竹の響きに誘われて ~普化宗尺八奏者 弾眞空~
弾眞空さん
ダン・アート企画 / 地無し管工房代表、虚無僧研究会終身会員、一般社団法人 東洋音楽学会正会員
弾眞空さんは、普化宗尺八の奏者であるとともに、日本でも数少ない、地無し延べ管(地無し尺八)の製管師です。29歳の頃、尺八のレコード「竹の響き」を聴いて、普化宗尺八に目覚め、インド・ネパールにも尺八修行の旅に出られるという異色のご経験をお持ちです。本日は、弾さんに、普化宗尺八の魅力についてお伺いいたしました。
――――29歳の頃、高橋空山先生の尺八の演奏を収録したレコードである「竹の響き」をお聴きになられて洋楽から尺八に転向されたとのことですが、普化宗尺八の魅力とその時のお気持ちについて詳しくお教えください。
空山先生のレコード「竹の響き」を聴いたときの衝撃は今でもはっきりと覚えています。
若いころは、ジャズなどの洋楽をやっていたのですが、洋楽はテクニックを身に付けても、感覚を麻痺させていくところがあって、いくら上手に音を出しても、自分の心から生れたものには感じられなくて、やればやるほど心と音色がずれていくように感じていました。
しかし、「竹の響き」を聴くと“心と音色が一つになる”ということが理屈ではなく、すっと心に入ってきたんですね。
それは、“絶対と一体となったことによる衝撃”といえばよいでしょうかね。概念や観念による認識を捨て去ったときに、心地よく響いてくる音色のようなもので、言葉では表現のしようのない不思議な魅力がありました。
それがきっかけで尺八を始めたのですが、ギターはどれほど技術を身に付けても一体感を感じることはなかったのですが、尺八は上手く吹けなくても最初から一体感があったのを覚えています。
――――当時のレコードの収録環境では音もそれほど良くはなかったと思うのですが、レコードをお聴きになられても、空山先生の尺八の音色は、他の楽器と明らかに違うことがお分かりになられたのですね。
そうですね。尺八をやっている方でも違いが分かる方はそれほど多くはないように思うのですが、空山先生は禅や尺八、剣などを総合的になさった方でした。これらは表面的に別々のことをやっているようで、実際には全て繋がっているという一体感があるのですが、この一体感が音になっていたように思います。
【普化宗尺八との出会い】 (“響きの自叙伝”より)
昭和60年(1985)「高橋空山 竹の響き」というLPレコードに出会った。1970年にポリドールで録音されて、お蔵入りとなっていた音源を、弟子の藤由雄蔵(藤由越山)が自主制作したものであった。
当時住んでいた杉並区の安アパートで針を落とした。初めて聴く普化宗尺八の音色である。
尺八の音色といえば、正月にマスメディアから流れる「春の海」と武満徹の「ノーヴェンバーステップス」の音ぐらいしか知らなかった頃である。その響きに戸惑いを覚えた。後に、「妙なる響き」云々形容したのだが、正直なところその時は、良し悪し・好き嫌いなどの言葉は一切浮かばなかった。「虚霊」が終わって「真跡」に移る無音状態の時に、金色の帯状の抽象イメージが脳裏に浮かんで、ぐるぐる回っていた。プツン・プツンというポップノイズで我に返る。放心状態のままA面が終わった。ロゴスとパトスの未分状態を実感した瞬間である。
――――洋楽から尺八に転向されるのにはものすごいご苦労があったように思うのですが、はじめは独学で学ばれたのでしょうか。
そもそも尺八の流派に都山流や琴古流があることも知りませんでしたので、楽器屋さんに行って店の人から「どちらの流派ですか?」と聞かれても、全然わからなくて「えーっと」となってしまいました。
「竹の響き」のレコードを聴いたときは、こういう音色を出したいという思いがあったのですが、そのレコードの奏者である高橋空山先生は既にご存命かどうかわからないという時期でしたので、どこに行って尺八を習えばよいのかもわかりませんでした。
その後、30歳の頃に琴古流の東京師範会の先生に学ぶのですが、暫くして尺八一本を携えてインドに武者修行に行きました。
それから帰国して、32歳になった頃に普化宗尺八の伝承者である藤由越山先生の門を叩きました。
――――なぜ、ネパール・インド尺八行脚を決心されたのでしょうか。
私が尺八家を志したのは30歳になってからです。幼少のころから音楽をやっていたとはいえ洋楽が中心でしたので、本格的に普化宗尺八を習得するのには相当の覚悟が必要でした。
ちょうどその頃に知り合ったネパール人が、帰郷の旅に誘ってくれたのですが、私はそれを人生の区切りにしようと思って決行しました。この間に学んだ多くのことがその後の35年間を支えてくれたと思っています。
――――ネパール・インドにはどのくらいの期間いかれたのでしょうか。
半年間くらいでしょうか。一つのけじめというか区切りにしようと思いましたので、仕事も洋楽も全て辞めて、全部捨てるという思いでした。ですので、洋楽やジャズ、クラシックを聴くことも辞めて、民謡やわらべ歌だけを聴いていましたね。2020年にリリースしましたCDの紹介文を書いていただいた柘植先生(東京藝術大学名誉教授)にも、そのことはお話ししました。
【ネパール・インドへ】 (“響きの自叙伝”より)
「竹の響き」を聴いて以来、尺八の音が頭から離れなくなった。
この音楽は、片手間ではできない。
悶々とした日々を送りながら、悶々とした演奏をしていたある日、東京で仕事をしていたケサバラル・マレクというネパール人と知り合った。
そして「今年の秋に故郷へ帰るので、一緒に行かないか」と誘われた。
心身共に分岐点に立っていたこの時期、尺八行脚の第一歩を踏み出した所が、ネパールの首都、カトマンズだった。
ケサバの紹介でインターナショナル ゲスト ハウスに逗留。
バックパッカーの泊まるゲストハウスは、たとえ個室であっても、音は筒抜けなので、尺八を吹くのは専ら屋上だった。ある日、尺八を練習しようと屋上に上がっていくと、五十がらみの男がいたので、会釈をかわして一時間ほど吹いた。次の日も、また次の日も繰り返し・・・三日目にようやく、その男性に話しかけた。
「よく会い、ますね、どちらからきましたか?」
返事がない、不思議そうに私の顔を見ていたが、嫌がっている様子はなかった。
次の日は、彼の方から近づいてきて、何やら手ぶりをした。
“なるほど、てっきり日本人と思っていたが、言葉が分からなかったのか。”と勝手に思い込んだ。
しかし、そのあと渡されたメモを見てびっくり。
“私は、耳の全く聴こえない金子義償というものです。これからインドに入ろうと思うのですが、一緒に行ってくれる人を探しています。”と書かれていたのです。
金子さんは、画家で、少し前に亡くなった後援者の供養を兼ねて旅をしているとのことでした。これが縁で、以後4ヶ月近く、彼と一緒にインドを旅した。
その後、ガンジス川沿いにあるヒンドゥー教の一大聖地、ベナレスに移動。
この地を訪れる日本人バッグパッカーが、一度はお世話になる「久美子の家」に逗留した。
ベナレスの北約10㎞の所に釈尊が初めて教えを説いた初転法輪の地、サールナートがある。この地を最後にクミコハウスを離れて、ブッダガヤへ。苦行で瀕死のシッダールタに乳粥を供養して命を救ったといわれるスジャータの村がある。有名なマハーボディ寺院や悟りを得た菩提樹を訪れた。
ブッダガヤの日本寺では除夜の鐘を撞いた。
<梵鐘というのは、鐘の音だけでなく釣り下げている部分の軋みが程よいサワリ音を発していて、大きさに応じた基音の他数多くの倍音が混然一体となって独特な響きを放つ。子供の頃から梵鐘を撞くことは幾度となく経験していたのだが、1987年12月31日の体験は特別の意味を持った。---というのは、同時に鳴る打撃音・楽音(振動する基音と倍音)・軋みなどの噪音が、それぞれ独立した音として時差をもってイメージできたことと、それが独奏尺八の響きの観念とリンクしたからである。授記音聲曼陀羅「虚空」の音を捉えた!
――――帰国後、藤由先生とはどのようなきっかけで出会われたのでしょうか。
「竹の響き」のLPを買ったときに、「普化宗史」も買ったのですが、「普化宗史」の発行所が普化宗史刊行会となっていましたので、そこに連絡をしたのが藤由先生との出会いのきっかけでした。
インドに行く前にも有名な先生のところに習いに行ったのですが、どこに行っても空山先生の音色はなかったのですね。それで、インドに行ったのですが、帰国してみると、空山先生の尺八を継いだ方は藤由先生くらいしかいないということを知りまして、もうそこに行くしかないなということで、訪ねたのです。
しかし、最初は入門の許可がおりなくて、三回くらい演奏会を聴きに行った際に、“今度、集まりがあるから来なさい”と声をかけてもらいました。
――――入門が許されてからは藤由先生の所には定期的に通われたのでしょうか。
そうですね、新宿に月一回くらい通いましたね。昔の家は離れがありましたので、そこに皆が集まっていました。
現在は千笛会を主催されていていますので、今はそこに通っています。ですので、もう30年くらいにはなるでしょうか。千笛会は縦横無尽に千本の笛を極めようという意味です。
【入門】 (“響きの自叙伝”より)
帰国後すぐに藤由越山師に連絡を取り、教えを請いたい旨伝えたところ、「一度演奏を聴きに来なさい」と云われた。 それでは!ということで<風呂屋の二階コンサート???>なるタイトルだったと思うが、銭湯の二階の広間で行われた会に行き、初めて普化宗尺八の生音を聴いた。
<想像していた以上に静謐で安定した音色は、伝統音楽の神髄を醸しだしていた>
さっそく入門を申し出たのだが、あまりいい返事が返ってこない。
「今度、スペース仙川でライブをやるから聴きに来なさい」ということで、この日の入門は許されず。
今日こそは弟子入りを果たそうと「スペース仙川」に出向いて演奏を聴いた。 演目は「供養」などの普化宗尺八楽と抒情歌のメドレーなどバラエティーに富んだものだった。
終わってから、再び「弟子にしてください」と懇願。 すると先生から質問が返ってきた。
「尺八の筒音がCisの場合、ツの音は何になる?」
???・・・。
ドイツ音名が出てくるとは思ってなかったので、ちょっと戸惑ったが、
「Eです」と答えると、
「ふむ」・・・。
「今度自宅に来なさい」 この日も入門許可は出ず。
昭和63年(1988)4月23日(土)
指定された午後一時、越山先生宅訪問。
すでに稽古が始まっていて、後に兄弟子となる諸先輩方の尺八の音色が中庭に響いていた。
稽古が終わると、先生がおもむろに立ち上がって「今日から田中君が仲間に加わるので、みんなで飲み屋に繰り出そう!」といって、出掛ける用意をさせた。
この時は何が何だか分からなかったが、とにかくこの日、私は藤由一門の門下生となったのである。
――――尺八作りの方もご苦労があったのではないかと思うのですが、どのように学ばれたのでしょうか。
私が製管をはじめたのは、昭和60年(1985)頃からです。
当時はすでに、普化宗尺八を専門とする工房はなく、箏・三味線との合奏や民謡・詩吟などの伴奏をする、継ぎ地の尺八が主流となっていました。
しかし、虚無僧は、尺八奏者であるとともに製管師でもありましたので、“尺八を造作れないと尺八を極めることはできない”という思いから、製管については独学で勉強しました。
虚無僧研究会の先達の方にお願いして、江戸から明治初期にかけて製作された尺八を見せてもらうこともありましたし、製管講習会を主催して、講師にお招きすることもありました。実際の尺八を見せて頂く際には、寸法を測らせて頂いたり、構造を見せて頂いたりすることで、少しずつデータを収集していきました。尺八に使用する竹を求めて全国各地の竹藪を巡ったりもしましたね。東京には大きな竹藪はありませんので、尺八にできる竹を確保するためのつてを確保するのには非常に苦労しました。
――――地無しのべ管の特長についてお教え下さい。
「地」とは、砥の粉と生漆を煉ったパテで、竹の内部に塗って形状を変化させるためのものです。
また、通常の尺八は寸法調節やパテを塗りやすくするために竹を切断して継ぐのですが、それをせずに、そのままの竹を使用した尺八を「延べ管」といいます。このように、地を塗らず(地無し)、切断せず、延べ竹で製作した尺八を「地無し延べ管」といいます。
地を塗って、寸法調節をした尺八が目指すのは「百管一律」ですが、地無し延べ管が目指すのは、竹の自然な状態(癖=個性)をそのまま保って、それを活かすように作り、竹にあわせて吹くことによって、唯一無二「百管百律」の響きを得られることが最大の特徴でしょう。
本来、尺八とは地無し延べ管を指していたのですが、戦後、洋楽が入ってくる過程で、洋楽に協合するようにピッチを洋楽に合わせようとするのですが、その際に、自然の状態の竹では作れないということで、パテを入れたり、継ぐことで、現在の寸法を調整した尺八が作られるようになりました。
――――地無し管の場合、竹をそのまま使用するため、竹によって音色が変わってくると思うのですが、どのような基準で竹を選んでいるのでしょうか。
虚無僧尺八の場合、相対的音程は、合わせる必要があるのですが、独奏ですので、絶対音高はバラバラで良いのです。製管する場合、ある程度、音響学的なことも考慮する必要があるのですが、演奏する場合は、それらを考えると良い音楽にはなりません。吹いていて自然に音色が結びついていくのがよいのです。禅では“無の境地”とうものがありますが、吹くときはそのように吹くのです。そうするとそれまで修業したことが自然と音色に現れてきます。
音楽を始めたばかりの人は良い演奏をしたいということに意識をとられがちですが、そうすると、うまく吹けません。特に尺八は扱いが非常に難しい楽器ですので、余計にうまくいかなくなります。
また竹は本来、形がまちまちで癖のあるものですが、それを個性と考えるのが地無し尺八です。普化宗尺八は百管百律、一本一本ばらばらにつくるのですが、地を付けたものは、個性あるものに対して百管一律にしようとしているように思えます。
聲明(しょうみょう)というお寺の読経でも、お坊さんの声は皆ばらばらですが、声が合わさると美しい響きになりますよね。普化宗尺八は独奏が専らですが、聲明のように数十人が同時に吹くこともあります。そうした場合、我々が真音(しんね)と呼んでいる音色に意識を統一して吹くことで、西洋音楽とは真逆の美しさが生まれます。
――――尺八は先の方が少し曲っているのですね。
竹は大体、山の傾斜したところに生えます。土から顔を出したら上に真っすぐ伸びますので、根元の方が少し曲がります。尺八はこの形状をそのまま利用するのです。
洋楽の楽器の場合、例えば、フルートなども木でつくりますが、先端が曲っていると都合が悪いのでまっすぐな形状にしています。
西洋では自然を支配しようと考えて、都合の悪いものは人間が変えてしまおうと考えるのでしょうが、日本は自然のものをそのまま生かして使うことを考えます。
尺八の歴史は古く、正倉院にも残っているのですが、正倉院に残っている尺八は唐の時代の音楽をやるために作られたものです。そのため、手穴が今のものよりも一つ多くて六つあります。それは唐の時代の音楽をやるのには良いのですが、虚無僧の尺八ではありません。
その後、尺八が雅楽で使われなくなったのが十世紀くらいで、17世紀に入ってから虚無僧尺八として再登場します。その間の700年くらいは僅かな記録しか残っていませんが、楽器は、一節切(ひとよぎり)、三節切(みよぎり)といった虚無僧尺八とは別の尺八が、かなりの数残っています。
現在、室町後期から江戸初期に有ったであろう、過渡期の普化僧の尺八の復元をしています。
――――どのくらいの竹のストックを持っているのでしょうか。
千本くらいでしょうか。地無し尺八の場合、竹藪があれば必ず取れるというものではありませんので、年間に100本取れればよい方です。そのため、尺八をコンスタントに造り続けるにはこれくらいのストックが必要です。
九州には大きな竹藪があるのですが、それでも、良いものは一か所で数本しか採れません。そのため、地無し尺八を残すためには、竹藪の維持・管理を徹底する必要があります。個人レベルの問題ではないので、組織で行政などのバックアップをとりつけて、日本の竹文化全体を盛り立てていくことだと思います。
――――竹を採った後は何年も乾燥させるのですね。
そうです。ます竹を採った後は炭火であぶって油抜きをします。すると青い竹に薄緑の光沢がでますので、一か月くらい天日に干すと白っぽくなります。その後、5~6年間は室内に入れて陰干しを行います。天日干しでは脱色と、最初の乾燥をおこなうとともに、紫外線を当てることで丈夫にします。室内での陰干しでは、繊維の内部の水分をゆっくりと乾燥させていきます。三年程度乾燥させますので、その間に割れてしまう竹も出てきます。
その後は、節をとったり、中を削ったりして形を整えていきますが、設計図があるわけではありませんので、吹きながら調整を行っていきます。
――――道具はご自身でつくっているのでしょうか。
殆どの道具は自分でつくります。買う場合は特注品ですね。小刀類は鍛冶屋さんに頼みます。西東京に「小信(このぶ)」という伝統を継承した凄い職人さんがいますので、特殊なノミや小刀などはその方にお願いしています。
普化尺八の作り手の難しいところは職人としての技術があるだけでは不十分で、吹奏者でもなければならないところですね。パーセンテージでいうと半々くらいでしょうか。工芸家としての技術も必要ですが、ちゃんと吹けないと良いものは作れません。
――――普化尺八はどのくらいのお値段がするものでしょうか。
うちで作っているものですと30万円前後ですね。これくらいの価格帯が標準的なものとなります。また、音には問題がないのですが、傷が入ったものになると「訳あり作品」として値段を下げています。
一方、七節あって手穴がきっちりと収まって、一尺八寸のものとなると、もの凄く高くなります。そのような竹は滅多にないですからね。私が今まで売った中で一番高いものでは100万円というものがありました。
――――禅では自分が悟ったものを書や尺八、剣などで表す必要があるとい伺ったことがあるのですが、禅の悟りが尺八の音色として現れているために一体感を感じるのでしょうね。
ヨガでは最初に“肉体的な鍛錬を行っていないと体が壊れてしまう”といわれるようなのですが、何かを極めようすれば、心身共に鍛錬しないとバランスが崩れてしまいます。
現代では、精神病になったり自殺したりということが少なくありませんが、これらの原因の一つに、バランスの問題があるのではないでしょうか。
日本でも宮本武蔵は剣術だけでなく水墨画も描いているのですが、水墨画の方はそれほど習っていないにもかかわらず、ものすごい作品を残されていますよね。それは、剣術を通して得たものを筆で表現しているからでしょう。何か一つのものが分かると、それが他の分野にも繋がって、“わかる”瞬間があるのではないでしょうか。
以前、邦楽ジャーナルの取材を受けたときに、「この尺八の有名なプロの奏者を紹介してください」と聞かれて「プロフェッショナルという概念はありませんよ」と答えました。普化宗尺八家で演奏を商売にしている方はいません。卓越した技量で、玄人と称される人は居りますが、それを切り売りする所謂プロの演奏家とは違うのです。
虚無僧が吹いていた時代、一般の人は尺八を吹けなかったのですが、普化宗が廃宗になった後は、急速に民族楽器になっていきました。そして独奏だったものが合奏になっていくことで、琴古流や都山流の流れが出てきました。空山先生は明治生まれですが、空山先生の先生は明治維新前の虚無僧です。「普化宗史」はその時代から普化宗全体の歴史を調べて集大成した大著です。信奉者の理想論として読んでしまえばそれまでですが、史実の奥にある真実を読み取ることができれば、普化宗尺八吹奏においても、大きな精神的支えになると考えています。
技は、時代と共に少しずつニュアンスが変化していきますが、磨き上げられた崇高な芸術は、時代の変化に左右されません。空山先生の音は、まさにそれです。
――――今後はどのようなご活動をお考えでしょうか。また尺八を教えたりする予定はないのでしょうか。
普化宗尺八草創期(16世紀後~17世紀前)の吹奏様式を探り、楽譜に起こす作業と、それを吹くための地無し尺八を作っていきます。
また、教えることに関しましては「来るもの拒まず、去る者追わず」で、吹き方・作り方ともに、精一杯指導していきたいと思っています。
弾眞空
【略歴】
1955年 東京生まれ。
幼少より様々な楽器に親しむ。
1978年 故高柳昌行主催の「煉塾」に入塾。Jazzや邦楽を含めた民族音楽の即興演奏の研究・実践を行う。
1984年 故高橋空山の比類なき記録「竹の響き」(LPレコード)を聴き、その妙音に魅せられ一切の音楽活動を中止。普化宗尺八に没頭。
暗中模索のなか、独学で独自に音色や旋法の研究。地無し尺八の製管も始める。
1987年 ネパール、インドへ五ヶ月間の尺八行脚を行う。
帰国後、空山の高弟・藤由越山に師事。
1991年~1994年 スペース仙川企画に参加。薩摩琵琶の吉田央舟と語り芝居の佐月梨乃と共に全国各地で公演。同時に普化宗尺八「地無し延べ管」の製作講習会を開催。
1996年 普化宗尺八楽の理念としての原形を求めて、仏教寺院での吹禅開始。 吹・作・創(演奏すること、その楽器を自ら作ること、温故知新による曲の練り直しと創作)一体不可分を提唱。 毎秋、竹を求めて東北から九州まで、約3000㎞の旅に出る。
2003年 八王子市上恩方町において、日本で唯一の「地無し延べ管」専門の製作工房を開設。普化宗尺八、三節切、一節切、洞簫尺八、古代尺八等を系統的に研究・製作。
2012年~ 彈眞空個展皐月を毎年五月に開催。
2018年 「ワールド尺八フェスティバル2018ロンドン」に招かれ、演奏とレクチャーを行う。
現在、表現としての「吹奏論」・「製管論」・「創作論」の執筆と、普化楽の神髄を伝える吹禅の実践活動を行っている。
Discography
1998年 CD授記音聲曼陀羅「虚空」
普化宗尺八の演奏家で、地無し延べ管の製管師でもある彈眞空のアルバム。普化尺八の理念としての原点をここに表す。普化尺八とは何か、『虚空』を通して今、世に問う。二曲目では一節切を使用。
2003年 「鈴慕」
なぜ鈴慕なのか?と問われても答えられない。 培ってきた触覚が、直感的に選択したのだ。鈴慕に漂う精霊信仰の残響に、私自身が共鳴したのかもしれない。
2008年 「霧海篪」
普化宗尺八楽には、自然の状景を描写した楽曲は無い。本作品も霧海を描写したものではないが、明暗の突き揺り (ツキユリ)や掠り音(カスリネ)を強調した奏法によって、ごく自然に霧海の視覚的イメージと音聲がリンクした。
弾眞空 竹の響 ~未来に託す七つの試み~ ALM RECORDS(2020年 文化庁芸術祭参加CD)
「明治維新」後、日本の文化は大きく変わり、たくさんの伝承芸能等が失われてきた。江戸時代には確かに存在した、普化宗尺八のこの音色・奏法も忘れ去られつつある。散逸していた楽曲を集大成した巨匠高橋空山の音色に魅せられ、高弟藤由越山に学んだ彈眞空は、その響きを受け継いだ。今の私たちには「これ尺八」?と感じるこの音も、あの世の虚無僧たちには「この音が残っていた」と安堵されるだろう。竹を訪ね、竹に聴き、竹管と成す弾眞空だからこその響きが、ここにある。心を澄ませてこの音を聴けば、“竹"の真実が感じられるかもしれない。
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