北海道大學の基礎を築いた クラークさんの思い出 ~高橋 空山~
北海道大學の前身である札幌農學校の創設者ともいうべきクラークさんは一八二六年七月三一日わが文政九年北邊の開拓者近藤重蔵が罰せられようとしていた頃、マサチュセッツ州のアッシュフィールドで產れたが、祖父はスコットランドから來た人で、父は醫者をしていられた。清くして慈しみの深い醫の常として家は極めて貧しかったので、クラークさんは幼い頃から家の手助けをされた。
この醫術の手傳いをしたということが後に科學をえらぶようになった基である。普通學は學僕をしながら修め、アムスト大學は苦學しつつ二十二歲で終られた。後數年の間教師をしていたが「男は小成に安んじてはならない、宜しく大志を抱くべきだ」といって、獨逸のゲッチンゲン大學に入り礦物學と化學を修め、廿六歳で「隕石の化學的成分」という論文を出して博士になられた。同級生には名高いビスマルクが居り共にビールと決闘で痛快を呼び心身を鍛えたりしたという。
やがて國に歸った先生は、十五年間母校アムスト大學の化學の教授となったが、その頃あたかも奴隷解放の南北戰爭が起った。義と情とにあつい先生は、既に三十八、九歲であったがリンカーンに與し、マサチュセッツ連隊長として大いに戰場で勇名をあげ大佐に昇った。北軍が勝って再び平和がもたらされた時、少將にするという內命がくだった。すると先生は「わたしは元より教育者です。もし戰が續いていて必要であるというなら中將にでも大將にでもなります、しかしもう戰のすんだ今日わたしは元の教育者に歸ったのです。教育者は將軍の稱はいりません」といつて堅く昇級をことわられた。これをもつて見ても先生はスコットランド流に花をすて、實をとるという質實さを持つていられたことが窺われる。
そして先生と共に戰に出てたおれた十八歲の少年の痛ましい死を年老いてまで涙をもつて語るのが常だった。そこに一將功成りて萬骨枯るということを深く思われた、限りなくやさしい情の深さが偲ばれるのである。
そして四十歲の時にはアマストに農大を建て學長になられた。先生は若い頃エドワード・ヒッチコック教授の感化をうけ地質・鉱物・化學を専攻されたが、ヨーロッパに行かれた時、ロンドンのキューガードンで、そこで初めて育てられた 南米アマゾン川のヴィクトリアシジアという頗る大きな睡蓮が、美事に咲いているのを見られ、ひどく感にうたれ、これから植物を持前の物理化學から研究されたという。そして時勢に先んじて植物生理學の研究に歩を進められたのである。そして四十七歲の時には「植物液の循環と壓力」次の年には「植物生活現象の観察」という研究を、當時としては珍しく 大がかりな全校をあげての共同研究にし、その結果を發表された。この功によって先生は名譽博士に推され今なお先生を 記念するクラ1ク講堂が同大學に残っている。
クラークさんが日本にくるようになったのには、次のようなわけがあった。
札幌農學校は、もと東京芝増上寺の境內にあった開拓使假 學校を母體とするもので、この學校は北海道の開發を目的と するのであるから、やがて札幌に移轉することになり、札幌 學校と改められ、校長調所廣丈が三十四名の學生を率いて、 御用船明光丸で品川を出帆したのは明治八年六月のことで、同年九月七日には札幌学校の開校式が行われた。
しかし札幌學校を更に高級の専門學校とする必要に迫られ そのため優秀な學者をアメリカから招ヘイすることになり、開拓使長官黒田清隆は、駐米公使吉田清成にその人選方を依 賴した。吉田公使は處々物色のすえ、當時すでにマサチュセッツ州立農學校の校長であったウィリアム・エス・クラーク 博士に白羽の矢をたて、幸いにその承諾を得たのであった。
かくて明治九年五月二十日に五十歳の先生はペンハローとホィラーの二人の弟子を伴われ米を立ち我が國に向はれた。 船がわが國に近づくと富士山が見え出して來た、先生は「Oh! Beautiful Japan!」と叫ばれたといふ。そして開拓使長官黑 田清隆ならびに十一名の學生と共に玄武丸にのって北海道をさして北上された。船の中ではつれづれなるままに學生達は 先生たちの居られる直上の室でドンドン床を踏みならしながら絶えず乱暴極まるバカ騒ぎを演じた。これがしょっ中なのでたまりかねた黑田清隆は怒りの餘り幾度も下船を命じようとしたという。こんなこともあつて黒田清隆は、學生の荒々しく猛々しいしかも行いの少しも治まらないのを深く愛え、グラークさんに「あなたは、どうしてこれを直すお考えです か」とたずねると先生は「バイブルをよませたがよいと思います」と答えた。すると黒田長官は「それは困ります。バイブルをよむことは國で喜ばぬと思います」というと先生は「わ たしは御國の書を知りません。ですから御國の書を教えよといわれるのは無理です。西洋の德育はバイブルが基になって います。これによらなければ德育はできません」といわれ、 共に軍人なので頑として互に言うことを曲げなかった。
しかし先生たちが時々奏された 耳新しい洋樂は、このけわしい気合いを和げるに大いに 力あったのである。
とにかく一行の船は、七月三十日午前11時頃に小樽についた。長官と先生方は、直ちに馬で 札幌に向い」 學生たちは、錢函まで小舟で行き、晝飯をたべ、濱茄子の咲く砂丘やトド 松・エゾ松の原始林五里十一丁を馬で飛ばし、火ともし頃その時まだ二、三千の人しか居なかった札幌の街に入り、新しいしゃれた洋館の學校についた。學校や寮は北一條から三條 西一丁目から二丁目に渡る廣い緑の芝生とエルムの原始林の中にたてられてあった。寮は一室に二人ずつで寝室と机椅子があり、朝夕は洋食で晝だけが和食、服は皆背廣で頭は分け ていて頗るハイカラなものだった。これらの學生は皆で二十四人だった。
八月十日に開校式が行われた。その式辞述べるに當り先生は、欧米においてすら未だ新しい試みであり、したがってまれにしかない農大をここに設けるに至った黒田長官の卓見を心からたたえ、またこの學校が北海道引いては日本全體の農業に貢献する所が多いだろうといわれ、次に「今わたしはここに初めての教育機関を組みたてるためにえらばれました。この尊く楽しい職に大いに努めて、その分前を盡さうと思います。わたしは、學生の規範となり教授となって世に幸をもたらすに最もふさわしい心を啓くことに努めます。黑田閣下は夙に身を國にささげ努めて倦まず、今日その名と位との二つをともに、この上ない榮光と信任とにまで高められました。諸君も閣下の、すぐれた例にならうがよいと思います。そしてその高さまで到ることを学みます。
諸君は各々己が國に勤労と責任そしてこれから產れてくる榮光の最も高い位に適うよう勉めて下さい。健康を保ち情慾をおさえ、従順と勉學のならわしを育て、時に學ぶべきものがあったら學術の何たるを問わず力の及ぶかぎりその知と術とを求めるがよいです。かくしてこそ君らは初めてよく高い位に適うといわれます。高い位は常に正直でエナージックな 人に飢えていますが、その望みどおりには行かないのは、どこの國でもそうであります。
今この盛んな式を眺めますと將來この學校が大成する兆が見受けられます。この學校の極めて幼い時、暫しの間、黑田閣下がはぐくんで下さるなら、北海道のみならず日本全國の尊敬をかちえ、これを受けるに恥かしくないようになると深く確信致します。」
先生は酒もタバコも極めて好きで、そのためわざわざ故國から澤山の葡萄酒・ビール・葉巻などをもつて來られたが、 青年たちの訓育のことに深く思いを致されて、禁酒・禁煙を誓われ、また學生たちにも誓わせて、これらの酒タバコを悉く地に埋め自らその範をたれたのであった。また情慾はおさえればおさえる程、氣力がまし希望が大きくなりエナージックになるといわれ、自らもそうされたのである。そしてクドクドしい學則の草稿をみると「こんな細かな規則でしばっては人間なんぞ出来っこはない、紳士たれ (Be gentleman) これだけで澤山だ」といわれた。これは無規則を欲したのではない。先生は「學校は學ぶ所だから朝起きる時の鐘がなればスグ起き食卓につく知らせがあったらスグ集り、寝る時が來たらスグ灯を消すべきだ。紳士は凡ての規則を重んずるが規則だからやるのでなく凡て己が良心にしたがってやるのだ」といわれたことを思い合わすべきである。
私がこの學校に學んだ時、先生の直弟子の佐藤昌介總長が入學式の折、「私はこれから後諸君を紳士として扱います、それですから此後紳士にふさわしい行いをして下さい」といわれ、二十にも満たない青二才が紳士として扱われるというとんでもないことに當惑もし、大いなる責任を感じたのであるが、この突發事件ともいうべきことに對する深い印象は三 十年後の今日も未だに忘れずありありと目のあたりに浮ぶのである。
黑田長官は、學生の行いがスッカリと改まったので痛く心を動かされ、先生の凡てを信ずるようになり、その主張であるバイブルをよむことを黙認された。それからは毎朝バイブル をよんでから授業を始められた。しかし先生はクリスチャンになることをすくめたのではない。あくまで自然科學者だった先生は「バイブルのうちから眞理を探し出す」ことをすすめたのである。
先生は中肉中背であったが、あくまで威厳があり、そして何んともいえない親しさを覚える人であった。そのことは先生の寫眞をみればよく解ると思う。學生らは南一條東一丁目の本陣にあった先生のお宅に毎夜のように集り、先生のあまたの面白い經驗談や豊かな道德宗教政治經濟家庭戀愛などの問題について承り、また意見を遠慮なく述べ立て、睦み合うのを樂しみにした。ここに學校以外の人世の勉強があり人格がねれて行ったのである。遠く家を離れている淋しさがなぐさめられ、その淋しさのため道を誤って危機にひんすること なく、新しい眞理による家庭の理想と愛情とが解ったのである。先生はまことによき父でもあり母でもあったのである。そしてこの習わしは今も傅わり教授と學生との間に毎夜應接間で冬の夜更けるまで行われている。私は今もこの思い出をなっかしく思うにつれ、それを產んで下すったクラークさん のことを思いだす。
なお私はここにクラークさんとさんづけしていうのをおかしく考えられる方もあると思うから一言のべておきたい。北大では先生のことを蔭でいう時には必ずさん付けで呼ぶ。これは前に述べた家庭的な親しみから來ることは言うまでもない。そして先生は學生を呼ぶ時には姓を呼ばずに太郎君、 次郎君というように親しく名を呼ぶのである。だから師弟の間は全く身內の者のような感である。そして互に悪口や皮肉を飛ばして語り合うが、それでいて心から師を敬っているのだ。
先生の講義は勿論英語でばかりだったので、筆記するにひどく苦しんだが、それを察した先生は毎週夜更けるまで、皆のノートを調べ一々文字や文章を直して下すったという。
しかし先生の講義はノート許りさせるのでなく、學生に自ら進んで研究させ難しい所などは暗示を與え自ら覺るようにされた。
しかし先生は机にばかりカジリついていることをすすめたのではない。氣の鬱するのをさけて寄宿舎から學生を引張り出したり、自ら雪合戰をいどまれたり、大平原と原始林の中 に思うがま」に馬をカッ飛ばして、心を開放させもしたのである。
そんな時でも先生らしいのは科學を全く引き離してはいず、五十になる先生が雪の手稲山に雪中登山を真先になつてやり、自ら四つ這いになり土足で學生に上らせ地衣科の苔を採らせたなどの事は餘りにも有名である。
先生の獨立心の強かったことは類いないくらいで、先生をして試驗管をすてて南北戰爭にしたがわせたのも、哀れな奴隷を獨立させるためだつた。ある時一人の子供が丸木橋を渡 ろうとしているのを見た學生達は危いとばかりに駈けよって助けようとした。する先生はそれをおし止めて子供が全く橋を渡り終るまでジツと時をこらして見守っていたが、渡り終るとともに駈けよって子供をいだき上げ、ほずりしてその勇ましさをほめちぎったという。
先生は午前中は學校に務め、午後からは開拓使の顧問として役所に出て北海道開拓についての數々の重要な進言をした。その頃の北海道はアメリカやデンマークからバターミル クなどの乳製品を入れていたが、これを自らまかなえるよう に牧畜を農家にすすめた。これが今北海道からよい乳製品がでる基となったのである。
また機械農業の基をおいたが、これは內地より一歩進んだ農業だったので、たしかに今も北海道はそうなのである。
明治十年四月十六日西南戰争のさなかに、任期の満ちた先生は、生と共に馬上記念撮影を終って北海道特有の雪泥を馬でけたてながら札幌の南六里の島松の中山久藏宅まで行き、そこで畫飯をたべながら學生とともに色々の思い出に打笑いながら、賑かに話をしつくる所がなかった。かくてはと先生は「ハガキでよいから消息を知らせて下さいよ」と名残惜し げに言われながら南部產の馬に打乘られた。そしてかって先 生が大西洋の波をこえてドイツのゲッチンゲン大學に學ばんとする時に自ら叫ばれた「大志を抱け」(Boys,be ambitious) という名言を後に残し、ふり返りふり返り坂を登って春未だ早い。 疎らな林の間に姿を消してしまわれた。
歸米後は再び學長の職につかれたが翌年これを退き、船の 中で海洋學を研究し講義をうけつ、世界を廻るという (Floating College),を企てられたが、この實際的な新しい計畫は資本不足で出來上らずにしまった。また鉱山研究開發のことも試みられたが、これも未完成に終った。
しかし先生がまかれた種はこの東の國で美事な芽を崩え出しつつあった。學生たちが、宗派を超越したキリスト教の獨立教會をたてたことを聞くとクラークさんは心から喜んでは るかに百ドルの金を届けてくれた。その時の手紙に「私は諸君が、このように早く獨立した教會を日本に打建てようとすることを心から喜んでいます。私がバイブルをよませたのは 決してクリスチャンにしようと思ったのでなく、その中にある眞理をつかませようと思ったからです。私はこんなに早く私の望みが遂げられようとは思いませんでした」とあった。 學生たちは涙をもって喜び且つ感謝の祈りを、胸うちふるわせて捧げた。
先生はビスマルクと親友であった、それにもかかわらず、この友と異って科學の本筋である所の衣食住の研究生產に専ら心をよせられ、これを志す同志を作る爲に教育に力を注がれたのである。そして事志と違い遂に恵まれない淋しい晚年を送るに至られた。そのただ一つの成功はサッポロに残さたことであった。その為、サッポロにおける僅か八ヶ月の生活の思い出が、ただ一つの慰めであったという。この自然科學者であり、そして預言者の如かりし先生は日本を離れてから九年目に六十歲で一八八六年、帝國大學令が公布された年の三月九日にアマストでその生涯を閉じられたのであつた。
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