしかざれば家亡ぶ」と称し、出藍の者にのみ印可した。それで参禅の武士はこれを目のあたり見、その意気に感じ、もつて軌範としたのはいふまでもない。
また、禅家では、各末寺は本山に統率され、ここの禅堂で修行した者が末寺に派せられるので、勢ひ本山を重んずる。そのやうに、武士は各氏の直系である宗家を尊び敬ひ、これを統制者とし、服従し補翼し、これを中心として結束をかためて、家族的に自然な進化をなしてきた。新田氏といひ、楠氏といひ、また菊池氏などがその好例で一部郎党を引き具し、戦にも出てゐる。
そして、宗家は宗家たる力量をそなへてゐなければならないので、宗家の者たちは学問をはげみ、武術をねり、その資格を具へた。この実力によつて、精神・物質ともに、一族のものを助け、また率ゐて行けたので、したがつて、一族の親和力がたもたれたといふべきである。
この宗家の者たちは、鎌倉時代からは、禅寺を建立し、そこで学問を修行した。菊池武時すなはち心空寂阿入道のごときは、聖護寺を建て大智禅師を迎へて、山を下らざること二十年といひ、その子の武重・武士みなこれにならつてゐる。また、上杉謙信は、天室禅師に薫陶され、武田信玄は快川国師にはぐくまれた。
西郷南洲は無参禅師につくこと三十年、その奥位の洞山禅師の五位を悟つたといふが、この無参禅師は、もと久志良村の百姓だつたので、島津侯は、「いかなるか、これ久志良の土百姓」といふと、禅師はしづかに「泥中の蓮華」とこたへたので深く悔いて、それからは禅師について参禅究道したといふ。
四、夫婦
伊邪那岐尊と伊邪那美尊が、初めて水蛭子をうまれたので、太占によると、女が能動的だと言ふことがわかり、それを改められたといふが、古から夫は能動的、妻は受動的なことを求められた。武士は、夫婦互いに分をまもり、行動に干渉せず、よく本然性をのばすと共に、また互いに心を空にして睦みあつた。
そして、禅は病的な邪淫を排し、健全な気分をもつやうようにといひ、妻以外の女は、「一観し再観を労せざれ」とまで説き、目のあたり無妻無欲な生活を示し、邪淫を反省させた。
また女に対し、身を真に与へるのは、夫のみに限るとし、なほ体のみを捧げ、心を捧げないのは、娼婦だと教へた。それで、生命の続く限りこれを守り、もし害さんとする者がある時は、死をもつて抗争した。落城の際、夫に先だつて自刃したのは、夫の勇を鼓舞し、後顧の憂なからしめたのにも拠るが、この「初一念」を貫いたもので、古来から歌はれた「わが夫は物な思ひそ、事しあらば、火にも水にも我れなけなくに」の魂である。また、「世のうきも、つらきも、忍ぶ思ひこそ、心の道の誠なりけれ」と、楠木正成の妻が歌つて、夫に殉ずべき命をながらへ、正行に父の志を継がせたのも、女性の柔にして剛なる貞の精神である。
五、親子
親子は同質であり、親は子の中に住むと観ぜられ、互いに心を空しくして敬愛するのは、道徳実践における出発点で、これを一切時・一切処に拡充し、その極限は、中江藤樹は太極に至るといふ。
無難禅師は「わが身無ければ親に仕へて孝」となるといひ、快川禅師は、武田信玄の不孝を痛烈にいましめ、白隠は、その父母に仕へて至孝、その師の正受老人は、「老母につかへて、つひに信州の庵を出でず」と伝えられてゐる。
六、師弟
武士は、その師をよぶに、師父といひ、師に対しての礼と情とは近日の比ではない。道をたつとぶが故に、それを伝へる師をたつとぶ。中大兄皇子は、斎までして、南淵請安に建国精神をたづね、源義家は、礼をあつくして、大江匡房に兵学をきいてゐる。池田光政が、中江藤樹の家を訪れたとき、ちやうど講義中だつたので、藩主でありながら、玄関の小室に端座し、その講義の終るのをまつておつたといふ。
禅では、心より心に伝へるといつて、人格に接して人格をねり、「一器の水を一器に移す」やうにするのであるから、師がゐなければ、まつたく道がなりたたない。それで、師に対する敬愛は、他の比ではなく、法灯国師の如きは遠くはなれてゐる師に対し、香をたいて、はるかに礼拝してをり、また、弧雲禅師の如きは、師の道元禅師が亡きあと、その木像に対し、毎日自ら膳をすすめ、夏はこれを煽ぎ、冬は火鉢を具へてあたため、生前におけるとすこしもかはりがなかつた。白隠禅師は、師の正受老人と別れるとき、別離の情にたへず涙ながらに走つたといふ。
これらの行は、深く人々の心に、師に対する敬愛の念をやきつけたことはいふまでもなからう。
七、長幼と朋友
兄弟姉妹が互いにむつみ合ふのは古よりの美風であつたが、武士においては、とかく頼朝のやうに、兄弟互いに攻めあつて、つひには一族が滅んでしまつたといふことがおほかつた。大江広元、中原親能などは、この弊をなほすためにも、禅をとりいれたとふ。禅では、宋学によつて、「兄弟墻にせめぐなかれ」と教へたのは勿論であるが、なほ身をもつてつよく示してゐる。すなはち、古参の者を、久参底といつて、敬愛し、その命を絶対的に厳守し、新人の者を新到といつて、古参の者はこれを威と慈をもつてよく指導し、そこに厳然たる長幼の序があり、親和がある。禅寺で学問をし、参禅をした武士たちは、おのづとこの風習をみならつて、鎌倉初期の弊を追ひやつた。
また、武士は「あひみたがひ」といつて、友達同志たすけあひ、平素は勿論であるが、戦場では傷ついた友を背に負うて、敵にまつしぐら斬り込んで行くといつたことをなしてゐる。禅では、同僚のことを同参といつて、非常に親しくし、年老いて、久しぶりに逢つたときなどは、相ともに涙ながらに抱きあふなどと言ふことは珍しくなく、腰のまがつた老大禅師が夜は共に寝ね、徹宵して物語りをしたなどと言ふ話が幾多伝はつてゐる。徳川家光と柳生宗矩とは、ともに沢庵禅師に参禅して、同参だつたので、君臣の間柄とはいへ、特別に親しかつたのはまつたくこの為であつた。
しかも、同参は、互いに尊敬しあひ、決して礼を欠き、埒を出るやうなことはない。白隠禅師のもとで、同参だつた東嶺禅師と遂翁禅師が互いにその長所を讃揚して、東嶺は遂翁の気概をたたへ、遂翁は東嶺の綿密をもめてゐたといふ。
以上によつて、長幼同僚間における禅の影響をうかがひ得ると思ふ。
八、主従
主人に対し、心身を空しくして仕へることをも、むかしは忠といふ字をつかつてゐるが、元来、忠の字は「まごころ」といふ意味なので、いまのやうに、天皇に対してたてまつつての場合だけにかぎられてはゐなかつた。だから、武士は大名や将軍あることを知つて、皇帝に対する勤皇精神がうすかつたと言ふのはあたつてゐない。それは師に対して尽す言葉が別になかつたので、師孝の字をつかつてゐるのと同じである。
上官すなはち大名将軍を通して、皇上につかへたてまつる古よりの習慣をまもりぬいた事には別に変りはない。この明証としては既に忠の説明のところでのべたとほりである。
禅では、己を空しくして、主につくすことを教へ、無難禅師は「わが身」を棄てて「君につかへ」ることを強調してゐる。
そして、禅となつても、旧主に対しての情においては更に変りはない。松島瑞巌寺の開山の法身禅師は、俗人のとき、その主人の真壁左衛門尉経明から、履で顎をけられ、それを深く辱ぢて、入宋し禅の奥底にいたり、北条時頼の帰依をうけた人であるが、晩年主人が、はるばる青森の八戸まで、たづねてきたときに、やはり元のやうに、土下座して経明を庵の上に招じようとしたので、経明もまた涙ながらに座をゆづり、禅師に法をきき、出家して、共々楽しく晩年をこの北輙の地に送つた。この主に対する熱情は、「君辱かしめらるれば臣死す」といふ極限に達する。大石良雄は、禅で心膽をねり、「万山重からず君恩重し一髪軽からず、我命軽し」と刀に刻み、雪明かりに吉良邸へといそいだ。
かやうに、正しく真空な真心の対象が目上の時に、敬神・忠・孝・師孝等の妙有となり、目下の時は、臣・子・弟子・弟妹をいつくしむ妙有となる。
結
武士とは、武を行ふが故にかく称することは、農人が、農を行ふが故に農人と称するのと等しく、武をはなれて武士なく、農をはなれて農人と称し得ないと同じであるといふ建てまへから、本書においては、特に武を強調して述べ、それに与へた禅の影響を述べた。
次に、この武士の根本条件たる武が、いかに、平常におけるかれらの生活を規定していつたか、また禅によつて、いかに生活羅針なる倫理が清められ深められて行つたかをしるした。
要するに、武士道とは雄々しく、正しいものといふを得べく、これを禅的にいへば、真空妙有であると称することが出来る。かくして、武士は古よりの武夫の魂を禅によつて高揚し、たぐひなき道にまで修理固成したのである。(完)
(『禅と文化』昭和十三年 より)
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